2020-05

7・5(土)マーク・ウィッグルスワース指揮東京交響楽団

   サントリーホール  6時

 小菅優をソリストに迎えてのリストの「ピアノ協奏曲第2番」と、デ・フリーハー編曲によるワーグナーの「ニーベルングの指環」(「オーケストラ・アドベンチャー」版)。

 リストの「2番」は、かなり遅いテンポでじっくりと演奏された(普通なら20分弱だが、この日は25分くらいかかっていたのでは?)が、これは指揮者ウィッグルスワースのテンポというよりは小菅優のテンポか? ソロ・アンコールにおける「コンソレーション第3番」も相当遅いテンポだったから、彼女のテンポなのだろう。
 最近の彼女は、このような自己主張をいっそう強めているようである。ただ、かように沈潜したアプローチで演奏した場合に、リストのヴィルトゥオーゾ的なピアノと、それに呼応する管弦楽の性格が、巧く生かされるだろうか? 試みとしては興味深いが、成功しているかどうかについては、些か考えさせられるところもある。

 「オーケストラ・アドベンチャー」版の「指環」は、特殊な曲でありながらナマで聴く機会も不思議に多い。これまでにも3~4回聴いただろうか。
 だがこの曲、「指環」の音楽に詳しいワーグナー・ファンだったら、「ああ、(モティーフが)出て来た、出て来た」とか、「フム、ここへ繋げたか」などと思いながら愉しめるものだが、「指環」を聴いたことがほとんどないお客さんにとってはどうなのだろう?
 1時間もの長丁場でありながら、いろいろな「フシ」が、メドレーで「だらだらと」流れて行くだけの曲である。形式感がないので、メリハリや拠り所がない。それゆえ、退屈な曲だと思われはしないか、などと(余計な?)心配をしてしまうのである・・・・。

 ところで、今日のウィッグルスワースの指揮。やはりおとなしい「指環」だった。オペラのピットでの演奏ではないのだから、あんなに音量を抑えず、もう少しドラマティックにオーケストラを鳴らして「アドベンチャー」をやってもよかったのでは、と思う。

 それに、この人の指揮するワーグナーは、ちょっと変わっている。ワーグナー指揮者なら当然配慮するはずのライト・モティーフの扱いが━━当然ここで浮き彫りになるはずのモティーフが全然聞こえて来ない、というところがいくつかあるのだ。
 たとえば、ジークフリートが岩山に向かって進み行く場面で、「角笛の動機」ははっきり聞こえても、そのあとの「ジークフリートの動機」の断片が全然浮かび上がって来ない。
 また、「ライン河の場面」と「森のささやき」では、ゆらめく弦の音量を極度に抑えたため、かんじんの「波の動機」と「森の木々のざわめき」が全く浮かび上がらない。その結果、前者では管の「生成の動機」と「ライン河の動機」だけが、後者では鳥の声だけが聞こえるだけになってしまう。この構築は、「指環」の音楽の扱いとしては、根本的な誤りというに等しいのではないか?
 ただし「ジークフリートの葬送行進曲」の頂点におけるテンポは急がず安定して、適切だったと思われる。

 それにしても、「神々の黄昏」でのワーグナーの管弦楽法は流石に完璧であった━━たとえどれほど自然に演奏しても、音楽の色合いの変化や起伏、劇的な効果は、そのスコア自体が持つ力ゆえに、おのずから現われて来る。今夜の演奏は、それをまざまざと証明していた。

 プログラムには演奏時間70分と表示してあったが、実際は60分で終った。これはテンポの問題ではなく、デ・フリーハーの原曲から、「ジークフリートの角笛」(あの長いホルンのソロ!)の一部や、「ファーフナーの死」、あるいはジークフリートが炎に囲まれた岩山へ進む場面や、岩山の頂上場面の音楽などの一部がカットされていたためである。

 その件も含め、プログラムの曲目表示は━━CDの解説書から転用したと思われるが━━実際の編曲に即して、もう少し正確にやっていただきたかった。また解説も、4部作のストーリーだけ紹介するのではなく、どの音楽がどう取り上げられているかについて具体的に触れておいた方が、お客さんに対して親切だったろうと思う。
 なお解説文には「(フリーハーが)各場面の接続を新たに作曲している」と書かれていたが、実際は、「作曲」されたのはほんの一部分にすぎない。ほとんどはワーグナーのオリジナルをデ・フリーハーが巧みに接続しているのである。たとえば「魔の炎の音楽」から「森のささやき」に移行する個所など、実に見事なアイディアというべきだろう。
    音楽の友9月号 演奏会評

コメント

サントリーが残響ゼロの空間に感じられるほど、終始ドライな質感でした。個々の音色は素のままで棒読み的。無機質かつ脈絡のない音がただ鳴っているだけにすぎない感じ。私はこの種のストレスに晒される確率が低いオーケストラを選んで定期会員になっているので、これは本当にレアケース。ゆえに指揮者の方に疑問を向けざるを得ませんでした。調えられていることが当たり前だった要素が調えられていない。行き届かなかったというよりは初めから関心がなさそうにも見える。では手がかけられていたのはどこなのかと探してはみたものの、それを見つけることはできませんでした。2012年9月の「悲愴」の時と同様。

ワーグナーの音楽を特に必要としない者にとって、この曲を聞くことでワーグナーへの興味を掻き立てられることは多分無いです(逆はあっても)。テキストをリセットして現代音楽的に聴くという手もあるのかもしれませんが、その場合にはもっと作り込んだ音響が欲しい。前半の小菅さんのピアノはずっと聴いていたいような音でした。

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