5・12(月)旅行日記最終日
コルンゴルト「死の都」
ウィーン国立歌劇場
今日も快晴、空気が香しい。今回は本当に天気に恵まれた。PFINGSTEN(聖霊降臨祭)の翌日の月曜日ということもあって、ケルントナー街などは今日も観光客で雑踏。
「死の都」は、ザルツブルク音楽祭、リセウ大劇場、ネーデルランド・オペラとの共同制作プロダクションで、ウィーンでのプレミエは2004年12月12日とある。来シーズンにも上演予定が入っているところを見ると、結構人気のあるプロダクションのようである。演出はウィリー・デッカー、舞台美術はヴォルフガンク・グスマン。
妻マリーを亡くして悲しみに沈む青年パウルの役は、以前はシュテファン・グールドも歌っていたそうだが、今回はクラウス・フローリアン・フォークトだった。彼の独特の不思議な「眼」は、遠くからはしかと見えないが、雰囲気は判る。リリカルで、やや優男的な個性がこの役には良く合っているだろう。まっすぐきれいに伸びる声も好い。
マリーとマリエッタ(2役)はアンゲラ・デノーケ、前回に続く登板のようだ。1930年代の衣装で登場する最初(そして最後)と、幻想シーンで悪女として暴れ回る部分とでは、声の出し方も演技も別人のように個性を変えて、すこぶる見事なものであった。
第1幕の基本舞台は大きな居間だが、マリーの亡霊が出現するシーンもパウルの幻想の裡に含まれる。前景で失神状態のまま椅子に横たわる彼の後方(奥舞台)に前景と全く同じ居間の光景が見えてきて、そこでマリーと(もう一人の)パウルが対話する形になる。妙に「本物の」亡霊などが出現しないところがこの演出のアイディアといえるだろう。
奥舞台のそのシーンの最後に、ガストンやジュリエッタら踊り子連中が幽霊のごとくせり上がって来て、そのまま切れ目なしに第2幕の音楽に続いて行くという、これは予想通りの展開だ。
ここでは舞台の居間の形が突然ぐにゃぐにゃと崩れて行き、天井もさまざまに角度を変えて、いかにもパウルの歪んだ幻想を表わすように、部屋全体が大きく歪んでしまう。背景に家が回転しつつ流れて行き、友人フランク(マルクス・アイケ)が屋根にしがみついた姿でパウルを罵るという突飛な光景も、「悪夢」もしくは「歪んだ幻想」にぴったりだろう。
このようなグロテスクな幻想シーンは非常に長い間続くが、最後は予想通り第1幕冒頭と同じ正常な居間の形に戻り、人物も最初の姿に戻って再現する。この舞台は大変楽しく、劇場の舞台機構を生かして、幻想と現実との差異をこの上なく具体的に描き出して見せている。
問題は、指揮者のフィリップ・オーギャンである。この人の指揮はこれまで、一つか二つの例外を除いておよそ良いと感じたためしはないが、今回もうんざりした。
オーケストラをガンガン鳴らすばかりで、ドラマの心理的な表現のニュアンスなど皆無なのである。鳴らすのは構わないとしても、その上に声を浮き出させるという配慮が感じられないのだ。昨夜のウェルザー=メストに比べて何という違いか。幻想シーンでは各登場人物が異常な心理状態にあるためかなり激しく歌っているので声が聞こえなくもないが、落ち着いた歌唱になった時には、フォークトの声もデノーケの声もほとんど聞こえない状態になる(因みに席の位置は昨夜とほとんど同じ、1階 rechtsの10‐15というところ)。
これで、作品の良さが随分削がれてしまった。
しかも、あの有名な二重唱の個所など、オケは荒っぽくて、折角のロマンティックな夢幻の美しさもどこへやら。二重唱でのヴァイオリンのソロはここぞとばかり派手なポルタメントを聞かせていたが、これもいささか粗っぽい(誰が弾いていたのかは見えなかったが、終演後に楽屋からキュッヒル先生が出て来るのが見えたので、おそらく彼だったのだろう)。
ただこの粗さも、全曲の幕切れでは改善され、かなり丁寧な演奏になっていた。そこでの豊麗で、エロティックで、陶酔的な美しさは、流石にウィーン国立歌劇場管弦楽団の本領だろう。コルンゴルトはあの旋律のヒット性を実によく認識していたと見え、それを全曲の最後にもう一度聴かせるという見え透いた手を試み、大成功を収めたのだった。実際、この旋律のノスタルジーは、巧く演奏された場合には泣かせるものである。
ともあれ、このようなオーケストラの音色の美しさをはじめ、舞台の面白さ、主役歌手の充実など、たとえルーティン公演とはいえこれだけの水準を保っているというのは、あれこれ言われながらもウィーン国立歌劇場、やはりたいしたものと言うべきであろう。
今日も快晴、空気が香しい。今回は本当に天気に恵まれた。PFINGSTEN(聖霊降臨祭)の翌日の月曜日ということもあって、ケルントナー街などは今日も観光客で雑踏。
「死の都」は、ザルツブルク音楽祭、リセウ大劇場、ネーデルランド・オペラとの共同制作プロダクションで、ウィーンでのプレミエは2004年12月12日とある。来シーズンにも上演予定が入っているところを見ると、結構人気のあるプロダクションのようである。演出はウィリー・デッカー、舞台美術はヴォルフガンク・グスマン。
妻マリーを亡くして悲しみに沈む青年パウルの役は、以前はシュテファン・グールドも歌っていたそうだが、今回はクラウス・フローリアン・フォークトだった。彼の独特の不思議な「眼」は、遠くからはしかと見えないが、雰囲気は判る。リリカルで、やや優男的な個性がこの役には良く合っているだろう。まっすぐきれいに伸びる声も好い。
マリーとマリエッタ(2役)はアンゲラ・デノーケ、前回に続く登板のようだ。1930年代の衣装で登場する最初(そして最後)と、幻想シーンで悪女として暴れ回る部分とでは、声の出し方も演技も別人のように個性を変えて、すこぶる見事なものであった。
第1幕の基本舞台は大きな居間だが、マリーの亡霊が出現するシーンもパウルの幻想の裡に含まれる。前景で失神状態のまま椅子に横たわる彼の後方(奥舞台)に前景と全く同じ居間の光景が見えてきて、そこでマリーと(もう一人の)パウルが対話する形になる。妙に「本物の」亡霊などが出現しないところがこの演出のアイディアといえるだろう。
奥舞台のそのシーンの最後に、ガストンやジュリエッタら踊り子連中が幽霊のごとくせり上がって来て、そのまま切れ目なしに第2幕の音楽に続いて行くという、これは予想通りの展開だ。
ここでは舞台の居間の形が突然ぐにゃぐにゃと崩れて行き、天井もさまざまに角度を変えて、いかにもパウルの歪んだ幻想を表わすように、部屋全体が大きく歪んでしまう。背景に家が回転しつつ流れて行き、友人フランク(マルクス・アイケ)が屋根にしがみついた姿でパウルを罵るという突飛な光景も、「悪夢」もしくは「歪んだ幻想」にぴったりだろう。
このようなグロテスクな幻想シーンは非常に長い間続くが、最後は予想通り第1幕冒頭と同じ正常な居間の形に戻り、人物も最初の姿に戻って再現する。この舞台は大変楽しく、劇場の舞台機構を生かして、幻想と現実との差異をこの上なく具体的に描き出して見せている。
問題は、指揮者のフィリップ・オーギャンである。この人の指揮はこれまで、一つか二つの例外を除いておよそ良いと感じたためしはないが、今回もうんざりした。
オーケストラをガンガン鳴らすばかりで、ドラマの心理的な表現のニュアンスなど皆無なのである。鳴らすのは構わないとしても、その上に声を浮き出させるという配慮が感じられないのだ。昨夜のウェルザー=メストに比べて何という違いか。幻想シーンでは各登場人物が異常な心理状態にあるためかなり激しく歌っているので声が聞こえなくもないが、落ち着いた歌唱になった時には、フォークトの声もデノーケの声もほとんど聞こえない状態になる(因みに席の位置は昨夜とほとんど同じ、1階 rechtsの10‐15というところ)。
これで、作品の良さが随分削がれてしまった。
しかも、あの有名な二重唱の個所など、オケは荒っぽくて、折角のロマンティックな夢幻の美しさもどこへやら。二重唱でのヴァイオリンのソロはここぞとばかり派手なポルタメントを聞かせていたが、これもいささか粗っぽい(誰が弾いていたのかは見えなかったが、終演後に楽屋からキュッヒル先生が出て来るのが見えたので、おそらく彼だったのだろう)。
ただこの粗さも、全曲の幕切れでは改善され、かなり丁寧な演奏になっていた。そこでの豊麗で、エロティックで、陶酔的な美しさは、流石にウィーン国立歌劇場管弦楽団の本領だろう。コルンゴルトはあの旋律のヒット性を実によく認識していたと見え、それを全曲の最後にもう一度聴かせるという見え透いた手を試み、大成功を収めたのだった。実際、この旋律のノスタルジーは、巧く演奏された場合には泣かせるものである。
ともあれ、このようなオーケストラの音色の美しさをはじめ、舞台の面白さ、主役歌手の充実など、たとえルーティン公演とはいえこれだけの水準を保っているというのは、あれこれ言われながらもウィーン国立歌劇場、やはりたいしたものと言うべきであろう。
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