3・20(木)旅行日記最終日
ケント・ナガノ指揮「パルジファル」
バイエルン州立歌劇場
早朝ハンブルクを発ち、昼前ミュンヘンに着く。こちらもかなり気温が低い。空港から市内に向かう間にも小雪がちらついていたが、ホテルに入った頃からは、晴れたかと思うと、次の瞬間には雪がドッと吹きつけてくるという不思議な天候になった。幸い、オペラが始まる午後4時までには雪も止んだ。
この時期には、あちこちの歌劇場で「パルジファル」が上演されているが、その中でミュンヘンに立ち寄ったのは、音楽総監督ケント・ナガノがどんな「パルジファル」を指揮するかを実地に聴いてみたいと思ったからだった。
彼の個性からして、透明で自然で浄化されたような「パルジファル」になるだろうと思っていたが、たしかに「聖金曜日の音楽」のような叙情的な部分では、これ以上は求められないほどの豊麗な音色の快さ、白色の明晰な光の中の陶酔、といったものを感じさせてくれた。
もっともこう言うと、感覚美だけのワーグナーと思われるかもしれない。もちろんあの第1幕と第3幕の聖杯寺院の場への転換場面のように、暗黒の地底から沸き起こるような音楽のところでも、それなりの凄絶さを聴かせてくれたのは事実である。が、それは背筋が寒くなるような魔性を感じさせる演奏とは、また少し異質なものである。
だからといって、彼のワーグナーがつまらないというのではない。少なくともこれは、以前ここのシェフだったメータのワーグナーよりも、はるかに官能性を備えたものであると私には感じられたのであった。
なお、ワーグナーが網の目のように織りなしているモティーフ群が時に曖昧に聞こえることがあった(全曲大詰の部分など)のは、彼とオーケストラとの呼吸が完璧に合うにはまだ時間が必要だからかもしれないし、あるいはこちらの席(1階席8列中央)の位置の関係からかもしれない。
演出は、あのペーター・コンヴィチュニーである。1995年制作のプロダクションで、この劇場では以前からしばしば上演されており、私も数年前に一度観たことがある。
アムフォルタスとクリングゾルが、ともに下腹部を血まみれにして登場(つまり同じ穴のムジナ、もしくは同一人物の別の側面ということか)、しかもそれをこれでもかと言わんばかりに観客に見せつけるといった気持の悪い演出だが、しかし今回改めてよく観ると、それ以外の部分はなかなか良くできた舞台であることに気づく。
ヨハネス・ライアッカーの舞台美術も含め、第1幕が最も演技に納得の行くところだろう。舞台奥から手前に延びてきている枯れ木の生えた道のようなものが、あの轟然たる転換の音楽につれてゆっくりと立ち上がり、あたかも巨大な宇宙樹のごとく屹立、せり上がった舞台が上下2層を成すその間を貫いて立つに至る場面は、音楽の迫力と合わせてすこぶる壮観であった。
その幹をアムフォルタスが観音開きのようにこじあけると、中から白鳩を抱いた聖母マリアが出現する。
幕切れでは、グルネマンツに示されてそれと気づいたアムフォルタスが、救いを求めて縋るようにパルジファルへ手を差し伸べつつ倒れる。ウィーンでミーリッツが行なった演出でもこれに類似した手法が使われていたが、コンヴィチュニーの方が先に試みていたわけだ。
もっとも、こういうアイディアは昔からいろいろな演出家により使われていたのだろうが。
第3幕は、いよいよコンヴィチュニーが本領を発揮した部分だ。クンドリーが聖槍を掲げて一同の間を廻ったり、息絶えた彼女の胸の上に聖槍が置かれていたり、感謝の手を差し伸べるアムフォルタスをパルジファルが荒々しく軽蔑した仕種で突き飛ばしたりと、かなり自由な解釈が行なわれている。だがどうも、その一連の進行がいささかくどく、ゆっくりした音楽のテンポを持て余して、無理に何かいろいろなことをやっているというように見えてならないのである。
コンヴィチュニーの演出は、これを含めてもう十数本観てきたが、むしろあまりひねくらずに、ストレートな手を使ったものの方がよほど巧くできているような気がする(たとえばシュトットガルトでの「エレクトラ」など)。
アムフォルタスはミヒャエル・フォレ、パルジファルはニコライ・シュコフ、クンドリーはリオナ・ブラウンで、みんな手堅い。クリングゾルのジョン・ヴェーグナーはまさに当り役そのものだろう。グルネマンツにはクルト・リドルが出て、一人で物凄いパワーを発揮したが、やや怒鳴りすぎの感がないでもなかった(僅かながらブーイングが飛んだのはそのためもあったか?)。
ともあれ、これで今回の旅行は打ち上げ。
早朝ハンブルクを発ち、昼前ミュンヘンに着く。こちらもかなり気温が低い。空港から市内に向かう間にも小雪がちらついていたが、ホテルに入った頃からは、晴れたかと思うと、次の瞬間には雪がドッと吹きつけてくるという不思議な天候になった。幸い、オペラが始まる午後4時までには雪も止んだ。
この時期には、あちこちの歌劇場で「パルジファル」が上演されているが、その中でミュンヘンに立ち寄ったのは、音楽総監督ケント・ナガノがどんな「パルジファル」を指揮するかを実地に聴いてみたいと思ったからだった。
彼の個性からして、透明で自然で浄化されたような「パルジファル」になるだろうと思っていたが、たしかに「聖金曜日の音楽」のような叙情的な部分では、これ以上は求められないほどの豊麗な音色の快さ、白色の明晰な光の中の陶酔、といったものを感じさせてくれた。
もっともこう言うと、感覚美だけのワーグナーと思われるかもしれない。もちろんあの第1幕と第3幕の聖杯寺院の場への転換場面のように、暗黒の地底から沸き起こるような音楽のところでも、それなりの凄絶さを聴かせてくれたのは事実である。が、それは背筋が寒くなるような魔性を感じさせる演奏とは、また少し異質なものである。
だからといって、彼のワーグナーがつまらないというのではない。少なくともこれは、以前ここのシェフだったメータのワーグナーよりも、はるかに官能性を備えたものであると私には感じられたのであった。
なお、ワーグナーが網の目のように織りなしているモティーフ群が時に曖昧に聞こえることがあった(全曲大詰の部分など)のは、彼とオーケストラとの呼吸が完璧に合うにはまだ時間が必要だからかもしれないし、あるいはこちらの席(1階席8列中央)の位置の関係からかもしれない。
演出は、あのペーター・コンヴィチュニーである。1995年制作のプロダクションで、この劇場では以前からしばしば上演されており、私も数年前に一度観たことがある。
アムフォルタスとクリングゾルが、ともに下腹部を血まみれにして登場(つまり同じ穴のムジナ、もしくは同一人物の別の側面ということか)、しかもそれをこれでもかと言わんばかりに観客に見せつけるといった気持の悪い演出だが、しかし今回改めてよく観ると、それ以外の部分はなかなか良くできた舞台であることに気づく。
ヨハネス・ライアッカーの舞台美術も含め、第1幕が最も演技に納得の行くところだろう。舞台奥から手前に延びてきている枯れ木の生えた道のようなものが、あの轟然たる転換の音楽につれてゆっくりと立ち上がり、あたかも巨大な宇宙樹のごとく屹立、せり上がった舞台が上下2層を成すその間を貫いて立つに至る場面は、音楽の迫力と合わせてすこぶる壮観であった。
その幹をアムフォルタスが観音開きのようにこじあけると、中から白鳩を抱いた聖母マリアが出現する。
幕切れでは、グルネマンツに示されてそれと気づいたアムフォルタスが、救いを求めて縋るようにパルジファルへ手を差し伸べつつ倒れる。ウィーンでミーリッツが行なった演出でもこれに類似した手法が使われていたが、コンヴィチュニーの方が先に試みていたわけだ。
もっとも、こういうアイディアは昔からいろいろな演出家により使われていたのだろうが。
第3幕は、いよいよコンヴィチュニーが本領を発揮した部分だ。クンドリーが聖槍を掲げて一同の間を廻ったり、息絶えた彼女の胸の上に聖槍が置かれていたり、感謝の手を差し伸べるアムフォルタスをパルジファルが荒々しく軽蔑した仕種で突き飛ばしたりと、かなり自由な解釈が行なわれている。だがどうも、その一連の進行がいささかくどく、ゆっくりした音楽のテンポを持て余して、無理に何かいろいろなことをやっているというように見えてならないのである。
コンヴィチュニーの演出は、これを含めてもう十数本観てきたが、むしろあまりひねくらずに、ストレートな手を使ったものの方がよほど巧くできているような気がする(たとえばシュトットガルトでの「エレクトラ」など)。
アムフォルタスはミヒャエル・フォレ、パルジファルはニコライ・シュコフ、クンドリーはリオナ・ブラウンで、みんな手堅い。クリングゾルのジョン・ヴェーグナーはまさに当り役そのものだろう。グルネマンツにはクルト・リドルが出て、一人で物凄いパワーを発揮したが、やや怒鳴りすぎの感がないでもなかった(僅かながらブーイングが飛んだのはそのためもあったか?)。
ともあれ、これで今回の旅行は打ち上げ。
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