2024-03

2012・3・29(木)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団のマーラー

    サントリーホール  7時

 「亡き子をしのぶ歌」と、交響曲「大地の歌」を組み合わせたプログラム。インバルの定番、マーラー。
 今秋からまた始まる交響曲ツィクルスに先立つこの日の「都響のマーラー」は、コンサートミストレスが四方恭子、トップサイドに矢部達哉が座る総力戦。
 イリス・フェルミリオン(メゾ・ソプラノ)が両者を歌い、ロバート・ギャンビル(テノール)が後者で加わった。

 都響は、引続き快調だ。柔らかく拡がる弦楽器群の良さもさることながら、今日はとりわけ管楽器群が魅力的な演奏を聴かせてくれた。滋味あふれるオーボエをはじめ、フルートもクラリネットもファゴットもホルンも、ソロでもアンサンブルでも、ふくよかに、豊潤に響く。
 インバルも例の如く、音楽をがっしりと隙なく構築しながら、漸強・漸弱の起伏をきわめて微細なニュアンスで表情づけた。都響もまた見事にそれへ応える。

 昔、インバルと都響のマーラーを聴いた時には、ここまで芳醇な音は感じられなかったような気がする。それぞれ好ましく変貌した指揮者とオーケストラが手がける作品は、たとえそれらが旧いレパートリーではあっても、新鮮さを感じさせるものだ。

 ただ、それでは今日の演奏が全て完璧だったかということになると、――たとえば「大地の歌」の場合、急速なテンポの楽章では、凝縮度などの面に、多少まとまりを欠いたところがないでもなかった。しかしこれらは、明日の第2回の演奏の際には、うまく解決されるだろう。
 その点、遅いテンポで現世への別れが惻々と語られる全曲の頂点――第6楽章「告別」では、声楽ソロを含めたあらゆるものが結集して、きわめて印象的な演奏が繰り広げられていた。これは、特筆すべき演奏であった。

 フェルミリオンのソロが、最初の歌曲も含めて素晴らしい。この人、中高音はともかく、低音域になると、俄然凄味のある声になる。そのギャップがちょっと不思議ではある。

 ギャンビルの方は、――大体この「大地の歌」は、テノールにとっては非常に損な曲だから、気の毒だ。第1楽章など、ナマ演奏ではだれが歌ってもオーケストラに声が消されてしまうだろう。
 オペラのベテラン指揮者だったマーラーが、最晩年になって、なぜこんな「声を打ち消すような鋭角的な響きの管弦楽」で作曲したのか。もし彼がすぐ他界せず、自分で指揮して上演していたら、多分あちこち改訂したのではなかろうか? 
 ――というわけで、ギャンビルに文句をいう人がいたら、それは少々酷であろう。ただ彼、少し粘っこい歌い方をしていたのには、あまり共感できないけれども。
     モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

コメント

今日の主役はフェルミリオンさん、本間さん、西條さんでした。
フェルミリオンさんの歌唱は情感、陰影に富んで聴き応えがありました。経歴をみると、C.ルートヴイッヒに師事したとあり、なるほどと思います。オクタヴィアン、ヘロディアス等も歌うそうなので今度は新国で歌ってほしいです。

珍しく、定期会員になっている昨今。。。
コンサートのチラシ。海外からのオーケストラも減り。(2・3月は、D・Harding/BRSO
L・マゼール/POが相次いで、東アジア公演実施中。曲目もかなり積極的。)


2曲聴いていくうちに、最初に思ったこと から順に。

(1番目)1年のシーズンの最後を大切にしようとして、全体に全楽員が揃う作品が多いことにとても好印象を抱く。とても大切な信頼関係の構築に貢献する。。。

判りやすくいったら、学校行事で最も大切なのは、卒業式。次、入学式。
一つの節目(シーズン)の終わりは、大切にする姿勢。最大級にGOOD。

(2番目)他の座席にポツンと、都響のホルン団員が座る席が、ロゴマークの入ったパイプ椅子。意味は特にないけど、観察心旺盛につき、気付く。

(3番目)音楽面はできていて当たり前なので、どういうことを何をやってんだろうと観察するに、音楽外のことにふと思いをよせる。弦楽器のヴィブラートのかけ方、みんなそれぞれ、習ってきた師事した先生の違いでしょうか。みんなそれぞれ、違う。
けど、誰がこの中で、指先が手先が器用なのかな??と好奇心を持つ。手先の器用さ自慢大会みたいなことを、パンフレットに載せたら面白い企画になるのに。と思いながら。聴いている。
それは、音楽ができていて当たり前だから安心して聴いていられるから。

(4番目)ジークムントとフリッカを持ち役にしている歌手だから、安心して聞いていられる。イリス・フェルミリオンが最終楽章の始まる直前、譜面を後ろから前にページをめくるのを見て、自分の声の配分と全体の構造を一瞬、最終確認している雰囲気があって。ご本人がここはツボとして抑えておきたい<<凄味のある声>>に貢献しているかに思えました。

(5番目)全体合奏の状態になると、「大地の歌」って、マーラーのあらゆる交響曲の特有の旋律が縦のラインで幾重にも複雑な構造をなして、響いている(再現)されているのかな。と初めて思いました。譜面の全部も知らないし。専門家じゃないし。。

(6番目)今回のコンサートの収穫は、木管・金管楽器群に、とても好印象を持ったことでした。何よりも人を得る・得たから、個々のパーツの複雑にできた作品にとっても。。
*****************************
とても、良かったです。(飾らない言葉で)

花束の渡し方

3/30の方に行きました。
前に、ベルティーニの指揮で聴いたときは、オケが健闘しているのに、Msが凡庸で十分に楽しめませんでしたが、今回は歌手とオケともに優秀で大感激でした。つくづく此の曲の成否はは、歌手しだいだと思いました。
ところで終演後、花束を持った初老の人が前のほうにしゃしゃり出てきて、ステージのインパルさんを呼びつけていました。男が花束を渡すのも妙だと思っていたら、この人はインパルさんに、なにやら話しかけており受け取ったインパルさんは花束を持ってステージ後方に行き団員に渡しました。つまり、この男性は、此の団員に花束を渡すために、インパルさんを「パシリ」に使いました。こんなことをして良いのかと思いましたよ....

とても立派な演奏でしたが 亡き子と大地の歌でこんなに感情に訴えて来ない演奏が出来るんですね。
インバルは右手の拍取りの振幅が常に一定で安定しており感情は表現されず即興性もなく、アンサンブル上は非常にわかりやすい。左手は音量の調整に主に使用される。
その結果隙のない完璧にプログラミングされたアゴーギグとダイナミックスが実現していました。
都響のソロ奏者はみなさんその範疇で立派な演奏をされていました。唯一フルートだけはそこをはみ出た別世界(この地上から離れた天国とも地獄ともいえない)を表現されていたように感じました。
大地の歌はそれで少しは救われましたが、亡き子ではすべてがインバルに制御されていて、いたたまれなくなるような慟哭(例えば第二曲の冒頭のチェロ)を感じ取れなかったのはとても残念でした。

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