2017-10

2015・5・18(月)バッティストーニ指揮東京フィル「トゥーランドット」

    サントリーホール  7時

 2日続けて2種類の演奏会形式による「トゥーランドット」上演を聴くという珍しいケースに巡り合ったが、私はプッチーニのオペラの中ではこの曲が一番好きなので、大いに楽しんだ(他のは、嫌いではないものの苦手だ━━特に「ラ・ボエーム」)。

 これは東京フィルハーモニー交響楽団の定期公演で、首席客演指揮者アンドレア・バッティストーニが指揮した。彼は日本の聴衆にお目見えしてからまだそれほど年月は経っていないが、歯切れの良い情熱的な指揮で、すっかりファンの心を捉えてしまっている。

 昨日の宮崎でのそれと同様、熱狂的な演奏の「トゥーランドット」だが、こちらは更に鋭く、激烈で、息もつかせぬほどのダイナミックな力を噴出させた演奏である。たたきつけるフォルティシモはホールを揺るがせんばかり。快速テンポの裡に、切れの鋭いリズムでアッチェルランドを加え、追い込み、盛り上げる。「トゥーランドット」はこんなに激しいオペラだったか?と、呆気にとられるような演奏でもあった。
 打楽器の音量も物凄いが、それはエキゾティズムを強調するがゆえでなく、音楽のダイナミズムをこれでもかと強調するためのものであったことは明らかである。

 バッティストーニは、総じて歌手の声も打ち消すほどの大音量でオーケストラをドライヴしていたが、これは管弦楽が単なる歌の伴奏者に留まるのではなく、それ自体がドラマを物語る性格のものであると認識しての指揮であろう。このオペラでは、それは正しい。
 もちろん、3人の廷臣たちが故郷を想って慨嘆しあう場面とか、リューの歌、あるいはトゥーランドットが愛に目覚める場面など、叙情的な美しい個所も、それなりに生きた演奏ではあった。ただ、聴いたあとでは、どちらかというと大音響場面の方が印象に残っている、といった演奏だったのは事実である。

 非常に興味深かったのは、昨日の広上淳一と、今日のバッティストーニの指揮とで、音楽に盛り込まれた「中国風」旋律の演奏が、全く異なることであった。
 広上の指揮では、全曲に散りばめられたその中国風の旋律が、実に見事に、それらしく浮かび上がっていた。プッチーニが、いかに中国的な主題を巧く取り入れていたかがはっきりと判る演奏だったのだ。一方バッティストーニの指揮では、それらは単なるモティーフとして、全曲の滔々たる流れの中に、組み込まれてしまう。
 それは、東洋人指揮者と西欧人指揮者との感性の違い、ということもあるかもしれないが、それだけでは解明できない問題だろう。かつて「蝶々夫人」での日本の旋律を、日本人指揮者以上に、日本的に浮き彫りにして演奏してみせたシノーポリのような指揮者もいたのだから。

 東京フィルも弦14型だったかの編成で、ピットに入っている時とは比較にならぬほどの強靭な演奏を聴かせてくれた。コンサートマスターは荒井英治である。勢いで演奏している、という雰囲気もなくはなかったが、それはともかく━━ピットでもいつもこういうドラマティックでシンフォニックな演奏をしてくれればいいのだが・・・・。
 P席に位置した合唱は、新国立劇場合唱団と東京少年少女合唱隊で、これはもう昨日とは違い、プロの水準にある━━とはいえ、前者はちょっと粗いところが散見したのが気になる。

 歌手陣。トゥーランドットは、ティツィアーナ・カルーソー。それほどドラマティックな声質ではなく、「氷のような姫君」のイメージの表現でもないが、張りのある声で大音量のオーケストラと拮抗し、題名役としての責任を果たしていた。
 一方、カラフを歌ったカルロ・ヴェントレは、今日はどうも本調子ではなかったらしい。新国立劇場の「アイーダ」での時のようなパワーが、全く聴かれなかったのは残念である。とはいえ、「だれも寝てはならぬ」だけは、ここぞ聴かせどころとばかり頑張った。バッティストーニも最後の和音で音楽を中断し、テノールが万雷の拍手を受けられるようにしていた。

 リューは浜田理恵、この人なら、「可憐なリュー」の表現は完璧である。
 韃靼の前老王ティムールの斉木健詞も重々しい歌い方で役柄を適切に演じ、アルトゥムの伊達英二は、高齢の中国皇帝役にしてはちょっと力強すぎる向きもあったものの、P席後方の高所で朗々と歌っていた。
 ピン&パン&ポンは荻原潤・大川信之・児玉和弘が好演。官使(布告役人)は久保和範がP席で歌い、これは第1幕の方が良かった。ただ一声の役ペルシャ王子は、合唱団の中の真野郁夫が歌ったが、断末魔の叫び声であるからには、もう少し芝居気が欲しい。だがいずれにせよ、脇役までバランスよく整えられていたところが、昨日の宮崎との違いである。

 いわゆる演奏会形式上演だったが、照明演出(喜多村貴)を加えて、多少の劇的感覚が付与されている。つまり、全曲冒頭では、通常の舞台照明で演奏を開始しつつ、次の衝撃的な和音で照明を突然変化させ、オルガンを血のような赤色で染める、といった具合である。
 また、それぞれダンサーが演じるペルシャの王子(和田京三)を舞台前面に、また首切り役人(古賀豊、いかにもそれらしいいでたち!)をP席高所に何度か登場させるという趣向も凝らされていた。

 特に首切り役人の派手な演技は、「処刑」のイメージを出す点で、至極効果的だったと言えよう。終場面で、トゥーランドットが王子の名を明らかにするくだりで、この首切り役人がまたも登場し、王子を処刑せんものと待ち構える身振りをするものの、彼女が「その名は愛!」と告げ、群衆が歓呼するやいなや、がっくりとして消えて行く演技などは、ご愛嬌で秀逸であった。
 演出者の名はクレジットされていないが、石丸楽団長に聞いたところによると、大部分はバッティストーニと歌手たちが打ち合わせて行っていたとのことである。

 休憩は第2幕の後に20分ほどの1回のみ。終演は9時半頃になった。聴衆は沸き返っていた。まさに、大スペクタクルであった。

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