2020-04

11・22(火)サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル マーラー「9番」

     サントリーホール  7時

 ラトルもこのところ変貌した――と言っている方もいるが、この日の演奏を聴いた範囲では、やはりラトルはラトル、彼の個性は昔から一貫しているだろう。

 ただ、どんな指揮者でも多かれ少なかれそうだが、ラトルもまたその時々の演奏によって、同じ曲にも異なった性格を注入することがある。
 数年前に彼が指揮した「ワルキューレ」など、たった半年の違いでありながら、エクサン・プロヴァンス音楽祭での叙情的でふっくらした音楽づくりと、ザルツブルク・イースター音楽祭での巨巌のような強面のつくりとの違いに驚かされたくらいだ。

 今夜のマーラーの「交響曲第9番」にしても、CD(EMI TOCE-90031~2)で聴く4年前のベルリンのフィルハーモニー・ライヴとでは、特に第4楽章などは随分違う。
 CDで聴く演奏では、フレーズの流れの中にアクセントをぐいぐいと叩きつけるようにして、マーラー晩年の諦観的雰囲気どころか、彼が最後まで捨てなかった凄まじい挑戦的な意志を浮き彫りにするような性格を感じさせていたものだ。だが今夜の第4楽章では、そこまでの激しさは薄れており、少しなだらかな(ラトルにしてはだが)音の響かせ方に変っていたように感じられる。
 とはいえ、他の多くの指揮者のそれに比べれば、随分尖った、戦闘的で刺激的なマーラー演奏であるということは、たしかであろう。

 樫本大進を先頭とするベルリン・フィルの弦楽セクションの響きも、内声部が明晰に区分けされているためか、第4楽章の主題も、弦が一体となって大河の如く滔々と流れるような趣きにはなっていない。――私など、41年前に聴いたバーンスタインとニューヨーク・フィルのあの濃厚な演奏の呪縛から未だに解き放たれていないせいで、どうしても第4楽章冒頭から音響的なカタルシスを求めてしまうので、今夜のような演奏を聴くと妙に落ち着かない気分になってしまうのだが・・・・。

 しかし、第1楽章や第4楽章最後でラトルが創り出したあの弦楽器群の極度の最弱音の美しさは凄く、そのほか全曲を通じて金管も木管も並外れて巧いことこの上なく、「不滅のベルリン・フィル」の凄さと威圧感を予想通り存分に感じさせる演奏であったことは間違いない。
 私個人としては、感嘆はしたものの、感動にまでは至らない演奏ではあったのだが、しかし全曲最後の弦楽器群の、虚空に溶解して行くような美しさはやはり最高だったので、その音を頭の中でエコーのように響かせつつ席を立ったのだった。

コメント

東条先生、こんにちは。
私も1970年のバーンスタイン=NYPOの呪縛から逃れられません。あの頃はまだマーラーの生演奏も少なかったし、年も若かったので感動の度合いも大きかったということはあるかもしれません。それでも、当時のカラヤンやベームの来日演奏に比べても格段の存在感でいまだに私の頭の中のかなり大きな部分を占めているという、あの演奏は、少なくとも私にとっては、接する事が出来た出来た人生最高の名演だったということでしょうね。
この日のラトル=ベルリンPOも素晴らしい演奏で、じつはここ数日、その演奏の細部が機を見るごとに耳によみがえってきて妙な気分ではあります。10年後までこの感覚を覚えていられるでしょうか。近年刺激が多くなってきているから、忘れてしまうんでしょうか。そうだとすると(年齢を重ねるということは)残念なことです。

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