2020-04

11・13(日)團伊玖磨:「夕鶴」

 日生劇場  2時

 大入り満員だそうである。
 日本のオペラでこれだけ客を集められる作品は、さしあたり、この「夕鶴」を措いて他になかろう。

  今回は鈴木敬介演出版の上演だが、氏が去る8月22日に他界したため、「鈴木敬介 追悼公演」と銘打たれ、飯塚励生が再演演出を担当しての上演となった。カーテンコールの際には彼が鈴木敬介の遺影を掲げて登場、この公演の意義を観客に印象づける。

 美術に若林茂煕、照明に吉井澄雄、舞台監督に小栗哲家、衣装に渡辺園子らベテラン・スタッフも参加し再現された鈴木敬介演出の舞台は、オーソドックスで美しい。シンプルながら、清澄な風格を感じさせる。いろいろな意味で、いかにも日本人らしい感性にあふれたもの――と言っていいだろう。
 この中に飯塚の手がどのくらい加えられたかは知らないけれども、つうの佇まいや仕草に、鶴の雰囲気を終始漂わせているのが、素晴しく印象深い。

 今日の公演でつうを演じた若手の田辺彩佳は、その鶴の雰囲気を、極めて巧く表現していた。
 つうが哀しく別れを告げて去り行く場面での演技も美しいし、与ひょうに悪の手が伸びぬよう必死に願う場面での目の演技もなかなかいい。日本語の発音が明晰で、歌詞がよく聞き取れる。高音域での細かいヴィブラートが気になるが、声質そのものは綺麗だ。

 出演はその他、与ひょうに大間知覚、運ずに青山貴、惣どに山下浩司。
 この3つのキャラクターの方は、演技はごく類型的なものにとどまっており、特に与ひょうの性格表現は、この演出でも、相変わらずまだるっこしい・・・・つまり、つうの苦悩への反応の演技が、常にボケッとしていて、曖昧なのである。愚か者は愚か者なりに、もう少し演技の細かさがあってもいいのではないか?
 子供たちはパピー・コーラスクラブというグループだが、演技はわざとらしく、特に幕切れ場面は、いくらなんでもわめき過ぎだ(これは指揮者の責任か?)。せっかくのしんみりした感動も吹っ飛ばされてしまう。

 それを除けば、今回の下野竜也の指揮は良かった。
 起伏豊かで、テンポやデュナーミクの変化にも劇的な迫力があり、このオペラの音楽に本来備わっている深い情感や激しさを、かなりの程度まで再現してくれた。読売日本交響楽団のしっかりした演奏と併せ、今回最大の収穫だろう。
 唯一つ、つうの別れの歌の個所だけは、田辺の歌とオーケストラのカンタービレとがもう少しぴったり合っていたら、いっそう感動も増したと思われるが。

 しかし、オーケストラにこれ以上の劇的でロマンティックな雄弁さと美しさを求めるとすれば、やはりオリジナルの、管の編成の大きな――木管各2、ホルン4、トロンボーン3といったような――版で聴いてみたいところだ。
 そのオリジナルのスコアは既に失われてしまったと伝えられていたが、最近になって、大阪の某音楽大学で発見されたという。近々、その「原典版」で演奏される時代が来るだろう。そうすれば「夕鶴」の音楽は――少しグランド・オペラ的な性格が強くなるかもしれないが――こんなにも色彩的で劇的で表現豊かだったのか、と、新しい魅力を感じさせるはずである。

 若杉弘指揮の古いビクター盤(1970年録音)が、聴いた感じでは多分その原典版で演奏されているのではないかという気がするのだが、かつて氏に確認してみたら、「どの版でやったか、もう忘れちゃったよ」という返事が返って来た。このことは、以前にもこの日記(2011年2月5日)でも書いた。

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