2020-05

10・2(日)新国立劇場「イル・トロヴァトーレ」初日

   新国立劇場オペラパレス  2時

 新国立劇場の新シーズン開幕は、ヴェルディの「トロヴァトーレ」。

 冒頭から東京フィルが活気に満ちた音で鳴り出した。先日の「セビリャの理髪師」での貧相な音とはえらい違いだ。
 このオーケストラは出来不出来が極端だが、何が原因なのか? コンサートマスターの違いか? 今回は荒井英治の名がクレジットされていた。彼がコンマスを務める時には、たいてい演奏が良い。今日くらい劇的な演奏(東京フィルとしてはだが)をしてくれれば、新国のオペラも映えるというものだろう。

 指揮はローマ生れの中堅で、新国立劇場デビューのピエトロ・リッツォという人。テンポの遅い弱音個所では緊張感が薄れる傾向もあるが、全曲最後の悲劇的場面では轟々とドラマティックに、鮮やかに決めていた。

 主役歌手4人は、さほど著名な人はいなかったが、まず手堅い出来と言ってもよかったであろう。概してみんな最初は少し硬かったが、次第に調子を上げて行ったという感である。
 ヴィットリオ・ヴィテッリ(ルーナ伯爵)が安定した個性の強い歌唱を聴かせ、将来を期待させる。ヴァルテル・フラッカーロ(マンリーコ)も「見よ、恐ろしき炎を」では大見得を切り、大拍手を集めた。
 タマール・イヴェーリ(レオノーラ)は、最初はちょっと硬かったが、段々と本領を発揮して行った。ただこの人、この役には少しおとなしいという印象を与える。もう少しヒロインとしての華やかさが欲しいところだ。

 アンドレア・ウルブリヒ(アズチェーナ)は、声はよく伸びるのだが、リズムのメリハリに不足する傾向があり、第3幕第1場幕切れの激しい怒りのリズムを要求される歌などでは、歌詞の発音がすべて平板に流れてしまうのが問題だろう。
 脇役では、フェランドを歌った妻屋秀和が、底力のある声と、外人勢を凌ぐ体躯で存在感を出した。
 合唱はもちろん新国立劇場合唱団で、特に男声合唱は威力があって見事だ。

 演出は、ミュンヘンのゲルトナー・プラッツ劇場総裁でもあるウルリヒ・ペータースが担当した。この物語を支配するのは「死」であるとし、「死神」を重要なモティーフとして各所に登場させるのが新機軸だろう。
 その死神(古賀豊)は、最初からマンリーコとレオノーラに「取り付き」、マンリーコが伯爵を戦いで殺すのを妨害するだけでなく、最後はみずから手を下してマンリーコを処刑する役割まで演じてしまう(ついでにカーテンコールを仕切るということまでやる)。
 死はあらゆる者に平等に訪れるという論理から考えれば、そもそも死神がルーナ伯爵を守ったり、彼の手助けをしたりする行動を採るのは奇怪しいとも言えるが、もともとこのオペラ自体が滅茶苦茶なストーリーなのだから、あまり理屈っぽく考えても仕方があるまい。
 ただ、その「死神」が連れている幼い少年の顔と、アズチェーナの顔とに共通して「血」の色が出ているのは、物語の以前の経緯を考えれば、面白いアイディアと言えるだろう。

 全体に所謂ドラマの「演技」には乏しく、人物の動きは極めて「イタリア・オペラ的」な、様式的なスタイルだ。とてもドイツ人演出家の手によるものとは思えない舞台である。

 新国立劇場の新シーズン開幕公演、やや地味な印象を与えるプロダクションだったといえようか。
 休憩1回を含み、6時頃終演。

コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

新国立劇場 ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」(10月2日)

新演出作品によるシーズン・オープニング初日。2列目で鑑賞。関係者は観客の受け止め方を心配していると思われ、舞台上は非常に緊張感がある慎重な始まり。それが一部は硬さとして感じられた面があったかも知れないが私自身は好ましい硬さと受け止めた。
一方の観客席はもう少し華やかさがあっても良いとも感じる。華やぎを好む観客は同日同時に行われているバイエルン国立歌劇場来日公演「ローエングリン」に方に集中したのかも知れない。

この公演では何と言っても演奏が素晴らしかった。「指揮者の力量」と感じながら聴いたが、コンサートマスターの力によるところが大きかったのかも知れない。

歌手は東条さん指摘の通り、バランスが取れている。私が一番良いと感じたのは、ルーナ伯爵役のヴィテッリ。次に良かったのはレオノーラ役のタマール・イヴェーリとフェルランド役の妻屋。マンリーコ役のフラッカーロとアズチェーナ役のウルブリッヒはあと1つ何か欲しいという感じだった。悪いところは全くないのだが。
新国立劇場の合唱はいつもの通りの上手さ。

ヴィテッリはまた違う役を聴いてみたいと感じた。精悍な雰囲気が良かった。
イヴェーリのマクベス夫人役はあまり好きではなかったが、レオノーラ役は清楚な雰囲気がなかなか良かった。表情の柔らかさもマクベス夫人の時の印象とは全く違う。急な代役に駆けつけてくれたこともありがたい。マクベス夫人役で新国立劇場と仕事をした過去の心地良い経験が彼女を動かしたのだろう。最近は新国立劇場に何度か登場している歌手が初登場の歌手をうまくリードしてくれているように感じる。
妻屋はこのオペラを開幕する役で重要。その重要な場面を力強く務め、その後も安定していた。身長が高いのでヴィテッリ、フラッカーロと並んでも引けを取らない。

マンリーコ役はガルージンの印象が強い(新国立劇場)。また、アズチェーナ役はジャチコワの役作りが素晴らしかったのを思い出す(サンカルロ歌劇場来日公演)。

演出では死の象徴の存在感が極めて強い。と言うより、すらりと長身で強い表情を持った古賀豊の存在感の強さと言うべきかも知れない。冒頭、騎馬像のある城の前からスタートするが、まさか馬上の人(死の象徴)が動きだすとは想像もしなかった。死の象徴の強い存在感はここから始まり最後までしつこく付きまとう。私にはしばしば、アズチェーナの母親の亡霊のように感じられた。時々子どもが登場するので、それはアズチェーナの本当の子どものイメージ。
ルーナ伯爵の衛兵隊は隊長のフェルランドを除き、なぜか、全員が悪役を連想させるようなマスクをつけている。死の象徴こそ、まさに「象徴」の意味のためにマスクをつけた方がより効果的だったのではないかと感じた。

最初のマンリーコの舞台裏の歌は機械的な増幅をさせない生声。少し立ち位置を変える、反響させる場所を変えるなどしてより響かせた方が効果的だったのではないか。やや物足りない声量になり残念。

兄弟であり、恋敵のマンリーコとルーナ伯爵が戦うところは衣装も含めて双子の兄弟風。フラッカーロとヴィテッリの雰囲気や体格が近いことが良い効果を出していた(フラッカーロの方がかなりガッチリしているが)。

物語は「死が世界を支配する暗い時代、憎しみと復讐が生を凌駕する時代」との設定。構成は前半(第1部:決闘、第2部:ジプシーの女)、後半(第3部:ジプシーの子、第4部:処刑)に別れ、前半・後半の冒頭、幕そのものにイタリア語による物語設定が長々と映し出される。文字が流れる中で指揮者が登場し、観客は指揮者への拍手をせねばならず、日本語字幕を追わねばならず…ということでこの物語設定映し出しの効果は半ば(流すタイミングを考えるべきではないか)。

シンプルな舞台装置で衣装も美しかった。新国立劇場の舞台機構は更に工夫して使って欲しい気はするが、効果的な使い方にはなっていた。

演出は様々な工夫はあるものの、東条さんのご指摘の通り演技がほとんどない場面が少なくない。マンリーコとルーナ伯爵が対立する場面でルーナ伯爵が手持ち無沙汰にさえなっていた。最も大切な対立の場面の1つなのにそんな演出があるのだろうかとさえ思った。
幕切れは暗転すると同時にルーナ伯爵とアズチェーナが舞台後方にいる死の象徴に近づいて行っているように見えた。暗転が早すぎて、本来は3名が集まったところで終わるはずだったのかどうか。ハテナマークが浮かんだ幕切れだった。

演奏、歌手ともに素晴らしく、合唱はいつもの通り申し分ない。また演出も新しい。来日公演をしているバイエルン国立歌劇場に引けを取らない公演であると感じながら聴いた。

こんばんは。

私も、新国立劇場の「イル・トロヴァトーレ」を鑑賞してきましたので、興味深く読ませていただきました。

マンリーコ役のフラッカーロとアズチェーナ役のウルブリッヒはあと1つ何か足りないと感じましたが。言われてみるとそんな感じもしましたね。

私は、レオノーラ役のタマール・イヴェーリ、部下役の妻屋さんと合唱が特によかったと思いますが、バランスのとれた舞台だと思い、結構満足して心に残りました。

私もブログに「イル・トロヴァトーレ」の感想を書いてみましたので、是非読んでみてください。

よろしかったらブログにご意見、ご感想などコメントを頂けると感謝致します。

今シーズンの冒頭2演目(トロヴァトーレとサロメ)は、面白くマニアック。けど、表面だけをなぞってしまうと、とても面白くない。実際は、ダブル・ビル。どこかに、オカルトのにおいを漂わした’悦び(喜びではない)’。
****************************
トロヴァトーレは、二人の死を以ってしか成就することのなかった運命の帰趨のいたずらに翻弄された大人の愛の結実の果ての’悦び’。
サロメは、少女が得体の知れない変容を遂げて化け出た’悦び’。
******************************
お互いの話も、話の進行上、4人の登場人物で、死ぬのも2人。
愛の結実の元で死ぬ大人の世界の2人。相互の合意が働いている<死>。
対して、対極的な人間2人の誰かが命令したことによって「殺してしまえ!」で成就する接吻と<死>。
***************************
プログラムも何も観ずにトロヴァトーレを観るに。この作品、真面目に初めて観る作品です。

このトロヴァトーレの演出の発想、ミュンヘン・オペラのもう多分かかることのない
(ヘンツェのDasGehege)+(サロメ) と相関関係があるように、映画<エクソシスト>を作った映画監督のものと似ていることに段々気付く。私見ですけど。

死神が高笑いする終わりの場面まで(フェランドが一生懸命難しい詠いまわしをするところまで)が、ヘンツェのオペラにあたる部分。あとは、同じ。

ただ、この演出の逃してはならないスパイスに、第4幕で、刺客がアズチェーナを暗殺しようとするも、死神はアズチェーナをかばっている(助けている)。

死神とレオノーラの、踊りは、死への誘いだけど。レオノーラの心のヴェールが徐々に剥がされていくように。(これ、サロメの踊りと同じ理屈。現行のミュンヘンのサロメと)
****************************
<<死はあらゆる者に平等に訪れるという論理>>、ドラマの一つ一つの鍵を握る人物構成。
アズチェーナ=ヘロディアス。ルーナ伯爵=ヘロデ王。ともに、問題となる愛の’悦び’の帰趨を担う相関関係とも取れるし。
このトロヴァトーレ、アズチェーナとルーナ伯爵に死神が寄っていかなかったに等しい。
************************
ともあれ、サロメは、仕事をするから行かない。
この新演出、前も非常にオーソドックスで、奇のてらったところがないのに。この演出をかけたのだから。よーーーーーく、長持ちさせる工夫をして欲しいです。
***************************

イル・トラヴァトーレ10月17日

あまりに暗い演出。
歌手に動きがすくないのに、一方でやたらと動く死神の存在がむしろうっとおしい。ヴェルディーの音楽から湧き立つ想像力を破壊してしまう。
東フィルの今日の出来はすくなくとも荒い。出だしはよかったのに、あとは残念なところが多かった。
よかったのは、妻屋さんと合唱。これは、いつ聞いても安定していて、素晴らしい。
主役4人は全体的に力不足。うまく歌える時とそうでない時の落差が大きすぎる。
それでも、3重唄や4重唄のところは、うまくまとめていた。ここは遅めの演奏ともマッチして、いい感じに仕上がった。
バイエルンの肌理の細やかさには及ばないが、まあ及第点か。
それにしても新国立劇場のオペラはなかなか感動で涙が出ない理由はなんなのだろうと、考え続けて4年になります。これって、結構深刻と思います。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://concertdiary.blog118.fc2.com/tb.php/1201-82a9be2e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | HOME |  »

























Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

ブログ内検索

お知らせ

●2007年8月以前のArchivesを順次、アップロード中です。併せてご覧下さい。
2007年8月
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月
2006年8月
2006年7月
2006年4月
2006年3月
2005年12月
2005年8月
2005年4月
2005年3月
2004年4月

最近の記事

Category

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」