2017-11

10・2(木)新国立劇場新制作 ワーグナー:「パルジファル」初日

      新国立劇場オペラパラレス  4時

 新シーズン初日。飯守泰次郎の新国立劇場オペラ芸術監督就任第1作、ハリー・クプファー演出による新制作。
 見事な出来栄えだった。大成功である。

 クプファーの演出は、特に旧式でも、過激でもない。ベテラン演出家の、おとなの演出とでもいうべきか。
 今回はセリなどの舞台機構を大幅に有効に使い、劇的効果を出した。この舞台装置を担当したのは、これもベテランのハンス・シャヴェルノッホ。新国立劇場のプロダクションとしては久しぶりに大がかりな、見ごたえのある舞台だった(相当の制作費がかかっただろうと思う)。第1幕や第3幕では、この転換される舞台が轟々たる音楽と合致して、相当な迫力を生み出していた。

 舞台には、奥から手前に向かって傾斜して来る、クプファーが言う「光の道」が設定されている。これはジグザグの形状をしており、明らかに「迷いの道」であることが解る。
 幕が開いている第1幕前奏曲のさなかには、この「光の道」に、アムフォルタス、グルネマンツ、クンドリー、クリングゾルらが倒れている。第3幕前奏曲では、当然パルジファルが倒れている。主要人物全員が、ある救済(たとえば聖杯)を目指しつつも行きつけない、ということの暗示だろう。

 この「光の道」の行く手に、あたかも彼らを待ち受けるように、3人の仏教の僧侶が座しているのが目を惹く。ワーグナーが晩年に仏教への関心を高め、「パルジファル」にも仏教的要素を内含させていることに着目した演出だ。昨年METでプレミエされた映画監督フランソワ・ジラール演出の「パルジファル」もこの仏教的な性格を強調しようとしていたが、今回のクプファー演出はもっと徹底的である。

 第3幕では、その僧侶の存在の意味が明らかになる。前奏曲のさなか、呪いを受けて彷徨い続けて疲れ切ったパルジファルが、道端の貧者から水を分けてもらい、蘇生した気持になって笑顔を浮かべ、礼として自分の上着を貧者に贈る。すると、今まで身動きせずに座っていた僧侶たちが突然立ち上がり、その1人が自分の法衣をパルジファルに与えて、彼を「救う」のである。「愛」への報い、ということだろう。

 そしてパルジファルは、キリスト教の「聖槍」を、仏教の法衣に包んで、聖杯の国に辿り着くのだ! しかも彼はラストシーンでこれを3つに裂き、1枚をグルネマンツに、1枚をクンドリーに与え、残りを自ら身につける。かくしてこの3人は、その姿のまま「救済を求めて光の道を歩んで」行く。キリスト教と仏教とは、かくして共同体となる━━ということだろうか? クプファー、やってくれたな、という感だ。

 この「光の道」の存在は、すこぶる印象的である。映像(担当はトーマス・ライマー)によりさまざまな色に変化、各所がセリで上下し、段差や陥没をつくり、道を時に断絶させる。
 ただ、この「道」、重量のある人物が歩くと、靴裏との摩擦のせいか、常時ミシミシと音を立てるのが耳障りで、それが唯一の欠陥であった。ちなみに、「聖杯の広間」は、その途絶えた道の間の地下からセリで上がって来る。

 音楽。飯守泰次郎の指揮、さすがに滋味のあるワーグナーで、少しも無機的な表情にならず、常にヒューマンな情感を湛えているのが何より素晴らしい。ワーグナー晩年の叙情と魔性を余すところなく再現、「パルジファル」の音楽の素晴らしさを心ゆくまで堪能させてくれた。
 また、東京フィルが予想をはるかに超えた演奏をしてくれたのもありがたい。ホルンが最初のうち多少頼りない感もあって、第1幕前奏曲から第1幕前半までは先行きが危惧されたが、第1幕の場面転換のところあたりからは、俄然音楽が聳え立って来た。先年の東京二期会公演「パルジファル」における読売日響のスケール感には及ばなかったが、これだけ引き締まった壮大な音を響かせてくれるとは予想外だった。東京フィルも、ここのピットで、いつもこういう音を出してくれていれば文句ないのだが・・・・。
 欲を言えば、もっとたっぷりした厚みのある音が欲しく、特に最強奏ではもっと豊満な法悦感が欲しいところではあった。

 歌手陣。
 パルジファルをクリスティアン・フランツ、老騎士グルネマンツをジョン・トムリンソン、謎の女クンドリーをエヴェリン・ヘルリツィウス、魔人クリングゾルをロバート・ボーク、聖杯騎士団の王アムフォルタスをエギリス・シリンス、先代の王ティトゥレルを長谷川顕、第1幕のアルト・ソロを池田香織。まず充分な配役と言えよう。
 トムリンソンの声は既に峠を越したようだ(揺れる歌いぶりは昔のヨーゼフ・グラインドルを思い出させる)が、その人間的で滋味ある表現は、昔とは少しも変わっていない。ヘルリツィウスも第2幕で本領を発揮したが、今回は比較的すっきりした歌唱に終始していたように思われる。

 こういう人たちの舞台上の存在感に比べると、脇役の聖杯騎士(村上公太、北川辰彦)、小姓(九嶋香奈枝、國光ともこ、鈴木准、小原啓楼)たちには、もう少し演技力が欲しいと感じられてしまうのだが・・・・。
 花の乙女たちは、舞台上はすべてダンサーのみ。小林沙羅、三宅理恵、鵜木絵里ら錚々たる日本勢を擁した歌手陣は舞台に現われず、陰歌だった。
 なお男声合唱(新国立劇場合唱団、二期会合唱団)には、なぜか思ったほどの力感がなく、第1幕と第3幕では少々物足りなさを感じさせたのが残念だ。「エネルギーを失った騎士団」というイメージは出ていたかもしれないが、本来はこの合唱がもっとデモーニッシュな圧力を感じさせないと、この作品の聴きどころのひとつが弱められてしまうだろう。

 45分と35分の休憩各1回を挟み、9時45分終演(つまり総上演時間は5時間45分)。第1幕の後には慣習により拍手をしない観客も多かったが、何とすぐにカーテンコールが始まったため、当然拍手は大きくなった。クプファーはプログラムに「《パルジファル》上演の場はミサでも教会でもない。どの幕でも拍手をしていただいて結構」と書いていたのである。

 なお、今回の特別協賛社はJR東海とのことで、ホワイエでは「パルジファル」の公演日限定で駅弁を売り出していた。買うつもりはなかったけれど、第1幕後の休憩時間の終り頃に覗きに行ったら、すでに売り切れていた。面白い余興だろう。これに「パルジファル弁当」とか「クリングゾルめし」とか「クンドリー茶」とか命名して、いつかの「指環」や「愛の妙薬」の時のようなジョークを加えるくらいの余裕があってもよかろう。
 新国立劇場の新シーズン、客の入りも含め、まずは滑り出し上々。

コメント

新国立劇場が開場されて以来、Parsifalが鳴り響く日を心待ちにしていましたので感無量です。
 演出は1992年のベルリン国立歌劇場の映像同様にクプファーが“メッサー”と呼ぶ槍の先端のような構造物が登場しますが、全体に今回の演出は贅肉がそぎ落とされて簡素で、密度の高いものとなっています。1992年演出のあの密閉された暗い空間よりはずっと良いです。
 トムリンソンの重厚な歌唱、容姿・歌唱・演技と見事としか言いようのないヘルリツィウス、フランツもいつもよりは歌い崩しが少なく、輝かしい声を楽しませてくれました。東フィルは弦楽器の音が貧弱な部分が多々あり、ひょっとしてVnの後方の奏者はきっちりと弾けていなかったのではないでしょうか。
 カーテンコールでクプファーが登場し、喝采をあびていました。

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