2017-10

3・29(日)日本オペラ協会 石井歓:「袈裟と盛遠」

   新国立劇場中劇場  3時

 1968年に若杉弘の指揮で初演されて以来、これが6回目の「再演」になる石井歓(1921~2009)の代表作オペラ「袈裟と盛遠」━━私は第2回(1975年上演)と、あともう一つどれかを聴いたはずだが、何か久しぶりのような気がする。

 なかなか気持のいい音楽だなと思いながら、演奏を愉しんだ。叙情的な清澄さにも富んでいるし、打楽器を活用しての迫力も充分だ。といって、石井が影響を受けたあのカール・オルフの作風をなぞるような音楽でもない。それよりもずっと日本的な透明な音色を感じさせる音楽である。

 柴田真郁の指揮するフィルハーモニア東京というオーケストラが、実にバランスのいい演奏を聴かせてくれたし(特に打楽器群は見事な迫力だ)、歌手陣もしっかりした歌唱を繰り広げていたのがよかった。とりわけ歌手たちの日本語の発音が明確なのは好ましく、字幕は使用されていたものの、それを頼りにする必要もないほどの明晰さだった。
 そういうわけで、音楽の面に関するかぎりは、すこぶる手堅い出来の上演と言うことができよう。

 ダブル・キャストの今日は2日目で、歌手の方々の名を刻ませていただくと、遠藤盛遠を豊島雄一、渡辺の渡を小山陽二郎、その妻・袈裟を川越塔子、盛遠の許婚・白菊を山田真里、平清盛を江原実、佐藤義清を川久保博史、呪師を井上白葉、勢至菩薩を望月成美、鬼子母神を西野郁子━━という顔ぶれだ。

 こういう役柄を見れば、すでに物語の内容は見当がつくというものだが、要するに主人公はあの文覚上人の前身たる盛遠で、かつては平清盛の友人、のちに源頼朝を煽って打倒平家の旗揚げをさせた、実在の異色の人物である。ここでの物語は、直情径行型の盛遠が、許婚を持ちながら友人の渡の妻・袈裟に烈しい想いを寄せ、結局誤って彼女を殺める結果を招き、それがもとで出家して行く━━というものだ。台本は山内泰雄。

 しかし問題はやはり、演出(三浦安浩)だ。登場人物が何を考え、何をしようとしているのか、明確でない個所が多すぎる。
 たとえば第2幕冒頭の場面。いつ来るとも判らぬ袈裟を待ち伏せしている盛遠の演技も顔の表情も、とても「恋こそ地獄じゃ」の歌詞にふさわしい心理状態にある男とは見えない。要するに「客席を向いたまま無表情で棒立ち」なのである。
 人の気配を察して身を隠すのも、なんと悠然とした動作か。そしてやっと出会った袈裟御前が、白菊の妨害により走り去ったあとも、やはり悠然と佇立し続け、悠然と姿を消す、という具合だ。

 袈裟が「目の前に現われて通り過ぎて行く」のを「無表情のまま」黙然と見送るシーンは、いちおう幻想場面の設定と思われるが、この場面に限らず、「現実」と「幻影」とが同一の場所━━舞台前面━━で行なわれることが多いのも、イメージを混乱煩雑にしてしまう原因になっているだろう。
 袈裟御前を殺した盛遠の所業を非難する人々や妖怪連中が舞台の両側の袖からその都度ぞろぞろと歩いて来て、ゲラゲラ笑ってはまた引っ込んで行く場面など、何とも学芸会的で間が抜けていて、超自然的な幻影などとは程遠い。その緊迫感のなさたるや、なさけなくなるほどである。

 これ以上、一々不満を述べることの愚は避ける。とにかく昔観た栗山昌良の、日本的な様式感と劇的な変化とを巧みに融合させた風格のあるあの舞台をもう一度━━とまでは言わぬとしても、折角の「第6次再演」だったのだから、いっそ今日的にもっと斬新に鮮烈に、「烈しい恋に生きた男」を描き直してみては如何だったのかな、と思う。
      別稿 音楽の友5月号演奏会評

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