2024-03

2014・4・14(月)イアン・ボストリッジ(T)のマーラーとブリテン

   トッパンホール  7時

 ジュリアス・ドレイクのピアノとの協演で歌われた曲は、
 第1部でマーラーの「若き日の歌」より「春の朝」「思い出」、同「子供の魔法の角笛」より「少年鼓手」「トランペットが美しく鳴り響くところ」「死んだ鼓手」、同「さすらう若人の歌」。
 第2部ではブリテンの「ジョン・ダンの神聖なソネット」(9曲)、および民謡編曲「イギリスの歌」より「サリーの園」「おお悲しい」「オリヴァー・クロムウェル」。
 そしてアンコールは一転してシューベルトで、「漁夫の歌」D.881、「はなだいこん」D.752、最後に「ます」。

 ボストリッジの歌曲リサイタルは、舞台上での激しい動き――ほとんど3メートル近く左右に移動しながら、時にはピアニストの方を向いて歌うこともある――と、激烈な歌唱表現とで有名だ。のんびり聴いていられる類の歌唱ではない。時にはギョッとして飛び上がるような表現が随所に出現する。

 たとえばマーラーの「少年鼓手」。翌朝には処刑される少年の独白「あいつはどんな奴だったかと尋ねられたら、親衛隊の鼓手だったと答えてくれ」の個所など、どうしようもない怒りと口惜しさを噴出させ、ほとんど絶叫に近い歌唱になる。
 最後の「僕は明るい声で別れを告げよう、お休み、Gute Nacht」も、言葉とは裏腹に、絶望に打ち伏すように、暗く震えるように歌われる。

 「さすらう若人の歌」の第4曲にしても、失恋した若者が旅立つくだりでさえ激情を抑えきれない。菩提樹の下に憩って安息を取り戻すはずの終結個所でも、安らぎよりも怒りと絶望感に震えつつ物語を終える、といった具合なのだ。
 聴いているとヘトヘトになるけれども、実にスリル満点、面白いマーラー解釈である。いわば、交響曲におけるマーラー像を、そのまま歌曲にも持ち込んだ解釈とも考えられようか。

 ブリテンの歌曲は、さらに物凄い。「ジョン・ダンの神聖なソネット」は、歌詞の内容は祈りの歌だが、ボストリッジが歌うと、それは赤裸々な感情の激しい吐露になる。恐怖感さえ覚えさせるような、激烈な起伏をもった歌いぶりだ。聴いていると、彼が以前オペラで示した舞台姿がそれにだぶって、あたかも「狂えるピーター・グライムズ」を観ているような錯覚に陥る。

 こういうリサイタルだったから、それだけにアンコールでのシューベルトの3曲が、いかに解放的な音楽に感じられたか! もっともこれとて、劇的なモノローグといった表現に変わりはなかったが。

コメント

同じ痛みでも、甘味料を添加した300倍希釈水を3幕3時間かけて舐めさせられる場合もあれば、原液のまま「さあ一息に飲み干すがいい」と突き出される時もある。勿論この日は後者。圧倒されました。彼ら二人によるあの表現全てを受け止め、かつ耐えられるだけの体が欲しいと思うほど。なぜマーラーとブリテンなのか。なぜあそこまで振り切れなければならなかったのか。今後この日のことを思い出すたびに、それぞれの詩と音楽に立ち返ることになるのでしょう。ジョン・ダンの詩は学生の頃、「形而上詩人」の看板に腰が引け横目で眺めながら通り過ぎてしまって以来。これほどシンプルでストレートな単語で綴られているとは知らなかった。もう一度手に取ってみたくなりました。またプログラムノートにも助けられました。過保護でも不親切でも啓蒙目線でもない客観的道標として、得難い内容だったと思います。

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