2017-11

5・20(金)クリスティアン・アルミンク指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団

   すみだトリフォニーホール  7時15分

 総統閣下のみならず、満都の(?)話題をさらった音楽監督が、やっと還って来た。
 ドヴォルジャークの「交響的変奏曲」、ブラームスの「二重協奏曲」、マルティヌーの「第3交響曲」というプログラムを組んだ定期である。

 幸いに客席からブーイングも飛ばず、何かしら静かな雰囲気ではあったけれど、無事に初日の幕が下りたのは、まず以って祝着である。演奏はよくまとまっていたし、特に今夜の目玉商品であるマルティヌーは満足すべき出来であった。
 とはいうものの、カーテンコールで垣間見えた指揮者と楽員との間の空気は、あまり芳しくないような。

 まあ、世の中には、個人的には非常に仲が悪くても素晴らしい演奏をしていた有名弦楽四重奏団の話もあるし、隣同士で座る首席フルートと首席オーボエが「お早うの挨拶もしないほど仲が悪い」にもかかわらず演奏は「互いに絶対突っ込まれぬよう意地でも合わせて」いたオケがあったというし、私生活では口も利かないほど犬猿の仲だった名漫才コンビが現実にいた例もあるし、・・・・楽屋裏と舞台とで全然事情が異なる例は、昔から珍しくはない。
 言い換えれば、プロたるもの、いったん舞台に上れば、断じてウラのゴタゴタを客に感づかれるようなことがあってはならぬ、という鉄則である。

 精魂こめて指揮棒を振ったアルミンクも、いい演奏を行なった新日本フィルも、その点ではプロの面子を示した。音楽の持つ魔力が、すべてを結びつけるという例であろう。

 だが、カーテンコールも、やはり舞台の上のこと。芸の本番のうちであって、楽屋裏ではない。
 その点で、新日本フィルの楽員の中には――これまでの過程は私も知っているし、気持は充分すぎるほど理解できるが――客の面前で些か大人気ない行動を示した奏者たちも少なくなかった、と見られても仕方ないだろう。

 終演後のロビーでのサイン会に現われたアルミンクの表情に、何か疲れたような、荒れた雰囲気が窺われたのは、・・・・こちらの思いすごしだったのならいいけれども。
 いずれにせよ、この修復には時間がかかるかもしれない。

 演奏の方は、ドヴォルジャークは何か乾いた演奏だったが、前述の如くマルティヌーの「第3交響曲」は秀逸で、昨年12月に聴いたフルシャと東京都響の演奏に劣らぬ出来を示した。清涼で、やや冷徹ながら多彩な音色を駆使、幕切れでは美しいカンタービレを利かせて、安らぎと救いのイメージを映し出していた。

 ブラームスでのソリストは変更になり、アリッサ・マルグリス(ヴァイオリン)とタチアナ・ヴァシリエヴァ(チェロ)が弾いた。彼女らの極度に濃厚な音色は、アルミンク=新日本フィルの個性とは少々アンバランスな傾向も。だがオーケストラの安定度は高く立派であり、剛直な響きを示していて、気に入った。

 演奏に関しての詳細は  音楽の友7月号演奏会評

コメント

>隣同士で座る首席フルートと首席オーボエが「お早うの挨拶もしないほど仲が悪い」にもかかわらず演奏は「互いに絶対突っ込まれぬよう意地でも合わせて」いたオケがあったというし

ああ、小澤征爾が来る前のCSOのことですね。

でも、今回の件は音楽性ではなく人間性のハナシ。オケと楽団員の対立は、大抵「音楽性」の対立によるもの。これはプロとして分かる。しかし「人間性」となるとネ。ベームもVPOから好かれてなかったけど、アルミンクの500倍くらいの音楽性がありましたから。要するに、アルミンクは人間としても、指揮者としても凡庸。あまりに平凡。いわば「タダの人」。ドミンゴやメータをみて御覧なさい。人間が(物理的にも心理的にも)デカいでしょう?・・・と言ってみたくなりますね。

>カーテンコールも舞台の上のこと。芸の本番のうちであって、楽屋裏ではない。その点では、新日本フィルの楽員の中には――気持は充分すぎるほど理解できるが――客の前で些か大人気ない行動を示した奏者たちがいた、と見られても仕方ないだろう。

そんなヘッツェルさんみたいな「デキた人」はもういませんよ(笑)あの人はどんなにキレてても、笑顔で握手。人間性と音楽性、ともに抜群でしたね。

アルミンクさんは新しいポスト就任も決まったそうですし、NJPはいっそ常任にハーディングを指名すべきでしょう。埋められない溝って言うのはある。(クラウスとVPOとか。)

マルティヌーの「第3交響曲」初めて、聞きました。<<冷徹ながら多彩な音色を駆使>>した音楽って、トリフォニーホールだからでしょうね。良かったです。
前半2曲、特には何も思いませんでした。

アルミンクさんの来日、新日本フィルの面々。<信用と信頼>って、外に向かって発信するものなのか、内輪に発信していくのか、興味あります。
アルミンクさん、ウィーン交響楽団の6月現地公演。棚から落ちてきたぼた餅。どう拾うのでしょうね。ルイジの代役。
新日本フィルの面々って、どんな信頼関係を構築するのでしょうかね。

来日していない多くの外人演奏家、共通しているのが、家族。子供を産みたい。またそう願っている。子育てが終わってない。出稼ぎに来ている人の理由はあからさまなキャンセル。

アルミンク氏のキャンセルした<<ばらの騎士>>の、元帥夫人の言葉に「物事には終わりというものがあるのです。」という言葉、本当に理解できていたのでしょうか。
本人にとっても団員にとっても、調和の取れた話、どう舵取りするのか、演奏会で証明してください。

今回の原発の事態は第3の開国の機会と言われている。何が正しいか、日本人もよく考えてみニャあといけない。欧米人にとっては、あの地震直後に逃げて、しばらく日本には来ないという姿勢は当然の常識となっていた。怖れられたのは海外メディアが報じた「メルトダウン」が起こっている、あるいは起こる高い可能性だった。日本のお茶の間にこの事実が出てきたのはようやくここ1,2週間ではニャあか。幸いそれでも皆、通常に生活できていたけれども、日本の情報開示の遅さはやっぱり問題だし、そのために信用が失われて逃げられるのは致し方ない。逃げた人、来なかった人を攻めるよりも、日本での原発の危うさなどなど、現実を証査する姿勢こそ必要だ。音楽家でも一社会人として、そういった問題を放っておいて、感情問題だけで今回の件を論じるべきではない。神奈川のお茶にまでセシウム・・・という現実だ。人体に、猫体に何年後かになって害が出ないと、誰が言い切れるのか。責任をとれるのか、と猫思うニャリ。

東条氏のこの日記4・19(火)
新国立劇場 R・シュトラウス:「ばらの騎士」
によると

(以下引用)>
> 鳴り物入りで今回の上演への期待を盛り上げていたはずのアルミンクが、原発騒ぎで突然来日を中止
(それでいながら欧州で別の仕事を入れたという噂だから、道義的に理解しかねるが)、新国立劇場が苦心惨憺して招いた代役は、同じオーストリアの指揮者マンフレッド・マイヤーホーファーという人。
(引用終わり)
とのこと。

首席客演指揮者や常任指揮者などとは責任が格段に違う

音楽監督をまさに『職場放棄』した。


まさに道義的にも許されない。

楽員も聴衆も、裏切られた思いを持つのは当然である。

今後、このコンビの演奏をとても聴く気にはなれない。

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