3・6(木)ホール・オペラ モーツァルト:「フィガロの結婚」初日
サントリーホール
サントリーホール恒例の「ホール・オペラ」が、これまでのヴェルディ・プッチーニなどイタリア路線中心から急転回してモーツァルトに。今年から3年間「ダ・ポンテ3部作」を手がけるそうだが、その第1弾がこの「フィガロの結婚」である。指揮はニコラ・ルイゾッティ、演出はガブリエーレ・ラヴィア。
このシリーズは発足以来いわゆる「セミ・ステージ形式」が基本で、ステージ上に配置されたオーケストラおよび比較的簡略な舞台装置、という構築による上演だったが、新しい路線による今夜の舞台などを見ると、これはもう本当の歌劇場によるプロダクションといってもおかしくないほどの水準になっている。
オーケストラは舞台後方に奥を向いて配置され、指揮者はメインの客席を向いて位置する。モーツァルトの管弦楽は編成が小さいので、そのぶん、歌手たちが演技を行なう舞台前方が広く使えるという利点があるだろう。
この舞台装置(アレッサンドロ・カメラ担当)は、床も壁も額縁入りの貴族らしい人物たちの絵画でいっぱいに埋められ、それらは非常に古く暗い色で、薄汚れている。昨年の「東京のオペラの森」でのロバート・カーセン演出の「タンホイザー」の舞台を、もっとくすんだ色に仕立てたような光景である。同じく、机や椅子やベッドなどの小道具も古くて侘しくて簡素だ(道具の数は、昨年のエクサン・プロヴァンス音楽祭における「フィガロの結婚」の舞台よりはずっと多い)。
こうなればもう、一見しただけで、崩落していく旧体制社会を背景に、新・旧の人間ドラマを描き出そうという演出意図が読み取れるだろう。
そのラヴィアの演出は、登場人物の相関関係については原作のト書きに従い、特にあざとい深読みもこじつけも施していないが、演技のニュアンスは非常に細かく、芝居としてストレートに成立するものにしている。中庸を得た舞台として、観客にも安心感を抱かせたのではなかろうか。登場人物の大半は舞台じゅうを猛烈な速度で走り回り、飛び越え、踊り、格闘し、スピーディな演技を展開する。
もっとも、アルマヴィーヴァ伯爵を旧体制の支配者とし、フィガロたちを新しい時代の担い手として明確に対比させるのかな、というこちらの予想は外れた。
それが演出の意図だったか、伯爵役の歌手の演技のせいだったのかはわからないけれども。
この若々しい群像の躍動といった舞台は、指揮者ニコラ・ルイゾッティの率直で推進力に富んだ音楽づくりによって、更に煽られたようだ。あまりにイン・テンポで、「矯め」の全くない指揮ゆえに、あれよあれよという間に音楽が進んでしまう不満も感じないでもないが、演技の「間」に適合させるように音楽のテンポをことさら引き伸ばしたり、パウゼ(休止)を異様に長く採ったりという近年流行の指揮を聴くと不愉快になる私にとっては、このような「小細工の無い」指揮者の方がずっと気が楽だ。
それに、このように演奏された方が、モーツァルトの音楽の多彩さをはっきりと感じることができる。このオペラでは、第1幕よりは第2幕、第2幕よりは第3幕といったように、モーツァルトのオーケストレーションが驚異的な勢いで複雑精妙さを増して行っているのだが、東京フィルが伝統的なスタイルながらきわめて柔らかい響きを聴かせてくれたため、その変化を存分に堪能することができたのはありがたかった。
歌手たちは若手が多いが、中でも出色の出来は、スザンナを歌ったオーストラリア生まれでアメリカ育ちのダニエレ・デ・ニース。軽快ながらシンの強い声と闊達な役柄表現で、意志の強いスザンナを描き出していた。
次いで伯爵夫人を歌ったイタリア出身のセレーナ・ファルノッキア。温かい声のソプラノだ。プログラムのプロフィール紹介欄に「・・・・(などの役を)丹精こめて歌い上げる」と記載されていたが、どなたの文章かわからないけれども、これはまさに言いえて妙だろう。本当にそういう感じの歌手である。ケルビーノ役のダニエラ・ピーニもいい。
男声陣ではフィガロのガブリエーレ・ヴィヴィアーニも悪くないが、それよりはむしろ脇役ながらバルトロのエンゾ・カプアーノが滋味豊かな歌いぶりで、またバジリオとクルチオ2役のジャンルーカ・フローリスが張りのある声で目立っていた。
伯爵はマルクス・ヴェルバが歌っていたが、この人の演技にもう少しあくどさがあったら、敵役の封建領主としての存在が感じられたろうにと思う。声が散り気味だったのも、歌劇場に比して残響の多いこのホールのアコースティックに、彼の声がなじまなかったのかもしれない。今回はP席が開放されていて、しかも大がかりな舞台装置が無かったせいか、歌手たちの声は響きすぎるほど響き、明晰さを失わせる傾向もあったのだ。
なお、バルバリーナを歌った吉原圭子は、先日びわ湖ホールで「こびと」の王女を聴いた際には、はしゃぎすぎが裏目に出たような印象だったが、今日のような軽い役では実に歯切れが良くてすばらしい。
総じてこれは、成功したプロダクションである。そろそろ行き詰まりかと思われた「ホール・オペラ」に突破口を示した上演ではないかという気がする。このあと、9日と12日にも上演がある。
サントリーホール恒例の「ホール・オペラ」が、これまでのヴェルディ・プッチーニなどイタリア路線中心から急転回してモーツァルトに。今年から3年間「ダ・ポンテ3部作」を手がけるそうだが、その第1弾がこの「フィガロの結婚」である。指揮はニコラ・ルイゾッティ、演出はガブリエーレ・ラヴィア。
このシリーズは発足以来いわゆる「セミ・ステージ形式」が基本で、ステージ上に配置されたオーケストラおよび比較的簡略な舞台装置、という構築による上演だったが、新しい路線による今夜の舞台などを見ると、これはもう本当の歌劇場によるプロダクションといってもおかしくないほどの水準になっている。
オーケストラは舞台後方に奥を向いて配置され、指揮者はメインの客席を向いて位置する。モーツァルトの管弦楽は編成が小さいので、そのぶん、歌手たちが演技を行なう舞台前方が広く使えるという利点があるだろう。
この舞台装置(アレッサンドロ・カメラ担当)は、床も壁も額縁入りの貴族らしい人物たちの絵画でいっぱいに埋められ、それらは非常に古く暗い色で、薄汚れている。昨年の「東京のオペラの森」でのロバート・カーセン演出の「タンホイザー」の舞台を、もっとくすんだ色に仕立てたような光景である。同じく、机や椅子やベッドなどの小道具も古くて侘しくて簡素だ(道具の数は、昨年のエクサン・プロヴァンス音楽祭における「フィガロの結婚」の舞台よりはずっと多い)。
こうなればもう、一見しただけで、崩落していく旧体制社会を背景に、新・旧の人間ドラマを描き出そうという演出意図が読み取れるだろう。
そのラヴィアの演出は、登場人物の相関関係については原作のト書きに従い、特にあざとい深読みもこじつけも施していないが、演技のニュアンスは非常に細かく、芝居としてストレートに成立するものにしている。中庸を得た舞台として、観客にも安心感を抱かせたのではなかろうか。登場人物の大半は舞台じゅうを猛烈な速度で走り回り、飛び越え、踊り、格闘し、スピーディな演技を展開する。
もっとも、アルマヴィーヴァ伯爵を旧体制の支配者とし、フィガロたちを新しい時代の担い手として明確に対比させるのかな、というこちらの予想は外れた。
それが演出の意図だったか、伯爵役の歌手の演技のせいだったのかはわからないけれども。
この若々しい群像の躍動といった舞台は、指揮者ニコラ・ルイゾッティの率直で推進力に富んだ音楽づくりによって、更に煽られたようだ。あまりにイン・テンポで、「矯め」の全くない指揮ゆえに、あれよあれよという間に音楽が進んでしまう不満も感じないでもないが、演技の「間」に適合させるように音楽のテンポをことさら引き伸ばしたり、パウゼ(休止)を異様に長く採ったりという近年流行の指揮を聴くと不愉快になる私にとっては、このような「小細工の無い」指揮者の方がずっと気が楽だ。
それに、このように演奏された方が、モーツァルトの音楽の多彩さをはっきりと感じることができる。このオペラでは、第1幕よりは第2幕、第2幕よりは第3幕といったように、モーツァルトのオーケストレーションが驚異的な勢いで複雑精妙さを増して行っているのだが、東京フィルが伝統的なスタイルながらきわめて柔らかい響きを聴かせてくれたため、その変化を存分に堪能することができたのはありがたかった。
歌手たちは若手が多いが、中でも出色の出来は、スザンナを歌ったオーストラリア生まれでアメリカ育ちのダニエレ・デ・ニース。軽快ながらシンの強い声と闊達な役柄表現で、意志の強いスザンナを描き出していた。
次いで伯爵夫人を歌ったイタリア出身のセレーナ・ファルノッキア。温かい声のソプラノだ。プログラムのプロフィール紹介欄に「・・・・(などの役を)丹精こめて歌い上げる」と記載されていたが、どなたの文章かわからないけれども、これはまさに言いえて妙だろう。本当にそういう感じの歌手である。ケルビーノ役のダニエラ・ピーニもいい。
男声陣ではフィガロのガブリエーレ・ヴィヴィアーニも悪くないが、それよりはむしろ脇役ながらバルトロのエンゾ・カプアーノが滋味豊かな歌いぶりで、またバジリオとクルチオ2役のジャンルーカ・フローリスが張りのある声で目立っていた。
伯爵はマルクス・ヴェルバが歌っていたが、この人の演技にもう少しあくどさがあったら、敵役の封建領主としての存在が感じられたろうにと思う。声が散り気味だったのも、歌劇場に比して残響の多いこのホールのアコースティックに、彼の声がなじまなかったのかもしれない。今回はP席が開放されていて、しかも大がかりな舞台装置が無かったせいか、歌手たちの声は響きすぎるほど響き、明晰さを失わせる傾向もあったのだ。
なお、バルバリーナを歌った吉原圭子は、先日びわ湖ホールで「こびと」の王女を聴いた際には、はしゃぎすぎが裏目に出たような印象だったが、今日のような軽い役では実に歯切れが良くてすばらしい。
総じてこれは、成功したプロダクションである。そろそろ行き詰まりかと思われた「ホール・オペラ」に突破口を示した上演ではないかという気がする。このあと、9日と12日にも上演がある。
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