2019-08

10・3(木)新国立劇場新制作 ヴェルディ:「リゴレット」

   新国立劇場  7時

 新シーズン開幕公演。
 先頃ミュンヘンで「指環」を、この新国立劇場でも4年前に「ヴォツェック」を手がけたアンドレアス・クリーゲンブルクを演出に迎え、トラディショナルなイタリアものとは一味違った「リゴレット」を試みよう、というわけであろう。
 美術はハラルド・トーア、照明はシュテファン・ボリガーが担当、いずれもその「ヴォツェック」と同じ顔ぶれである。

 最初の2幕の舞台は大都会の高級ホテルのロビーで、その奥の3層からなる階段、回廊、客室のドア、といったものは、回転する舞台装置に乗って廻って行く。無数のドアの向こう側には無数の秘密の世界がある、というイメージを表出するには、この回転舞台は効果的な手法であろう。

 深夜の回廊には、男たちの逸楽の道具にされた惨めな女たちが、かなりリアルな姿でうごめく。そして、第2幕最後のリゴレットとジルダの2重唱(「復讐だ!」)が始まると、その時まで停止していた背景の舞台が再び回り出し、各ルームから下着姿で放り出されたその女たちが彷徨ったり、うずくまったりしている姿がもう一度見えて来る――ここはかなり劇的な光景で、クリーゲンブルクがこのオペラを単なる一組の父娘の悲劇にとどめず、逸楽にふける男たちと、彼らに弄ばれた女たちとを対比させるドラマとして描き出そうとする意図が覗われる個所だろう。
 血や暴力が少なからず前面に出て来るのも、最近の欧州の演出における一種の流行だ。これでもまだ温和な方である。

 ただ、演出家の意図はかりにそうであったとしても、いかんせん、肝心の舞台の「温度」がおしなべて低く、密度にも、緊迫感にも不足する。要するに舞台の雰囲気が冷たく、ちっとも沸騰しないのだ。それゆえ惜しいことに、観ているわれわれにも、舞台に引き込まれて夢中になるという感覚が起こらないのである。
 これはまあ、残念ながら、わが新国立劇場のオペラ上演には常について回る不思議な傾向なのだが、新シーズンの開幕公演としては、これではちょっと寂しい。
 それに、クリーゲンブルクの演出としては、これは些か「本気度」が薄いのではないか? 彼のイタリア・オペラ演出は如何なものなりや、と、今回はかなり期待を持っていたのだが、観終ってみると、この人はやはりドイツ・オペラの方に向いている演出家なのかな、という印象になってしまった。

 もうひとつ、余計なツッコミになるが、このホテル、高級ホテルにしては随分ガラの悪いところですな。あんな野郎共の集団とコールガール(?)ばかりが屯しているホテルでは、一般客は、いったいどうしているんだか。あれがマントヴァ公爵の豪華な別荘だというなら、筋は通るだろうが。
 また、第3幕の「スパラフチーレの家」はその「ホテル」の屋上だと演出家は言うが、高級ホテルの屋上にああいう「貧しき者たち」が、住めるものなのか。上部には「ビラ・マントヴァ」とかいう銘柄のビールの広告ネオンが輝き、屯するホームレスみたいな者たちも常に何かをラッパ飲みしているが、ひっくり返したビールの箱には「SUNTORY」という字が読めた。

 もう一つ驚いたのは、第1幕、騒ぐ男たちが去ったあと、華やかなロビーの隅にあるバーで独り飲んでいた男が振り向き、それが殺し屋スパラフチーレで、自分の名を低音で延々と引っ張って歌いつつ袖に消える――これは今年の春にMETでプレミエされたマイケル・メイヤーの舞台の完全なパクリではないか。今回彼が飲んでいたのは下手側のバーだったが、上手側のバーの位置は全く同じ、第3幕での上手側のエレベーターの位置も似たようなもの、と来ては・・・・。

 今回は、ピエトロ・リッツォが東京フィルを指揮して、豪快に鳴らした。大きな音だからいいというわけではないが、か細い音ではヴェルディの熱っぽい音楽が生きないし、劇的な昂揚も生まれない。
 ただ、演奏には時たま、間が抜けた(?)感があって・・・・。拍手でもあればその「間」も繋がるのだが、舞台があのように冷えていると、客席もワッと沸かないのである。

 リゴレットはマルコ・ヴラトーニャで、声はあるものの、第1幕と第3幕での幕切れの決め場「ああ、あの呪い!」にもう少し劇的な力が欲しいところ。背中に大きな瘤を入れた扮装は最近の演出には珍しく、それだけに第2幕のジルダとの2重唱の場面では、「ノートルダムの鐘つき男」のカジモドを連想させる哀しさも滲み出て、悲劇性充分なものもあった。
 そのジルダはエレナ・ゴルシュノヴァ、声は柔らかく、少しこもり気味なものの、「慕わしき御名」では美しい可憐さを聴かせた。ただ、その可憐な容姿は、舞台に「華」を感じさせるところまでは行かなかったようである。

 マントヴァ公爵は、見れば見るほど朝青竜にそっくりのキム・ウーキュン。声の伸びはよく、舞台上の存在感もなかなかのものだ。
 他にスパラフチーレを妻屋秀和、マッダレーナを山下牧子ら。
 合唱は新国立劇場合唱団。何故か今回改めて感心したのは、チェプラーノ伯爵夫人の佐藤路子だけでなく、助演者の女性たちに、随分美しい容姿の人たちを揃えたな、ということ。最近の日本女性たちは見事です。

 25分程度の休憩1回を含め、9時半頃終演。
 さて、あれこれ感じたこの初日公演での問題点、上演の回を重ねれば、何とか解決できるのだろうか? 22日までの間に、あと6回上演される。
 

コメント

良かった歌手。ウーキュン・キム。日本人勢健闘。
初日は、こんなもん。毎度の新国。初日は、あまりやっぱり行きたくない。

この演出家が担当する作品、総じてエキストラが本当に多い。

むかーし、ハンブルグオペラが来日したとき、大野和士が指揮した、アンドレアス・ホモキ以来、頭で考えてきたものを久しぶりに見ました。
当時は、日本公演向けの配役だったから、どこまで演出に忠実なのかなって、思うけど。あの時は、フランツ・グルントへーバーでしたね。その歌いっぷりだけは、良かった。バーバラ・ヘンドリックスと声を割らしてしまった市原多朗だったですよね。
原色使って、趣味が悪いと思っても、まだまだ、現地では健在なんでしょ。あの演出。

じゃー、今回は、「うーーん。」もっと、エキストラ減らしてよ。そのお金で、ジルダ。もうちょっと考えてよ。かなー、って。本当は、まだ演出も随分おとなしいのかなって。

悪いけど、開場浅い古いのに、戻して。演出。。。ピエトロ・バッロが不調で無理して出演しているのに、ブーイング飛ばして、世界の舞台からも引っ込んでいった頃のあの演出に、戻して!!。

16日の公演に行きました。
まあ、あれを高級ホテルで通すのはさすがに無理ですね。仮設っぽさ全開でしたし。
マフィアの経営する快楽の館として勝手に読み替えさせていただきました。

音楽面にはとても満足しましたが、演出は先のナブッコと同種の不満をおぼえました。
読み替え行為そのものや多少の精神逆撫でアイテムはどうってことない。
でも、詰めの甘さと雑な細部と過剰な説明に耐えながらの観賞を強いられるのは、正直、もう勘弁してほしい。

たまらなく落語を聴きに行きたくなりました。
高座をみるといつも、なぜオペラはあそこまで過剰に大掛かりにしないといけないのか不思議に思います。人情噺であれ滑稽噺であれ怪談であれ、描かれている世界はオペラのそれと差はないはずなのに。

オペラの国のお客さんには想像力というものが無いのかしら?
あるいは演出家が無いものとして扱ってしまっているのか。

今回のキャストとピットなら、大仰なセットやエキストラなどなくても簡素な衣装と最低限の小道具とマイムだけで、充分にリゴレットの世界の本質を伝えられたはず。

だから余計に残念です。

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