2020-05

12・9(金)クリスティアン・ゲアハーアーのマーラー歌曲集

   トッパンホール  7時

 バリトンのChristian Gerhaher――日本での公式表記はどうやら「ゲルハーヘル」に落ち着いてしまったようだが、ドイツのジャーナリスト筋からは「ゲアハーアーがオリジナルに一番近い」と言われているので、それに従うことにする(ORFのアナウンサーの発音でも「ゲアハー(そのあとは呑み込み気味)」と聞こえるくらいだし)。

 そのゲアハーアーが、ピアノのゲロルト・フーバーと協演して、マーラーの歌曲集を歌ってくれた。
 冒頭に「さすらう若人の歌」、最後に「亡き子をしのぶ歌」。その間に「子供の魔法の角笛」から休憩を挟んで合計10曲。アンコールには「原光」。

 ゲアハーアーは、かつて出て来た頃には、声から歌い方から師のフィッシャー=ディースカウに生き写しで、こうも似るものかと驚かされたものだ。
 最近はだいぶその気も薄れて来たようだが、それでも「さすらう若人の歌」など、目を閉じて聴いていると、昔エンジェル・レコードで擦り切れるほど聴いたフィッシャー=ディースカウの表現を髣髴とさせるところがいくつもある。

 といってそれは決して物真似の類には聞こえず、あくまで「師譲りの手法」と感じられる段階にまで至っているのだから、結構だろう。
 歌詞のひとつひとつを明晰に表現し、激しい感情の爆発の個所では声をまっすぐに伸ばして盛り上げて行き、苦悩や悲しみの個所ではあたかも呻くようなモノローグのごとく声を沈潜させるが、その対比と幅が非常に大きいため、歌唱は素晴しく劇的なものになる。1曲1曲に強い緊張感があふれ、ただの1ヶ所たりとも弛緩するところが無いというあたりにも、ゲアハーアーの力量を感じさせる。
 ――まあ、これらもすべて、先生譲りの美点と言えるべきものだろうが。

 「この歌をつくったのはだれ?」や「塔の囚人の歌」や「浮世の暮らし」の最後の決めの鮮やかさなど、胸のすくような感を、もしくは強烈な悲劇性を与えるものだった。

 ゲロルト・フーバーのピアノが、これまた強い自己主張を押し出している。あたかもオーケストラをピアノで描き出そうとするかのように、激烈な起伏を盛り込む。
 「夏の歌い手交替」の最後といい、「いたずらっ子をしつけるには」といい、「ラインの伝説」といい、歌よりもピアノが主役だ、と言わんばかりの物凄さだ。たしかに、「番兵の夜の歌」での高潮個所など、あの激したバリトン・ソロと渡り合うには、たしかにあのくらいの凄まじいピアノでなければならないだろう。

 とはいえ、「さすらう若人の歌」の1曲目など、いくら何でもやり過ぎではないのか? 
 「いとしいひとがお嫁に行く日は・・・・ぼくはひとり部屋にこもって泣きぬれる」とバリトンが静かに歌う時、何故ピアノがあのように激しく跳ねなければならないのか、理解に苦しむ。心の奥底に燃える火をピアノが表現しているのだ、という解釈は、穿ちすぎだろう。それに、歌との座りも悪くなるし。

 だがフーバーは、ゲアハーアーとは何度も協演して気の合った仲だ。それなりの意図があるのだろう。
 とにかく、そのピアノの巧いのは事実だ。「塔の囚人の歌」での乙女の歌詞のバックに流れるまろやかな音色と、沸き起こる恋心を暗示する上行音階の動き、あるいは「シュトラスブルクの砦」での角笛のエコーの描写など、見事なものである。

      ⇒音楽の友2月号 演奏会評
 

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