2019-05

9・14(土)沼尻竜典指揮 ジョエル・ローウェルス演出「ヴァルキューレ」全曲

    神奈川県民ホール 大ホール  2時

 神奈川県民ホール、びわ湖ホール、東京二期会、神奈川フィル、日本センチュリー響共同制作・主催の恒例のオペラ・シリーズ、ダブルキャストによる初日公演。わが国では久しぶりの全曲舞台上演だ。

 今回の演出は、ジョエル・ローウェルス。
 彼は5年前に東京二期会公演の「ヴァルキューレ」でも演出を担当、舞台上に過去の回想場面や、ト書きには指定されていない人物を背景に登場させながら歌詞の内容を具象化する場面をつくる手法を用いた人だが、やはり今回も、ほぼ同様の手法を使っていた。

 例えば、ヴォータンの妻フリッカを、ト書きに指定されている第2幕前半以外にもしばしば登場させるが如くである。フリッカは、第1幕のジークムントとジークリンデの愛の場面の、音楽が劇的に変わる個所で、「春」の代りに突然出て来て、ジークリンデを怯えさせる。またジークムントの死の場面にも登場し 彼の死を満足げに見届け、礼に来たフンディングを「わたしの目的はお前ごときを助けるためではない」とばかり、荒々しく翻したガウンの一撃で死なせてしまう。第3幕では、ブリュンヒルデを追放するヴォータンの傍に現われ、コップの水を彼の顔にぶっかけて侮辱するという念の入れよう。

 また、第2幕冒頭では、逃走するジークムントとジークリンデを登場させたり、フンディングと彼の手下たちが2人を探す光景などをつくり出したりする。その他、ジークリンデやジークムントが少年少女時代の悲しい思い出を描いたり、「ヴォータンの告別」の個所でブリュンヒルデとともに彼女の少女時代の姿を思い出し、現実と混同させる場面をつくったりするのも、たしか以前も試みられたアイディアだったと思う。

 しかし、前回の演出と異なるのは、それらを含めたいろいろな場面を、今回はいちいち幕を下ろして転換させてはすぐまた揚げ、映画のフラッシュバックのように構成していることだ。それがまた、おそろしく頻繁に行われるのである。「無限旋律」の音楽と、断片化した場面とは、必ずしも一致しないこともなかろうが、あの全曲の中で30回近くもその幕の上下が繰り返されては、だんだん煩わしくなって来る。

 しかもそこには新解釈の場面も混じるのだから、ややこしいことこの上ない。
 たとえば冒頭、ジークムントが逃げ込んできたのは、ヴォータン夫妻と娘ヴァルキューレたちが集っている家の居間(するとヴァルハルだった、ということになるではないか?)である。これが幕で転換すると、不思議にも女ボスと化したジークリンデが仕切る無頼者たちの家で、ジークムントが暴力を受けている光景に変わる。再び幕で転換すると、いつものフンディングの家の光景になる――という、やたらイメージを拡大した設定なのだ。

 また、ジークリンデが、トネリコに刺さっている宝剣ノートゥング(何故か日本刀だ)の位置を眼でジークリンデに教えようとする個所では、そこだけ場面は幕で転換して、ヴォータンが「ノートゥングの動機」とともに愛息ジークムントのことを思い出してどこかへ去り、フリッカがジロリとそれを見送る光景が挿入される。
 だがこれでは、あとでジークムントが「彼女があそこを見つめた時」と歌う歌詞との辻褄が合わなくなるではないか。・・・・もっとも、それでフリッカが若者2人の愛の語らいの場を訪れ、事の次第を確かめることに繋がるのだということになれば、フリッカがヴォータンを詰問しての「私はあなたのあとを尾けていたのだから、あなたの不行跡は何でも心得ている」という意味の歌詞と合致する点も生まれるわけだが――。

 「ヴォータンの告別」の場面では、ヴォータンがフリッカやヴァルキューレとともに笑顔でブリュンヒルデの「旅立ち」(?)を見送るという彼の幻想場面が出現したり、魔の炎の音楽のさなかに幕が下りたかと思うと、場面は冒頭のヴォータン一家の家に戻り、そこへ放浪のジークムントがまた現われて、物語は再び冒頭に戻るというエンドレス手法が導入されたりする。これでは、あの美しい「魔の炎の音楽」の音楽を、じっくりと聴けた人は少ないだろう。
 そもそも、ドラマが冒頭に戻るという発想は、「ヴァルキューレ」が完結している物語ならともかく、「指環」の一夜としての「ヴァルキューレ」においては、全く意味がないように思われるのだが、どうであろう? 

 演出家に対するブーイングは上階席から2、3出たが、残念ながら(?)やや音量不足のようであった。

 音楽。今回、沼尻竜典が指揮したのは神奈川フィルと日本センチュリー響との合同オケだった(この同じオケがびわ湖ホール公演でも演奏するとなれば、リハーサルの時間も効率的になるだろう)。
 いかにも沼尻らしく、無駄肉のない、すっきりしたワーグナーだ。余計な思い入れも誇張も皆無で、率直なテンポで進められたので、演奏にも弛緩が全く感じられなかった。彼の指揮するワーグナー全曲ものを聴いたのは、「トリスタンとイゾルデ」「タンホイザー」に続いて、これが3作目だが、今回も成功であった。
 第1幕大詰近くではもう少し盛り上がりが欲しいところだったが、第3幕では充分な昂揚感が示されていた。オーケストラは、分厚い響きやパワーこそ物足りなかったとはいえ、叙情味のある「ヴァルキューレ」の音楽としては、いい音を出していたと思う。

 歌手陣。ジークムントは福井敬。今回は正確なテンポで、得意の悲劇的な役柄を力強く歌い上げてくれた。第2幕など少し力み過ぎた印象もあったので、あまりパワーで押しまくらなくてもいいのではないかと、素人耳には思われたが・・・・。
 フンディングの斉木健詞とヴォータンの青山貴も好演。斉木はこのくらいは当然やるだろうと思っていたが、青山のヴォータンは、私には嬉しい驚きだった。
 ブリュンヒルデの横山恵子も、存在感のある舞台姿で好演したが、ただ今日の歌を聴く範囲では、声には表現力もあって綺麗ではあるけれども、ワーグナーの分厚いハーモニーに対して、どこか完全に溶け込まない要素があるような気がするのだが・・・・それがなぜだか、私にはよく解らない(昔の名歌手ジョージ・ロンドンにもそういう傾向があった)。

 すばらしかったのは、ジークリンデの大村博美。優しい女性としての演技と、ふくよかで力のある声で、この悲劇的な役柄を温かく表現し、ドイツオペラのレパートリーに新境地を開いた。
 そして、フリッカの小山由美は、これはもう存在感といい、表現力豊かな歌唱といい、文句なしの貫録である。第2幕のヴォータンとの応酬の場は緊張感たっぷりの迫力で、この演出が狙っているらしい「この作品の登場人物全員を支配する」存在を見事に果たしていた。

 ヴァルキューレたちは、田崎尚美、江口順子、井坂惠、金子美香、平井香織、増田弥生、杣友惠子、平舘直子。粒が揃っていて、バランスもよく、予想以上に聴き応えがあった。
 ほかに、少年少女、フンディングの手下たちなど、助演者たち多数。手下たちには、よくまああんなに人相の悪い・・・・いやいや失礼、メイクの巧さです。よくあんなに「それっぽい雰囲気の」ひとクセある面構えの男たちを集めたものだと感心。
 カーテンコールに現われた「出演者」は、正確に数える余裕がなかったが、たしか25人くらいか。普通の「ヴァルキューレ」では考えられないほどの数である。

 25分ほどの休憩2回を含み、6時45分演奏終了。まずは力作と讃えておこう。

コメント

声量不足ですみません、どなたもブーイングを出されないので(遠慮したわけではないのですが)あれでも精一杯出したつもりです。
「自分の解釈を押し付けるつもりはない」のはいいのですが、「目の前で行われていることがすべて」「音楽自体が力強く説明していれば他に何も付け加える必要はない」といいながら、「細かい出来事や場面を丹念に拾い出して観客に伝え」ようと、する内容が、ジークリンデが倒れこんだジークムントを足蹴にするところから始まって、死体清掃人のワルキューレ、フリッカだけでなくブリュンヒルデからも軽蔑されてド突かれ、オヨヨと落ち込むヴォータン、やることなすこと演出家が何を考えているのかまったく理解できませんでした。
 当節演出家は何か変わったことをしなければならないと考えている人種ですからこのような手法自体はある程度覚悟して出かけたのですが、いまどきオペラはやはり演奏会形式で我慢するべきなのか、がっかりしました。この年になって喉を鍛えてまで出かける気にはならないのですが…。

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