2017-08

5・15(木)マティアス・ゲルネのシューベルト:「白鳥の歌」

   紀尾井ホール  7時

 冒頭にベートーヴェンの連作歌曲集「遥かなる恋人に寄す」が歌われた。

 ゲルネは、シューベルトの歌曲集における表現とはうって変わって、全体に柔らかく明るく優しく、楽しげに歌いあげた。それがシューベルトでの、ある種の悲劇的な、激烈な感情表現と見事な対比をなすプログラム構成であったことは、いうまでもなかろう。最終曲「この歌を受けてほしい」の最後で、みるみるテンポを上げ、憧れが増して行くように昂揚するゲルネ、それとともに感情を高まらせて行くピアノのアレクサンダー・シュマルツ。

 ゲルネとシュマルツは一度袖へ引っ込んだが、ここでは休憩をとらず、またすぐ登場して「白鳥の歌」に入る。
 今回は、レルシュタープの詩に作曲された前半部分と、ハイネの詩に作曲された後半部分とを分割し、両者の間に、初めて20分ほどの休憩がおかれたのである。そして前半の「すみか(わが宿)」と「遠い国で」の間には、同じレルシュタープの詩による「秋 D945」が挿入され、かつ全曲最後のザイドル詩による「鳩の使い」は割愛されて、「影法師」で終了するという形が採られた。
 もともと「白鳥の歌」はシューベルト自身が連作歌曲集としてまとめたものではなく、出版社の手によるものだという経緯があるため、今回のように旧来の「白鳥の歌」を解体し、ザイドルの詩も削除して、「レルシュタープの詩による歌曲集」と「ハイネの詩による歌曲集」の結合の形を採るという考え方も、もちろん筋は通る。

 とはいえ、旧来の「白鳥の歌」にも、それなりの「いい流れ」があるのであって――あの緊迫感と凄みのある暗鬱な「影法師」が終ったあとにすぐ、ぱっと明るい光が射して来るような「鳩の使い」が始まることだって、あたかもモーツァルトの最後のピアノ協奏曲「第27番」のフィナーレと同じように、この世を超越した清澄な世界が突然出現したような感動を聴き手に与えるのではなかろうかという気もするのだが・・・・。
 あいにく当節は、そういう情緒的な感覚よりも音楽学的な筋道の方が優先する時代だから、「ザイドルは《白鳥の歌》から出て行け」という方が主流になってしまったようだ。ただしその場合、「鳩の使い」は、アンコール曲として補充(?)されることが多い。今夜も同様であった。

 ゲルネの歌は、この歌曲集でも、やはり豪壮な力感にあふれる。1曲目の「愛の使い」こそ、意外になだらかに、叙情的に、ささやくような表情で開始されたが、続く「戦士の予感」の途中からは、歌詞に応じて凄まじい劇的な表現になって行った。
 だが、「アトラス」のような全曲に怒りの感情に満ちた曲の場合は彼の声にもぴったりだろうけれども、「春の憧れ」の後半や「セレナーデ」の中間部など、いくら苛立たしい愛の感情が沸き起こる個所とはいえ、あまりにダイナミックな歌唱に偏りすぎるのではないか、という気もしてくる。
 フォルテはいかなる個所でも、まるで歌劇場で歌っているような強靭なフォルティシモになってしまう。いかにもゲルネらしい。

 最終曲「影法師」は、非常に遅いテンポが採られ、暗く陰鬱な表現から次第に激して、遂に耳を聾せんばかりの絶叫となった。この不気味な、悪魔的な内容の歌曲も、しかしこれだけフォルティシモで轟くように歌われてしまうと、少々疲れて来る。
 各曲におけるそれぞれの叙情と激情との対比、起伏の大きな表現には感服するが、やはり3日間通してこの物凄い声のシューベルトを浴び続けると、些か辟易の感を免れぬ、というのが本音だ。

 しかし、歌詞の内容に完璧に対応して感情の変化を描くシュマルツのピアノは、見事と言うほかはない。「セレナーデ」の叙情的な美しさ、あるいは「都会」での不気味な蠢動など、その表現のこまやかさ、多彩さはずば抜けたものだ。
 それにしても、やはりシューベルトは凄い。凄すぎる。恐ろしいほどの、魔性の世界である。このシュマルツの雄弁なピアノが、それをいっそう浮き彫りにする。
        ⇒音楽の友7月号 演奏会評

 旧い話になるが、1997年1~2月に、あの伝説的なバリトン、ヘルマン・プライが6夜にわたりサントリーホールで「シューベルティアーデ」を歌った時の素晴らしさは、今でも忘れられない。
 特にその最終夜、「白鳥の歌」での微細で精妙な表現と、温かい情感にあふれた歌唱は、如何に感動的だったか。劇的な「影法師」でクライマックスを築いたあと、一転して安らかな、しかし白々とした虚無感も漂うような「鳩の使い」に入った時には、それこそ涙が出そうになったものだ。

 だが、信じられないような事故が、そのさなかに起こった。あの名手プライが、なんと錯覚を起こし、間違えて、止まってしまったのである。
 ずっと譜面を見ながら聴いていた私も、一瞬オヤッと思ったのだが、それよりもさらに早く、隣で聴いていた畑中良輔氏が声にならぬ叫びをあげ、私の方へどっと倒れ込むように、何か口の中で言いながら、楽譜を覗き込むとも舞台を視るともつかぬ姿勢になって来た。プライの歌が止まったのはそれから2,3秒過ぎてからである。
 彼は「ごめんなさい」というような仕草をして、そのまま舞台袖に消えた。畑中氏が「あああ、(楽譜の)あそこへ行って(飛んで)しまっちゃだめなんだよ」と残念そうに呟いた。畑中氏は、それまでずっと目を閉じたままうつむいておられたので、失礼ながら眠っておられるのかと思っていたのだが、本当は全部聴いていて、頭の中でずっと一緒に歌っていたらしいのである。だからプライが間違えた瞬間に、誰よりも早く気づいたのだ。さすがは畑中先生、完璧な暗譜、凄いものだ、と私は改めて舌を巻いたものである。

 さて、プライは間もなく再び現れ、「鳩の使い」をもう一度最初から歌い直したのだが、――あの魔法のような美しさは、ついに再現されることはなかった。そして何か機械的な感じの歌唱のまま、このツイクルスは完結したのであった。後日放送されたNHKのテレビでは、たしか録り直しのテイクを併せた修正版が使われたはずである。
 当日の私の日記にはこうある・・・・「鳩の使い」の途中までの夢のような世界だけを永遠に記憶しておくことにしよう、と。
 

コメント

白鳥の歌

私は7列で聴きました。ゲルネの声の魅力と力、特にハイネにおけるそれはピアノと共に見事だったと思います。曲の配列と前後半の構成も、あれはあれで正解かなと感心しました。シューベルトが編んだ訳ではない遺作歌曲集ですからいろいろなことが出来るのでしょう。でもどう足掻いてもシューベルトの世界は、演奏側にも聴き手側にも厳しい試練を課すのですね。あの底知れぬ孤独と悲劇的な世界は。

助走も境界もなく、向こう側とこちら側を自在に往還するシューベルト。よい演奏であればあるほど体に負荷がかかりますよね。それなのに、いつしか作曲者への愛おしさが心にあふれて永遠に繰り返していてほしいとさえ願ってしまう。こんな作曲家は他にはいません。ゆえに今回は行きませんでした。その世界が最も凝縮されていると思われる歌曲(>室内楽曲>ピアノソナタ>交響曲)を、週の真ん中の三連夜で浴び続けることは到底無理と判断し。このような軟弱者もいるわけなので、次の機会には数年がかりか最低でも一日ずつ空けるか週末挟むとかしていただけると助かります。ともあれ、無事こちら側に戻ってこられたようで良かったです。お疲れさまでした。

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