2020-04

6・7(金)大植英次指揮東京フィルハーモニー交響楽団

   サントリーホール  7時

 その東京フィル、今夜は非常に闊達な、熱っぽい演奏をした。
 昨夜のことを思うと、やっぱり定期公演は「本隊」が、オペラの演奏は「支隊」が受け持つということか――などと勘ぐりたくもなる。実際は必ずしもそうではないらしいのだが、演奏を聴く限り、そうとしか思えないような印象を受けるのである。今に始まったことではないのだが、この問題は、いったいいつになったら解決されるのだろう?

 なにも、大きな音で豪快に鳴ればいいと言っているわけではない。が、たとえピアニッシモであっても、アダージョであっても、とにかく演奏に気魄と熱気、張りと力が欲しいのである。
 今日は大植英次の猛烈にアクの強い指揮により、R・シュトラウスの「ばらの騎士」組曲と、チャイコフスキーの「交響曲第5番」を演奏したが、オーケストラには、少なくとも「熱っぽい」雰囲気があったと思う。

 大植英次の指揮は、近年ますます思い入れが強くなって来たようだ。テンポを大きく動かし、ゲネラル・パウゼを長くとって矯めをつくり、楽譜に指定されているデュナーミクをさらに強調し、時にはその指定の有無にかかわらず存分に表情を誇張するといった具合で、・・・・昔ミネソタ管弦楽団で彼の指揮を初めて聴いた頃の、あのしなやかで颯爽たるスタイルの音楽づくりに比較すると、まるで別人の如き趣がある。
 もちろん、レパートリーによってそのスタイルは違うだろう。しかしこの方向でどこまで行くのか・・・・と、少々気になるところではある。

 「ばらの騎士」では、たとえばワルツの個所など、あまりに持って回ったテンポの演奏で、少々辟易させられた。だが一方、チャイコフスキーの「5番」になると、曲の性格上、そうした大芝居調も――ある程度は、だが――有効に生きて来る場合もある。
 前半2楽章は恩師バーンスタインの晩年のテンポにも似て極度に遅かったが、第4楽章の主部は、かつてソ連時代の指揮者たちがよくやっていたような猛速テンポで突っ走った。最初から最後まで激動する音楽ともいうべく、非常に表情の強い指揮である。

 こういうチャイコフスキーは近年あまり聞かないスタイルだが、大植英次のそれが独自の美学ならば、それはそれでいいではないか、という気もする。
 ただこの絶えざる激動が、人工的な演出臭さといったものを脱して、もっと自然な躍動を感じさせる域――たとえばゲルギエフのそれのように――にまで達すればいいのだが、とも思う。

 東京フィルは、特に「5番」では、よく指揮者に合わせて「大鳴動」していた。ホルンの1番とセクション全体の奮闘は見事である。第2楽章冒頭のホルンのソロがあんなに勢いよく吹かれた演奏は初めて聴いた。「ドルチェ」で「エスプレッシーヴォ」というスコアの指定からすれば、少々違和感がないでもないが・・・・。ホルンを含め金管群はかなり豪勢で、しばしば弦を打ち消すほどだった。
 弦はたいへん柔らかい音を出していて、ガリガリ弾かないのは聴いていても気持がいいけれども、第1ヴァイオリンなどあまり響かないのはどうしてだろう? 先日の「ローマの松」の時と似ている。第4楽章の第85小節、93小節のヴァイオリンのピチカートが、メゾ・フォルテの指定にもかかわらず聞こえにくいというのは具合が悪いのではなかろうか。

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