2017-10

2015・4・7(火)東京・春・音楽祭「ヴァルキューレ」(演奏会形式)

    東京文化会館大ホール  3時

 昨年の「ラインの黄金」に続く「ニーベルングの指環」演奏会形式ツィクルスの2年目。充実した上演だった。

 まず、指揮者のマレク・ヤノフスキである。坦々としたイン・テンポを主体とし、誇張やハッタリも皆無で、ただ作品の力を信じてひたすら真摯に演奏を進めるといったタイプの指揮だ。ワーグナーの音楽が持つ力は、そうした率直な演奏の方が生きるだろう。
 第3幕でブリュンヒルデがジークリンデに向かい、初めて「ジークフリート」の名を口にするドラマの歴史的転換の個所でさえも、ヤノフスキは、テンポをほんのわずか引き締めるだけである。

 だが時には、劇的効果を強める手法を採ることもある。たとえば、ヴォータンがブリュンヒルデに屈辱的な引導を渡す「炉辺に座って糸でも紡げ、物笑いの種になれ」のあと、全管弦楽より1拍早く出るティンパニのフォルティシモの冒頭にダイナミックなアクセントをつける方法など、まさにこの神々の長の異常な怒りの恐ろしさを如実に描き、ドラマを見守るわれわれにも強烈な衝撃を与える手法ではなかろうか。
 全曲にわたり、弛緩を感じさせない演奏は、見事なものであった。特に第2幕後半、「死の告知」から幕切れにいたるまでの緊張感は素晴らしい。骨太で滋味のある表現の指揮だから、ここはとりわけ印象的な演奏になっていた。

 これを受けるNHK交響楽団も、見事な演奏をした。かつて「タンホイザー」や「マイスタージンガー」の頃には、整ってはいるけれども味も素っ気もない演奏をして、われわれを失望させていたものだが、昨年からの「指環」では、俄然演奏の密度が濃くなり、情感的な味も加わって、ワーグナーの滔々と押し流れる音楽を感動的に再現してくれるようになった。
 コンサートマスターには、昨年に続きライナー・キュッヒルが客演で来ていたが、彼の存在も大きかったのではないかと思われる(プログラム冊子に彼の名のクレジットもプロフィール紹介も記載されていなかったのはどういうわけか?)。

 オーケストラの音がまっすぐ客席に押し寄せて来なかったのは、スクリーンその他の設置のために反響板が正常な形で置かれていなかったからと思われるが、これは舞台前面に位置する歌手たちの声とのバランスを思えば、まず過不足はないだろう。

 また、1階席24列で聴いた限りでは、木管の動きがかなり明晰に聴き取れた。第3幕の、ヴォータンが「もはやそのあどけない口にわしがキスしてやることはない」という歌詞の背後に、怒りの陰に隠された大神の哀しさを描いてオーボエが上昇して行き、イングリッシュホルンがそれを追い、それらが管楽器群の柔らかい悲痛なハーモニーに包まれて行くくだり、ヤノフスキのさり気ないが神経の行き届いた指揮によって、N響は素晴らしい音色を響かせてくれたのである。

 歌手陣。
 ヴォータンはエギルス・シリンス。昨年に続く出演。若々しい張りのある声で、この大役を明快に表現して聴き応えがある。未だ血の気の多いリーダーといった雰囲気のヴォータン像は、この作品においては悪くないだろう。
 ブリュンヒルデはキャサリン・フォスター。第2幕冒頭の「戦の雄叫び」を聴いた時、この人はこんなに柔らかい声だったかと思ったが、数年前に聴いたハンブルクでの「指環」、飯守泰次郎指揮のオーチャードホール演奏会で歌った「ヴァルキューレ」での同役に比べれば、さすがにその後バイロイトで同役を歌った経験もあって、格段の出来を感じさせた。猛女的、女傑的でないブリュンヒルデ像は、この作品の場合、むしろ好ましいだろう。

 ジークムントはロバート・ディーン・スミス、良い歌手だが、颯爽としたものがないために損をしている部分がある。ちょっと少年っぽい、一途で純真な青年ジークムントといった表現としては好いだろう。
 フリッカのエリーザベト・クールマンもいい。きりりと引き締まって、夫ヴォータンを説得する知的な女神としての役柄を素晴らしく表現してくれた。別れ際にブリュンヒルデへの捨てゼリフを歌う時、歌唱にちょっとひねりを効かせて嫌味を表現するその巧さ。出番は少なくても、強烈な印象を残す歌手である。

 ジークリンデは、ワルトラウト・マイヤーだ。たしかに声には往年の輝きが薄れたとはいえ、それを補って余りある歌唱表現の巧味は、今回の主役陣の中でも随一である。
 第3幕での彼女の最後の歌詞の冒頭、「おお、いとも高貴なる奇蹟!」は、全管弦楽の高鳴りの中で歌われる音楽だが、十数年前にベルリン州立歌劇場の「指環」(バレンボイムの指揮)でここを歌った彼女の、オーケストラの上に美しく浮き上がる神々しいばかりの感動の表現の素晴らしさには、涙がにじむほどだった。今はその時の声は望むべくもないけれど、その法悦的な感動を巧みに表現することにおいては、当時と全く変わっていない。この「救済の動機」が初めて響く個所でのマイヤーの歌唱は、今回の「ヴァルキューレ」の演奏全体を象徴したものであったろう。

 フンディングはシム・インスン、力のあるバスの声は安定感がある。主役歌手の中で彼だけが譜面を見ながらの歌唱だった。
 8人のヴァルキューレたちは佐藤路子、小川里美、藤谷佳奈枝、秋本悠希、小林紗季子、山下未紗、塩崎めぐみ、金子美香。下手の茶色の反響板の前で、譜面台を前に1列に並んで歌った。彼女たちのパートのみ、少しPAを効かせたのだろうか?

 演奏会形式ながら、主役たちは必要最小限の身振りでドラマを表現する。欧米の歌手たちは、これが実に巧い。簡にして要を得た演技をするのである。
 特にワルトラウト・マイヤーは、歌っていない時の演技ですらが、素晴らしい。第1幕でジークムントの歌を黙って聞いている時もそうだったし、あるいは第2幕の「死の告知」の場面で、椅子に腰を下ろしたままの「眠っている演技」でありながら、夢か現か、悲劇的な運命に打ちひしがれた女性の姿を全身で表現しているその「動かぬ演技」は、驚異的でさえあった。真のオペラ歌手とはかくあるべきであろう。この場面が視覚的に引き締まり、劇的な緊張感を最後まで失わせなかったのは、彼女の凄まじい存在感のためもあったと言って過言ではあるまい。

 ディーン・スミス(ジークムント)が斃されて退場する場面は、あれで精一杯の演出であろうが、まず妥当だった。それだけにインスン(フンディング)がヴォータンの一喝で斃され、退場する際に、ただ譜面を持って台を降りて行くだけの工夫のない動作は、この見事な場面を完全にぶち壊してしまい、痛恨の幕切れにしてしまった。
 なお第3幕、ヴォータンが「遠方」から「待て、ブリュンヒルデ!」と凄みを利かせる個所で、彼が一旦舞台に現われてそれを歌い、また姿を消し、再び出て来て娘たちを威嚇するというのは、ここだけは明らかに不自然な舞台であった。最初の一声は袖から歌わせても、充分効果はあげられたであろう。ワーグナー自身がここのオーケストラのパートを、それに配慮して書いていることだし。

 背景の巨大スクリーン(映像は田尾下哲)は、ほぼ昨年同様の演出だ。
 第1幕では歪んだトネリコの幹が立つ室内の光景(壁面は別荘みたいな感)。第2幕と第3幕は岩山と、微かに動く雲。全体にほぼ静止画に近い構成だが、大詰では、高くそびえる岩山の頂上に炎が燃え上がる光景となった。やや取ってつけたような細工に感じられたが、まあそれも一法だろう。中途半端だとか、無くてもよかった、などと言う人も少なくなかったけれども・・・・。
 それにしても、毎年このスクリーン演出には苦心していることがありありと判るのだが、そのわりにさっぱり評判がよくならず、むしろ悪口の方を多く聞く状態になっているのは、プロデューサーや映像担当に気の毒でならない。━━だが結局、どうやっても悪口を言われるなら、最後までこのまま突っ走るしかなかろう。

 字幕は昨年同様、舞台の左右やや高い位置にそれぞれ設置されていた。1階席の最前方あたりではどうか判らないが、少なくとも私の席からは至極見やすかった。
 字幕の担当者名がクレジットされていないが、文章は解りやすい。ものものしく厳めしい表現(ブリュンヒルデがジークムントに「おまえは死ぬのだ」)と、俗語的表現(ヴォータンが自分を「わし」でなく「俺」と)とが混合しているのは、昨年以上だろう。

 「ヴォータンの告別」の冒頭の訳文は、昔は「さらば、大胆な雄々しい娘よ」(西野茂雄訳)、「さらば、勇ある輝かしき子よ!」(渡辺護訳)など格調を重んじたものだったが、日本ワーグナー協会が「今生の別れだ、あっぱれな戦乙女!」(山崎太郎他共訳)という訳を出してからは、くだけた訳文が主流になって行くらしい。前出の「俺」も含め、神の存在が絶対的なものでなくなった現代を象徴すると言えるかもしれない。今回の字幕文は、この「さらば」が、ついに「達者で(に?)暮らせ」になった。

 30分の休憩2回をはさみ、終演は8時近く。

コメント

歌手については、文句無し。ただ、ヤノフスキの指揮は作品に負けている気がしました。

 1階13列右で鑑賞。声楽的には一流の人たちがそれぞれ実力を発揮し、大変聴きごたえがあった。
 オケも充実していた(1-2幕と3幕で金管のメンバーを入れ替えていた)が、今一つ迫力不足。ヤノフスキがオケを締め上げて、金管を必要以上に抑制してしまったのと、東条先生がおっしゃるように映像スクリーン設置で音が充分に客席に届かない。ほぼ同じ席で都響等を聴くときはずっと密度の濃い音がしている。2幕後半や、3幕のヴォータンの告別などでは欲求不満で終わってしまった。
 今後も映像はやるのだろうが、改善先策を考えてほしい。

「あたし」はジークリンデ!

初日1幕の感動を味わいたく、結局二度見してしました…
しかし、感動は二度来ないものですね。(初日:平土間8列/二日目:5階R)

両回とも演奏面では、ヤノフスキのザッハリッヒでドライな指揮が、2幕は異常な緊張感を生む名演でした。胸の大きいクールマンの色香ほとばしるフリッカとのミスマッチ感も楽しめました。

ただし、1幕の汗と体液のまとわりつくような兄妹のねっとり感や、3幕大詰めの近親相姦を思わせる父娘のお仕置きプレイでの投げやり感は弱く、(バレン様を見習って)もう少しセクシーさとケレン味を出してもらいたかった…。特に二日目は、マイヤー様、ローバート君姉妹にも少しヒヤリとする部分もあったような…。

なお、二日目の3幕は、初日の低調を吹き飛ばさんばかりにワルキュー連がハジケ、ヴォータンも若さを遺す荒々しさで、これに煽られたヤノフスキ指揮も珍しくケレン味たっぷりの大柄な演奏に変身しびっくりしました(単に疲れてコントロール失っただけか?)。もちろん小生は後者の肉厚で大味な演奏が私は好みです。

評価の少ない映像演出(田尾下哲)ですが、個人的にはモノクロームの色調が好みでした。1幕の男女のごとく絡み合うトネリコの木、ノートンクを示唆する際に幹の窪みが光る様は女性器を象徴するかのようにも見えましたが…。どうなのでしょう?また3幕の見上げる岩壁、平土間席からの量感は十分で、ヴォータンやブリュンヒルデを押しつぶす指輪(=自然)の力を感じさせ、悪くなかったと思うのですが…。

字幕についてはいろいろありますが、ジークリンデが自分のことを話すとき、「あたし」と訳されていたのは抵抗ありました。“Dies Haus und dies Weib sind Hundings Eigen”(屋敷も「あたし」も、フンディングのもの…)ときては、場末の女を連想させられ、言葉を大切にするマイヤー様ジークリンデとの違和感が大きすぎ少し残念でした。

字幕

当日配布されたパンフには「字幕:広瀬大介」とクレジットされています
つまり公式パンフの解説者ですね
4月4日付の氏のツイッターでは「訂正作業をします」と書かれていました
だから4月7日の字幕は訂正後です
このツイッターを読むと、字幕の言葉遣いは「なるほど」と思います
いかにも今どきですね

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