2020-04

7・20(日)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団 マーラー「10番」

    サントリーホール  2時

 インバルと都響が2012年9月から繰り広げて来たマーラーの交響曲ツィクルス、その最終回。
 都響としては3月の「交響曲第9番」を以ってツィクルスの完了と考えていたが、インバル自身はやはりこの「10番」でこそ締めたいと思っていた━━ということを、以前、都響の事務局から聞いたことがある。

 今回の「交響曲第10番」は、デリック・クック補筆完成版による演奏だったが、それが1976年版か1989年版か、ということになると、少々複雑のようである。
 詳しい筋の知人から聞いたところによると、インバルは「76年版」の方を気に入っており、今回はオケのパート譜は仕方なく現在流布している「89年版」の方を使ったものの、そこに「76年版」から採った然るべき部分を加えて演奏したのだそうである。

 いつかグラモフォンから出たハーディングとウィーン・フィルのCDでも似たような方法が採られていたことを思い出す。結局、現在クック版を使用するとなると、指揮者たちは、多かれ少なかれ、そのような折衷版を採りたくなるのだろう。
 純粋な(?)「76年版」を聴くには、やはり昔LPで出たウィン・モリス指揮のレコードあたりを聴いた方がいいのかもしれない。今度時間が空いたら、棚から引っ張り出して来て、じっくり聴き直してみることにしよう。

 それはともかく、インバルの巧みな指揮と、都響の水準の高さもあって、今日の「10番」は、実に精妙無比な音楽となっていた。第3楽章(ブルガトリオ=煉獄)の冒頭など、まさにこの世ならざる幻想的で豊麗な音色であった。第5楽章最後の、弦楽器群の大きな大きなグリッサンドを経て終結の安息と諦念の和音に解決するまでの個所も、何と感動的な演奏だったことか。
 都響の巧さもさることながら、インバルの、少しも無味乾燥に陥ることのない指揮、豊かな情感を厳しい造型に収めて構築した緊張感に満ちた指揮は、見事というほかはない。おそらく、インバルと都響のこれまでの協演の中で、これは最高の演奏の一つとなったのではなかろうか。

 ほぼ満席の聴衆は、それこそ息を呑んで聴き入った。終演後の拍手の音量の大きさと厚みのある音は、あのスクロヴァチェフスキと読響のブルックナーの「7番」(2010年10月16日)のそれをすら凌ぐものだったであろう。今日は本当にインバルと都響を、そしてマーラーを愛する人ばかりが集まっていたのではないか、とさえ思われたのである。

コメント

ご高説に水を差すようですが、私は補筆完成版の限界を感じました。ほぼ完成された形で残っていたという第1.3楽章も、他のマーラー作品のように私を感動させてくれませんし、他の楽章もマーラー的に響くものの何かが足りません。それが具体的に何であるかは私には指摘できませんが、
今回のインバル都響の高精度の演奏が却って此の曲の実態を焙り出したように想えました。

同じ日の同じ演奏会を聴いた者です。

先生の
「第5楽章最後の、弦楽器群の大きな大きなグリッサンドを経て終結の安息と諦念の和音に解決するまでの個所も、何と感動的な演奏だったことか。」
には同じことを感じました。Gis・Fis・Eis・Disと下降する一音一音に気持ちがこもりきっていたと思います。「トリスタンとイゾルデ」の「愛の死」に影響を受けたと思われるこの部分の素晴らしい表現を聴けただけで,幸せな気分です。
ソロ・カーテンコールでインバル氏は2回舞台に呼び戻されましたが,妥当な評価だと思いました。

インバルさんは2008年以来、都響の実力を充分に引き出しかつ高めててくれました。本日(7/21)も岡崎さんのTp、西條さんのHrはじめ金管が好調、弦楽器は表情つけが的確で厚みがあり、きわめて充実した演奏でした。インバルはいろいろ細かく指示を出すというよりはオケの自発性にゆだねるといった感じでしょうか。この曲は未完の作品とはいえ、5楽章などあまりにはかなく耽美的で、実演に接するとついお涙頂戴となってしまいます。
インバルー都響という一つの時代が終わったわけで、感無量でした。

悔い改めます

この曲はアダージョさえ聴ければ十分で補筆版はそれほどでもないなぁと思っていたのですが、最終楽章であれほど胸に来る演奏に接した今となってはただただ不明を恥じる次第。悔い改めます(笑)。
なお、直前のゲネプロにも行かせていただいのでその様子をお伝えしますと、ゲネプロではあまり止めない彼が(私が知る限りにおいてではありますが)、各楽章それぞれ結構止めては細かい指示を出していました。この曲で「締めたい」という強い思いはこんなところにも現れていたのかもしれません。

途中、今日のプログラムを勘違いした、ワグナーの日だったのと、混同してました。勘違いの勘違いに焦りましたね。
 すばらしいオーケストラでした。、これほど語るうまさの、情味のインバル氏に出会うのは初めてです。トランペット、ホルンが、こう使われるのかと、稀有な体験でした。

補足

 この日のインバルは,全体の構成にも気を配っていたように思います。
 第1楽章の速いテンポ,第2楽章と第3楽章の間にいったん舞台を降りて間をあえて作ったこと,第3~5楽章をアタッカで続けたこと。
 これらは,普通に演奏すれば,第1楽章ばかりが20分を超え,第2楽章以下は10分台というこの交響曲の構成上の弱点=楽章のアンバランスを克服しようとする試みではなかったでしょうか。インバルは,第1,2楽章を「第1部」,第3楽章以下を「第2部」として,この交響曲の構成を,バランスのとれたものとして再現しようとしたように思います。
 あと,第1楽章冒頭のヴィオラの表情付けは実に素晴らしいと思いました。クック版の楽譜には書いていないはずの微妙な強弱で,一気に,この交響曲の世界に引きずり込むことに成功したと思います。

第10は傑作です

マーラ10番クック版はまだ関西ではやられていない。前からオケのアンケートで希望をいれているが。楽譜のライセンス料が高いのか?
以前からこの10番は第九と並ぶ、たとえクック晩でも傑作と思っているのでインバル氏に共感します、(彼はcd全集でもいれています。)
この曲は大地の歌、第9、第10とで三部作をなしていると思います。前者が人間の生と死をあらわすなら後者は「冥界」をあらわしていると思います。
大フィル定期時に大植さんにこの曲のリクエストをしましたが彼はアダージョのみを考えていたようでバンスタインの弟子としてこの曲の全曲は出来ないと言われました。

私も最初に聞いた頃は大太鼓が唐突に感じられたがそのうち終楽章の消え入るような長いエンディングに魅せられザンデルリンクやバルシャイ、フィラー晩でも聞いています。ラトルはクック版を早くから演奏しています。慧眼ですね。関西でもナマが聞けますように。

2日目を聴きました。マーラーの作品なのかどうか云々の議論は意味が無いと感じました。作品、指揮、オケ、聴衆、ホール、空気などなど全ての要素があの時ほど整ったコンサートはコンサートに通い始めて45年、初めての経験でした。5楽章後半は、途轍もない長い距離と時間をかけてまさに辿り着きつつある終焉の地に向かう境遇に自らを重ねてしまい、この音楽が終わらないことを祈るばかりでした。

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