2021-04

2021・4・10(土)「名曲全集」沼尻竜典指揮東京交響楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 ミューザ川崎シンフォニーホールと東京響による「名曲全集」第166回。
 沼尻竜典の客演指揮で、ベルリーニの「ノルマ」序曲、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは牛田智大)、チャイコフスキーの「交響曲第4番」というプログラム。コンサートマスターは水谷晃。

 お客さんの入りがいいようである。
 主催者に訊いたら、「そりゃあもう、牛田さんですからね」とのこと。そういうものなのかなあ、と思いつつ2階席から見ると、なるほど1階席の最前列が若い女性たちでぎっしりと埋まっていた。まあ、いつの世にもアイドル人気というのはあるものだ。

 余計なことはともかく、その牛田智大の演奏、浜松のコンクール以前から私も注目していた若手だが、今日のショパンのコンチェルトでも持ち前の清澄で瑞々しい音色と表情を存分に発揮、しかもその膨らみのある豊かな中低音の響きも美しく、さらにスケール感の大きさを増したという印象である。まだ21歳、どこまで伸びるか楽しみの尽きないピアニストだ。

 沼尻竜典がチャイコフスキーの交響曲を指揮するのを聴いたのは、もしかしたら今回が最初だったか? 
 予想通り、直線的なチャイコフスキーで、哀愁感とか陰翳とかいった要素を意図的に排除したような音楽になっていたのがいかにも彼らしい。両端楽章では、チャイコフスキー特有の「フォルテ3つ」の指定を忠実に、目一杯に生かした演奏も聴かれた。特に終楽章コーダでのそれは聴衆を沸かすに充分だったが、どこからかあの禁断のブラヴォーの懐かしい響きも聞こえたような気がしたのは、こちらの空耳か。

 「ノルマ」の序曲(Sinfonia)では、終わり近くに現れる、あのハープを加えた木管と弦対話の美しい個所を、流れるようなテンポで演奏していたのが気に入った。

2021・4・9(金)東京・春・音楽祭:ムーティの「マクベス」解説

      東京文化会館大ホール  7時

 巨匠リッカルド・ムーティが予定通り来日した。半ば諦めかけていただけに、喜びもひとしおである。これで彼の指揮するヴェルディの「マクベス」全曲(演奏会形式上演)を楽しむことができるというものだ。

 今日はその一連の「イタリア・オペラ・アカデミーin東京vol.2」の一環として、彼が自ら「マクベス」の作品解説と、アカデミーのレッスンを公開で行なった。
 前半の40分ほどをヴェルディと「マクベス」についての解説に充てたが、これは前回(→2019年3月28日)と同じように、ムーティの持論たる「誤った伝統なるものを排し、ヴェルディの本来の意図を楽譜に基づき忠実に再現すること」を基本としての話。そしてそのあと95分ほどは、青山貴、谷原めぐみ、芹澤佳通、城宏憲ら、「若い音楽家による《マクベス》」(4月20日)の出演者たちを対象とした公開レッスンである。

 レッスンでは、ムーティは、演劇的な表現としての歌唱に重点を置いた指導で歌手たちを絞り上げる。自らピアノを弾き、朗々たる声で歌う。
 これはわれわれ聴衆にとっても、このオペラ━━特に音楽と登場人物の性格分析について理解を深めることのできる、貴重な時間であった。とにかく、ムーティの尽きせぬユーモアとジョークにあふれる話が、やたら面白いのである。休憩なしに2時間15分。もうじき80歳になるのに、見事なエネルギーだ。

2021・4・8(木)新国立劇場「夜鳴きうぐいす」「イオランタ」3日目

       新国立劇場オペラパレス  7時

 ストラヴィンスキーの「夜鳴きうぐいす」と、チャイコフスキーの「イオランタ」のダブルビル上演。いずれも新演出で、大野和士芸術監督と新国立劇場が力を入れたプログラムであったと思う。
 当初予定の多くの外国勢キャストが来日できていたら、さぞや個性の際立った上演となったことだろう。とはいえ、代役に立った日本勢も、慣れないロシア語歌詞を何とか克服して、それなりの成果を上げていたことは確かだと思われる。
 
 演奏は、高関健指揮の東京フィルハーモニー交響楽団と新国立劇場合唱団。
 主な歌手陣は、「夜鳴きうぐいす」が三宅理恵(鶯)、伊藤達人(漁師)、針生美智子(料理人)、吉川健一(中国皇帝)、ヴィタリ・ユシュマノフ(侍従)、山下牧子(死神)他。
 「イオランタ」が妻屋秀和(ルネ王)、大隅千佳子(イオランタ)、井上大聞(ロベルト公爵)、内山信吾(ヴォデモン伯爵)、ヴィタリ・ユシュマノフ(エブン=ハキア)、山下牧子(マルタ)、村上公太(アルメリック)、大塚博章(ベルトラン)他。

 私の考えでは、澄んだ声で鶯を歌った三宅理恵、豊かな声でイオランタを歌った大隅千佳子、滋味豊かに死神と乳母マルタとを歌った山下牧子ら、女声陣が気を吐いていたように感じられた。
 男声陣ももちろん頑張っていたけれども、ただし━━男声主役の中には、誰とは言わないけれども、高音が全然出ないのみならず声の不安定なテノール歌手もいて、いやしくも日本の国立歌劇場たるもの、いくら代役でも一定の水準以上の歌手を厳選して貰わなければ日本のオペラ界の発展のためになるまいとまで思わされたのも事実であった。

 指揮の高関健も代役ではあったものの、こちらはオーケストラを巧くまとめていて、「イオランタ」でのチャイコフスキー晩年の色彩感やカンタービレを率直に表出していたと思う。

 今回のプロダクションでは、ヤニス・コッコスの演出・舞台美術・衣装が注目されていた。特に舞台美術にはメルヘン的で色彩的な面白さがあり、皇帝の天蓋の上にのしかかる巨大な死神の不気味な姿など、派手な見せ場を備えていたようだ。ただ、ドラマとしての演技の面ではかなりあっさりしたもので、リアルな設定のはずの「イオランタ」においては、とりわけラストシーンの平凡さには失望させられた。

2021・4・7(水)東京文化会館バースデーコンサート

      東京文化会館大ホール  7時

 60年前の1961年4月、東京文化会館が開館し、その7日に関係者や報道陣を招いての落成記念式典が行われ、ウィルヘルム・シュヒター指揮のNHK交響楽団がベートーヴェンの「エグモント」序曲とバッハの「管弦楽組曲第3番」を演奏した。そして同日夜には一般都民向けの落成披露演奏会が行われ、金子登指揮東京藝術大学音楽部管弦楽部がドヴォルジャークの「新世界交響曲」などを演奏した。

 私はもちろん当時は小童で、そんな所へ入れるような身分ではなかったから、現場にいたわけではない。ただしその1か月後、初来日のバーンスタインとニューヨーク・フィルの「春の祭典」他のコンサートを、一番安い500円のチケット(5階席2列目)を買って聴きに行ったことはあったが━━。

 その東京文化会館が、今日めでたく還暦を迎えたというわけだ。建物の内部も外部も、もちろんホールそのものの雰囲気も光景も、あの頃と比べても鮮度を全く失っていないのは立派なことである。
 今日は私もしばしホワイエや客席を眺めつつ、当時初めてこのホールに足を踏み入れた時の感動を思い出していた。それまでのメインの音楽会場だった日比谷公会堂に対し、この東京文化会館大ホールが如何に宏大で美しい、夢のような世界に感じられたか。それは実に、筆舌に尽くし難いものがあったのである。

 今日はそのバースデーコンサートというわけで、佐渡裕の指揮する東京都交響楽団と、メゾソプラノの藤村実穂子が出演、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲と、「ヴェーゼンドンクの5つの歌」、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」を演奏した。なおアンコールとして、バーンスタインの「ディヴェルティメント」からの「ワルツ」と、ストラヴィンスキーの「グリーティング・プレリュード」が付け加えられた。
 コンサートマスターは四方恭子。

 「マイスタージンガー」前奏曲は、こういう祝典的な場には、まさに打ってつけの曲だ。佐渡は彼らしく都響をフルに鳴らし、大見得切った演奏に仕立て上げた。
 「ヴェーゼンドンク歌曲集」では藤村実穂子の深々とした歌唱が流石の境地を感じさせたが、指揮者とオーケストラとがあんなあっさりした演奏でなく、もっと深みのある音楽でサポートしていれば、いっそうこの曲に相応しい官能的な世界が創り出されていたろうに、と思う。

 「新世界交響曲」の演奏は、力感はあったものの、詩情に乏しい。

2021・4・6(火)カーチュン・ウォン指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 シンガポール出身の注目の若手指揮者カーチュン・ウォン(ウォン・カーチュン?)、近年、日本のオーケストラをたびたび指揮して好評を得ている人だが、私はどういうわけかこれまでタイミングが合わず、聞き逃してばかりいた。今回、漸くその本領に接することができた次第である。

 彼が今日指揮したのは、細川俊夫の「瞑想~3月11日の津波の犠牲者に捧げる」、デュティユーの「ヴァイオリン協奏曲《夢の樹》」(ソリストは諏訪内晶子)、マーラーの「葬礼」と「交響曲第10番」の「アダージョ」というプログラム。
 コンサートマスターは小森谷巧。

 これは4月定期で、本来はシルヴァン・カンブルランが振るはずだったのを、彼の来日が果たせなかったため、カーチュン・ウォンが代役で登場したわけである。前半2曲は当初の予定通りのもの、後半の2曲がウォンの選曲によるものだった。

 それにしてもこの4曲、どれもこれも、物凄い濃密さである。
 細川の「瞑想」は、彼の作品としては━━そのテーマに相応しく━━鋭角的で厳しい。長いパウゼを挟んで叩きつけられる大太鼓の轟音は、もしこの日、マーラーの「第10交響曲」が補作版で全曲演奏されていたら、その第4楽章の遠いエコーだったように感じられたかもしれない。
 そしてデュティユーのコンチェルトは、その本来の輝かしさやユーモアを含んだ曲想に対し、諏訪内晶子のシリアスで透徹したソロにより、むしろ突き詰めたような緊迫した演奏となっていた。

 その重量感溢れる前半の2曲に加え、後半はさらにマーラー2曲である。アタッカで切れ目なしに、「対の2曲」という形で演奏されたことは、当を得ていたと言えるだろう。ただ、弦の編成があまり大きくなかった所為もあってか、「アダージョ」の方は澄んだ細身の、室内楽的な音色を感じさせた。
 ウォンのマーラーをこれまで他に聴いたことがないのだが、もしや彼の狙いは、マーラーの持つ後期ロマン派の濃厚な世界の部分を引きはがし、その内側にある鋭角的で清澄な様相を浮き彫りにすることにあるのだろうか。そういう意図があったのなら、この「アダージョ」の演奏は、納得の行くものであった。

 だがしかし、━━「葬礼」の方は、そういうアプローチでは、必ずしもうまく行くとは思えない。マーラーがのちにこれを「復活」第1楽章に転用する際に手を加えた版と違い、良くも悪くも雑多な興奮、怒号、哀愁、悲劇性といったものを感じさせるこの旧版の「葬礼」の方は、そうなると、何か欠点ばかりが目立ってしまうように感じられてしまうのである━━これはあくまでも私の感想だが。

2021・4・3(土)東京・春・音楽祭 ブラームスの室内楽Ⅷ

      東京文化会館小ホール  7時

 加藤知子と矢部達哉(vn)、川本嘉子と横溝耕一(va)、向山佳絵子(vc)が演奏するブラームスで、「弦楽五重奏曲第1番」と「クラリネット五重奏曲」(ヴィオラ版)の2曲からなるプログラム。

 名手たちが集まった「合奏」だから、かりに弦楽四重奏のパートだけ聴いても、長年組んだ常設の四重奏団によるそれとは違って、完璧な緊密性を望むのは無理だろう。だが演奏のさなかに時々「ミューズの神が舞い降りて」(誰かのセリフだ)、美しく溶け合った陶酔的な世界が出現することがある。休憩後に演奏された「クラリネット五重奏曲ヴィオラ版」では、第1楽章の後半や第2楽章のある個所にそういう瞬間が聴かれた。

 ただ、前半の「弦楽五重奏曲第1番」の演奏には少々腑に落ちぬところが多く、第1ヴァイオリン(加藤知子)がもう少し強く自己を主張してもよかったのではないか、と感じられるフシがあった。旋律線が浮き出さず、しかも5人の各パートが混然とし過ぎて、この曲の精緻な声部の交錯が判然とせず、全く別の曲のように聞こえるところが多かったのである。
 第2部での「クラリネット五重奏曲ヴィオラ版」では、そういう問題はすべて解決されていたが。

 客席は市松模様だったが、その範囲内ではよく埋まっていただろう。さすが人気の奏者たちによる演奏会だけある。

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