2021-02

2021・2・28(日)大野和士指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 ベートーヴェンやブラームスの交響曲もいいけれど、たまにはこういう曲もナマで聴いてみたいものだ━━という想いが叶えられたような今日のプログラムは、第1部にサン=サーンスの「死の舞踏」とリストの「死の舞踏」、第2部にコダーイの「ガランタ舞曲」とヤナーチェクの「タラス・ブーリバ」。

 サン=サーンスの「死の舞踏」は、あらえびす流に謂えば「たわいもないもの」だが、今日の大野と都響の演奏は非常に荒々しく、真夜中の墓場での骸骨や亡霊の踊りというよりも「ワルプルギスの夜」的なイメージで描き出され、この作曲家の知られざる一面を窺わせるような音楽になっていたのが面白い。コンサートマスターの四方恭子が怪奇な音色で「死のヴァイオリン」を奏して見事。

 リストの「死の舞踏」も冒頭から劇的で、アンダンテ(スコア指定)よりもアレグロのテンポで開始された演奏はすこぶる前衛的かつ「ぶっ飛んだ」感のリスト像を描き出す。ピアノ・ソロの江口玲もまたこれに応じて、きわめてスリリングな「怒りの日」を構築。これで二つの「死の舞踏」が関連づけられたわけだろう。

 第2部での2曲は、作品の性格に応じて、いずれも正面切ったアプローチで予想通りの好演が聴かれた。大野和士と都響はこのところ快調な進撃が続く。

2021・2・27(土)下野竜也指揮NHK交響楽団

      BUNKAMURAオーチャードホール  3時30分

 真面目な指揮者と真面目なオーケストラ。その二つの個性が良い形で合致した演奏会と言っていいか。
 プログラムも、ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソロは三浦文彰)及び同「交響曲第4番」という、これまたいかにも真面目なイメージのプログラムだった。コンサートマスターは伊藤亮太郎。

 冒頭の序曲など、まさにシリアスで整然として、実直な感を与える演奏だったが、わずかに最後の和音でティンパニをひときわ強く叩かせ、終結感を強調して引き締めるあたりに下野の演出の巧さが滲み出る。

 次のコンチェルトになると、その謹厳な年長者たちと、その中に突如割り込んできた屈託ない若者との対話といった感で、しかしどちらかが妥協するわけでもなく、それぞれがそれぞれの口調のまま話を交わして、終ってみれば何となくちゃんと一つの世界が成立していた、とでも言えようか。3年ほど前に東京で三浦文彰がフェドセーエフ指揮モスクワ放送響とチャイコフスキーの協奏曲を協演した時(→2017年11月15日)のような「水と油」の世界にならなかったのは幸いだ。やはり、同じ日本人同士だったからか?

 第2部のブラームスの「第4交響曲」での演奏は、私にとっては今日一番の魅力的なものだった。謹厳なりにも、激しい感情の動きを見せつつ盛り上がって行ったのが第1楽章の中盤以降。この第1楽章の終結部や、第3楽章の後半、第4楽章の終結など、下野の煽りと追い上げも凄まじく、そういう演奏になるとN響の上手さと厚みがものを言って、まさに怒涛の如き音楽になる。
 その一方、第2楽章では、弦を中心とした素晴らしい第2主題(第41~49小節および第88~96小節)をはじめ、ヴィオラとチェロがarcoで短い対話を交わす個所(第68~71小節)などでは、深々としていい感じを出しているな、と思わせる演奏も展開されていたのである。
 下野竜也の設計の巧さと、N響の重量感とが好ましく合致した「4番」だったと言えよう。

 アンコールの演奏に取りかかったので、真面目なコンビだからどうせ「ハンガリー舞曲」でもやるんだろうな、と斜めに構えていたら、何とベートーヴェンの「フィデリオ」の中の「兵士の行進」が始まった。この選曲のユーモアに感心。

2021・2・26(金)阪哲朗指揮山形交響楽団

       やまぎん県民ホール  7時

 新日本フィルとのモーツァルトのシンフォニー、びわ湖ホールでの「魔笛」など、最近阪哲朗の指揮を聴いた人たちが、彼の丁寧な仕事ぶりと、音楽の素晴らしさを絶賛している。その両方とも私は聴いていなかったので、ならばと山形まで聴きに行ってみた。
 幸い山形新幹線も復旧しており━━とはいっても間引き運転で、かなり停車駅も多いため、通常よりも30分近く時間が余計にかかる。

 今日のコンサートは「ベートーヴェン生誕250年記念特別公演」で、第1部にニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、ヨハン・シュトラウス2世の「アンネン・ポルカ」とワルツ「ウィーン気質」、その間に彼とヨーゼフ・シュトラウス合作の「ピッツィカート・ポルカ」が演奏され、第2部ではベートーヴェンの「英雄交響曲」が演奏された。コンサートマスターは高橋和貴。

 阪哲朗の指揮は、もう20年以上にわたり聴いているが、今日の演奏を聴くと、その本領がいよいよ最良の形で発揮されはじめて来たように思う。
 「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲では、特に序奏の部分をはじめとして、素晴らしいハーモニーの移ろいが繰り返されるが、そこでの阪哲朗の指揮が、何と念入りで美しく、神秘的な雰囲気をよく描き出していること! 

 そしてまた、ウィンナ・ワルツとポルカでの演奏も予想以上の見事さで、特にワルツでの腰をくねらせるような独特の表情と甘い音色は驚くばかり。私は日本のオーケストラが手掛けたウィンナ・ワルツで、これほど艶やかな表情の演奏は聴いたことがない、と言っても決して誇張にはならないだろう。阪が山響をよくここまで仕込んだものだと感心させられるし、また山響もよくここまでやったものだと舌を巻く。
 彼らのいい仕事ぶりを日本の音楽界にもっと知ってもらいたいと願わずにはいられない。今日はCURTAIN CALLによりyou tubeでナマ配信されていたというから、いくらかでも他県の人々にも視てもらえたろうか。

 だがしかし、━━褒めてばかりもいられない。その第1部での演奏にエネルギーを使い果たしたわけでもあるまいが、第2部の「英雄交響曲」では、いくつかの点で息切れを感じさせたところがあったのだ。
 もちろん、阪哲朗のコンセプトと、それに応える山響の演奏の姿勢そのものには確固たる信念が聴き取れたし、音楽づくり全体としても決して悪いものではなかった。ただ、今回は敢えて言わせてもらうが、ホルン群の著しい不調が、折角の熱演の足を引っ張り、演奏の緊張感を失わせる結果を生んでしまったのだ。

 一度や二度のミスなら、人間のやることだからと言って見過すこともできようが、全曲にわたって、のべつ3本ともふらふらしていてはどうしようもない。第3楽章のトリオの個所など、言っちゃなんだが、いまどきプロオーケストラではあり得ないような演奏である。
 何が原因なのだか、私ごときがあれこれ口を出す立場にはないが、もし楽器へのこだわりがあるのなら、それよりも正確で真摯な演奏をして、作曲者及び聴衆への責任を果たすことの方が重要だと思うのだが如何。

 30年近く山響を聴き続けて来た私に言わせてもらいたい。今日の山響の演奏には、今の同楽団のいいところと悪いところとが、両極端の形で顕れていたように思う。山響が踏み出そうとしている新しいステップへの、これは一種の試練と言うべきか。

※you tubeで視聴できるCURTAIN CALLには、阪哲朗指揮山響のベートーヴェンの交響曲のライヴがいくつか載っている。これらはすべて、素晴らしい演奏である。

2021・2・25(木)松本宗利音指揮読売日本交響楽団&辻彩奈

      サントリーホール  7時

 ウェーバーの「オベロン」序曲、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」、ブラームスの「交響曲第2番」が演奏された。コンサートマスターは小森谷巧。

 コロナ禍による入国制限のため外国人指揮者たちの来日中止が多いのは残念だが、その間を縫って若手の日本人指揮者たちが活躍の場を得ているのは大いなる副産物であろう。
 今日、当初予定の外国人指揮者に替わって登場したのはシューリヒト・松本━━いや、松本宗利音という期待の若手日本人で、「まつもとしゅうりひと」と読む由。往年の大指揮者カール・シューリヒトに因み、シューリヒト夫人に命名してもらったとかいう話だ。現在28歳、札幌交響楽団の指揮者のポストに在る。

 彼の指揮を聴くのは、私は今回が初めてだったのだが、その勢いの良さと気魄、演奏にあふれる活気と熱気には、驚き、本当に魅了された。若い情熱をいっぱいにぶつけるといった指揮である。こういう若手演奏家は面白い。

 「オベロン」序曲では、かつてサヴァリッシュも重視したという「足どりも軽いリズム感」が聴かれ、チャイコフスキーの協奏曲第1楽章ではトランペットなど管楽器の最強奏3連音を際立たせるような「演出」も加えられていた(ただし後者はちょっと作為めいた感も与える)。
 この2曲では、盛り上げて追い込んで行った最後のクライマックスの直前で一瞬力の抜けるような、押しの足りぬようなところも感じられたが、最後のブラームスの「2番」では、幸いに、煽り立てるエネルギーが空転するところもなかったようである。

 そしてこの「第2交響曲」では、あの謹厳実直で落ち着きのあるイメージのブラームスが、あたかもその内面に秘めた快活さをいっぺんに噴出したかのような演奏となっていた。こういう解釈も面白い。中間2楽章での叙情感も、もちろん充分である。
 とにかく、この指揮者は注目株だ。現在のところ、若手指揮者の中では原田慶太楼とともに、指折りの存在であろうかと思う。

 一方、チャイコフスキーを弾いた辻彩奈も、今回は代役としての登場だったが、「若いシューリヒト」とともにヤング・パワーを全身で噴出させた今日の演奏も、私にはこの上なく魅力的に思えた。ベテランの指揮者と協演した時の演奏からは感じられない、体当たり的な熱狂が感じられたからである。
 この曲のソロ・パートが、これほど雄弁で熱気満載なものだとは、これまで思ってもみなかった。終始明るさを保ったまま躍動するソロには、それがチャイコフスキーの音楽に相応しいかどうかは別として、胸のすくような痛快さがある。勢い余って━━というところも二、三か所ばかり無くはなかったものの、とにかくそういう爆発的な演奏も、若さの特権というべきだろう。

 読響も、よくこの若手たちを盛り上げた。ただ、弦楽器群は良かったが、管楽器群の一部に粗さが目立って、ウェーバーとブラームスのある個所ではそれが度を越して興を削がれた。定期の時の読響とは些か違った雰囲気が・・・・無かったとは言えまい。

2021・2・24(水)石崎真弥奈指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 日本演奏連盟主催「都民芸術フェスティバル」参加公演。ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは徳永二男)とブラームスの「交響曲第4番」が演奏された。コンサートマスターは西江辰郎。

 徳永二男さんのヴァイオリンを私が初めて聴いたのは、ちょうど50年前の3月のことだった。当時、彼は24歳。東京交響楽団のコンサートマスターを務める傍らソリストとして活動、「希望の星」と呼ばれて大変な注目を集めていた。
 その演奏を放送しようと、彼と東京響とのハチャトゥリヤンの「ヴァイオリン協奏曲」を日比谷公会堂で生収録したのだが、あいにく録音用のアンプが故障して音が歪んでしまい、酷い目に遭ったことを覚えている(それと同じことは、その6年後に普門館でカラヤンとベルリン・フィルの「第9」を収録した時にも起こった)。ただし彼は、それとは別にこの曲をビクターでスタジオ録音していた。そのレコードは、私も大切に保存している。
 その徳永二男が70代半ばになった今でも堂々とベートーヴェンのコンチェルトを弾いているのは嬉しい。独特の芯の強い音も以前と少しも変わらない。アンコールでのバッハの「第3パルティータ」の「ガヴォットとロンド」も同様。

 今日の指揮者、石崎真弥奈は、2017年のニーノ・ロータ国際指揮者コンクールでニーノ・ロータ賞を受賞(優勝)した女性だが、私は不勉強にして、聴いたのはこれが最初になる。
 コンチェルトではなかなか安定したサポートを聴かせてくれたように思ったが、一方ブラームスの、しかも濃い陰翳の不可欠な「第4交響曲」となると、オーケストラから表情の変化を引き出せるに至るのは、やはりこれから、といったところではないか。
 第1楽章第1主題での各音符の音の膨らませ方などには神経を行き届かせていたようだし、他の個所でのデュナーミクの対比などにもそれなりの設計が感じられたが、如何せん、演奏全体に単調な印象を免れない。選んだ作品が挑戦的に過ぎたかもしれない。

2021・2・20(土)大野和士指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  6時

 当初はマーラーの「第2交響曲《復活》」が、新国立劇場合唱団と中村恵理(S)および藤村実穂子(A)を迎えて演奏されるはずだったが、大合唱を伴う曲は感染対策上、演奏会場では具合が悪いということで、プログラムは大幅に変更された。

 だが新しいプログラムとして、同じマーラーの交響曲から、中村恵理のソロが参加する「第4交響曲」が取り上げられ、また藤村実穂子と新国立劇場合唱団が歌うブラームスの「アルト・ラプソディ」が選ばれたのは、最初予定されていた人々の顔が殆どすべて立てられた(?)というべきか。企画担当者の選曲センスは見事だ。ただし女声合唱だけは外されてしまったことにはなるが━━。

 冒頭には武満徹の「夢の時」(1981年作曲)が演奏されたが、その大編成の管弦楽による音色の、何と多彩で美しいこと。私がこれまで数多く聴いた武満作品の演奏の中でも、屈指の官能美だ。大野和士の最近の指揮の円熟味を示す快演である。

 「アルト・ラプソディ」での男声合唱は、P席に配置された24人。この合唱が参加する第3部のハーモニーはうっとりするほどの美しさだが、今日は合唱の音色がやや硬かったのと、しかもあの名歌手、藤村実穂子ほどの人が、譜面を時々見ながら歌う━━それも身体の前でなく横に置いて譜面を確認、しかも頁をめくるために横を向きながら歌う瞬間も━━などという、いつもの彼女からは信じられないような光景もあって、陶酔的な雰囲気に少しく不足した感があったのは惜しかった。
 それにしても、ブラームスのこのあたりの素晴らしい曲は、日本のオーケストラの演奏会で、もっと演奏されてもいいと思うのだが(「運命の歌」なども同様である)。

 マーラーの「4番」では、大野が弦16型編成の都響をきわめて柔らかい音で豊麗に鳴らし、この交響曲に備わる叙情美を最大限に引き出したことが印象に残る。細部の明晰さよりは壮麗に溶け合ったロマンティシズムをという狙いだったのだろう。第4楽章では中村恵理が愛らしくソロを歌ったが、先ほどの藤村実穂子と同様、今回は声楽との合わせリハーサルはどのくらいやったのかな、と思わせられるところが演奏に感じられたのは事実だ。
 今日のコンサートマスターは矢部達哉。

2021・2・20(土)「オルガンと朗読で聴く『幻想交響曲』」

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 企画の面白さに惹かれて聴きに行ってみた。同ホールアドバイザーの松居直美の企画による「言葉は音楽、音楽は言葉」シリーズの第3輯で、オルガンの演奏が大木麻里、打楽器を森山拓哉、脚本が島崇、演出が島崇と児玉絵梨奈、語りが山科圭太。
 こういう企画に今でも興味を惹かれるのは、昔、音楽番組のディレクターをやっていた所為かもしれない。

 冒頭に、「幻想交響曲」作曲に至るまでのベルリオーズの生涯のストーリー、ハリエット・スミスソンとの出会いなどについて、物語的朗読と解説調の中間のようなスタイルの、ゆっくりした口調のナレーションが30分。この構成は、いわゆる「頭(アタマ、番組冒頭を指す隠語)が重い」というやつで、あまり推奨できる手法ではない。以降は楽章の合間ごとに1~2分の語りが入ったはずである。

 それらはまあ別としても、肝心かなめの音楽には些か問題がある。たとえオルガン編曲であっても、今日のテーマに基づけば、標題音楽としての表現は演奏に堅持されなければならない。主人公の感情の起伏に応じ、テンポなどももっと変化しなくてはいけないし、また例えば第2楽章「舞踏会」でも、恋人の姿がワルツに乗って人々の集団の中から現れ、また集団の中へ消えて行くさまが上手く演奏されなければならない。━━どうも今日の演奏、少なくとも最初の二つの楽章においては、そういった標題性にほとんど注意が払われず、専ら譜面だけに頼って奏されていたような気がしてならなかったのである。

2021・2・18(木)東京二期会「タンホイザー」2日目

        東京文化会館大ホール  2時

 2日目になると、オーケストラも一層安定して来る。たとえば第2幕のエンディングの音の構築ひとつとっても、厳然として見事なものがあった。ただ、昨日は昨日で一種の緊張感というか、熱気のようなものもあったのだが、今日は全体に落ち着きすぎていたか? 

 しかしいずれにせよ、ワーグナー上演で、この読響が起用されたのは正解であった。編成は縮小されていたにせよ、オーケストラの均衡や響きの安定という点で、その演奏に誠実さが感じられる。
 どの楽団とは言いませんが、新国立劇場のピットに入るオーケストラも、せめていくらかでもこれに近い水準の演奏をしてくれれば、日本のオペラ上演の水準ももっと上がるだろうに、と思う。

 さて、ダブルキャストの今日の歌手陣は、芹澤佳通(タンホイザー)、竹多倫子(エリーザベト)、池田香織(ヴェーヌス)、清水勇磨(ヴォルフラム)、長谷川顯(領主ヘルマン)、高野二郎(ヴァルター)、近藤圭(ビーテロルフ)、高柳圭(ハインリヒ)、金子慧一(ラインマル)、牧野元美(牧童)他の顔ぶれ。

 配役が異なると、同じ演出でもステージの雰囲気がかなり違って来るというのは当然の成り行きである。今回もその例に漏れなかったが、しかしそれ以上に━━ヴェーヌス役の池田香織を除けば、昨日の組より今日の組は、歌唱も演技も何となく地味で、観客に訴えかけて来るものが少々希薄に感じられた印象は否めまい。
 つまり、オーケストラともども、昨日に比べ、やや「熱気の足りない」上演だったようにも感じられたのだ。お客さんの拍手も、それほど熱狂的ではなかったような気も━━。

 題名役の芹澤佳通は、歌い方があまりドイツオペラのヘルデン・テナー的ではないような気もするが、これは今後の精進を待つとしたい。だが、演技にはタンホイザーという人格の複雑さをもっと出すように工夫していただきたいものだ。そうでないと、単なる「声のいい人形」になってしまうだろう。昨日の片寄純也はその点、歌い方には八方破れのものもあるが、ステージ上の雰囲気においては、やはりベテランだったな、と思う。

 一方、エリーザベト役の竹多倫子は、登場歌たる「歌の殿堂」の冒頭でちょっとイタリアオペラ的な身振りを示し、ヒヤリとさせられたが、そのあとはあまり無意味に手を拡げたりしない姿勢に安定したので一安心。声の伸びもいいし、今後の活躍が期待できよう。第2幕で一同を制止する際の演技などは、まだこれからというところか。

 ヴェーヌス役の池田香織は、この演出の範囲ではまず異論のない出来と思われるが、いつもほどの闊達さが感じられず、ちょっと窮屈そうな演技になっていたようにも感じられた。だが、歌唱がしっかりしているので、やはり今日のステージでは最も安定していた人と言えよう。

 清水勇磨のヴォルフラムには、この役が重要なゆえに、些か異議を申し立てたい。この役にはそもそも、エリーザベトへの思慕を抱きながらそれを押し殺し、彼女を親友タンホイザーに譲るという高貴な諦念と苦悩とが織り込まれているはずなのだが━━昨日の大沼徹はそれを巧みに表現していた━━今日のヴォルフラムではその苦悩が全く描かれておらず、特に第2幕の最初の場面など、ただエリーザベトからフラれて怒っているだけの、がさつな男にしか見えなかったのである。これは解釈の全くの誤りである。
 第3幕でタンホイザーを詰問する場面でも、彼を見ずに客席の方(指揮者の方か?)を見ながら歌っていたのも、ワーグナーのオペラのスタイルに反するだろう。こういう脇役の動きが、ステージの緩みの大きな要因となるのだから。

 その他、ヴァルトブルクの騎士たちも、一癖ありそうなツワモノが揃っていた昨日に比べ、今日は何か、不思議におとなしかった。
 ただし脇役でも、牧童役の牧野元美は、出番は少ないけれども、いい演技を見せていた。ヴェーヌスベルクに登場する6人のダンサーたちと、その他一部の助演者たちも、見事にそれぞれの役割を果たしていた。

 なおラストシーン、昨日は音楽に気を取られていてあまりはっきり見なかったのだが、最後にタンホイザーが「救済される」シーンでケージの中を上がって行くと、上から身を逆さまにしたエリーザベトが下がって来るという、少々グロテスクで不気味な光景があった。その前に彼女が縊死している光景を背景に見せていたことと併せ、やはり今の欧州の演出家たちのやりそうなことではある。もっとも、ドイツあたりで行われている演出には、実際はもっと遥かにえげつなく、グロテスクなものが多くて、辟易させられるのだけれど。

2021・2・17(水)東京二期会「タンホイザー」初日

      東京文化会館大ホール  5時

 ワーグナーのオペラが無事に上演できたのは、コロナ禍の当節、そして世界のオペラ界の現状に照らしてみても、むしろ奇蹟に近いことかもしれない。

 今回の「タンホイザー」は、フランス国立ラン歌劇場のプロダクションで、演出はキース・ウォーナー、装置はボリス・クドルチカ。セバスティアン・ヴァイグレが読売日本交響楽団を指揮。
 声楽陣はダブルキャストで、今日の初日は片寄純也(タンホイザー)、田崎尚美(エリーザベト)、板波利加(ヴェーヌス)、大沼徹(ヴォルフラム)、狩野賢一(領主ヘルマン)、大川信之(ヴァルター)、友清崇(ビーテロルフ)、菅野敦(ハインリヒ)、河野鉄平(ラインマル)、吉田桃子(牧童)ほか。二期会合唱団。

 第1幕はバッカナールを含むヴェーヌスベルクの場面および牧童の場面を拡大した完全パリ版、第2幕はドレスデン版の「ヴァルターの歌」を復活させ、かつパリ版の幕切れを使用した折衷版。そして第3幕のエンディングもパリ版━━この全曲最後の個所を壮麗なパリ版にした演奏は、めったにナマでは聴けないので嬉しかった。
 また、第2幕大詰めの素晴らしい大アンサンブルでは、幾分かはカットがあったものの、重要な個所は生かされていたので、まあいいだろう(新国立劇場のカットの仕方は無茶苦茶で、断じて許せない)。

 キース・ウォーナーの演出は予想外にストレートだが、細部は綿密だ。
 歌合戦の場ではエリーザベトが客席の方を向いて座っているので、彼女がヴォルフラムのプラトニックな愛の解釈に退屈し、タンホイザーの情熱的な恋愛観に賛意を表するあたりの表情の変化も、判りやすく描かれる。

 第2幕の歌合戦の場にもヴェーヌスが登場し、ギャラリーから盛んにタンホイザーへ秋波を送っているのは少し説明過剰だが、タンホイザーの歌のあとにはオーケストラにヴェーヌスベルクの音楽の断片が閃くのだから、応用解釈としては正しいだろう。
 ただ、この場や、ヴェーヌスベルクに時たま現れる幼い少年は、ワーグナーもしくはタンホイザーのメタファー(隠喩)だということなのだが、あまり効果的とも思えない。この少年に、歌合戦のため入場して来る女性たちが賛美を表するというのだから、ここだけひねくってあるのは確かだろう。

 最終場でエリーザベトの棺に取り縋るのはタンホイザーでなくヴォルフラム━━という設定をはじめ、彼のエリーザベトに対する思慕の念は第2幕最初からかなり詳細に描かれ、ドラマに変化を添えている(この三角関係を極限にまで浮き彫りにしたのは、ドレスデンでのコンヴィチュニー演出だった)。それゆえ、第2幕最初のタンホイザーとエリーザベトの二重唱の間に挟まれるヴォルフラムの短い絶望のモノローグをカットせずに歌わせたのは当を得ているだろう(これをカットする指揮者や演出家が実に多いのだが、気が知れない)。

 歌手陣。片寄は馬力も充分ながら、特に第1幕での歌い方が荒っぽいのが気にかかる。第2幕以降は復調したようだが、いずれにせよ、かなりワイルドなタンホイザーと言えよう(ただ、こういうタンホイザー像を創る歌手は多い)。
 田崎尚美は第2幕で男声合唱の上に朗々と抜きん出るソロを聴かせ、また第3幕での「エリーザベトの祈り」で本領を発揮した。一方、ヴェーヌス役の板波利加も健闘したが、もう少し官能の女神という雰囲気が欲しかったところだ。
 そして大沼徹が、エリーザベトへの秘かな愛に苦悩する誠実なヴォルフラム像を、巧みに歌い演じた。歌手陣の中で、彼がカーテンコールで最も大きな拍手を浴びたのも当然と言えよう。 

 だが、今日のカーテンコールで最も大きな拍手を受けたのは、セバスティアン・ヴァイグレである。やや遅めのテンポで、落ち着いて安定した、叙情味に重点を置いた「タンホイザー」を描き出した。これまでいくつか聴いたウィーンやバイロイトでの彼の指揮からは想像もできなかったほどの出来栄えだ。
 これに応えた読響も流石の実力で、均衡豊かな密度の濃い音楽を奏で、第2幕前半での弦の響きのしなやかな柔らかさなどは傑出していた。今回は、昨暮からずっと協演を続け、互いに気心の知れた仲となったこの両者が組んだことが、音楽的にも成功を収めた要因であろう。そしてもちろんこれが、公演全体の成功に大きな寄与をもたらした一因となったのである。

2021・2・16(火)諏訪内晶子の「室内楽プロジェクト」第2日

       紀尾井ホール  7時

 諏訪内晶子が芸術監督を務める「国際音楽祭NIPPON2020」と題されたものの一環。本来なら昨年3月に演奏するはずだったプログラムの一部を、他の新しいプログラムと併せて組んだとのこと。
 コロナ禍による入国制限のため、予定されていた外国人演奏家は参加できず、「国際」とはいうものの邦人演奏家のみの出演ということにはなったが、集まった顔ぶれが名手ぞろいとあって、聴き手側としては充分に楽しめた。
 出演したのは、諏訪内晶子と米元響子(vn)、鈴木康浩(va)、辻本玲(vc)、阪田知樹(pf)というメンバーである。

 プログラムは、
 諏訪内のソロで、スティーヴ・ライヒの「ヴァイオリン・フェイズ」(1967年作)
 諏訪内と辻本と阪田の演奏で、川上統の新作、組曲「甲殻」から「ウミサソリ」「ミジンコ」「ガザミ」「オトヒメエビ」)2005~2019年)
 米元と辻本と阪田で、ダルバヴィの「ピアノ三重奏曲」(2008年)
 前記5人で、オーンスタインの「ピアノ五重奏曲」(1927年)。以上4作品。

 「ヴァイオリン・フェイズ」は、諏訪内が予め録音した演奏をステージ上の2つのスピーカーから再生、それに彼女が生演奏で協演するという仕組み。音のずれの面白さを出す曲で、そう珍しくはない手法の作品だが、スピーカーの音量がどう見ても大きすぎて腑に落ちず、結局同じ音型のみが延々10分も反復されるという単調な印象しか残らなかったのは残念。もう少しバランスと音色に配慮すれば、もっと多彩なポリフォニーが生まれたのではないか? 

 だが今日のプログラムの中で、いわゆる現代音楽っぽいのはこれのみであって、他はすこぶる耳当たりのいい作品ばかり。ただしどれもエネルギッシュで動きの激しい、ヴォルテージの高い作品ぞろい。演奏も熱っぽいことこの上ない。

 川上統の「甲殻」は、角張った響きのユーモアが面白い。プログラム冊子には、前記それぞれの動物のイラストが掲載されていた。
 一方ダルバヴィの三重奏曲は、2008年の作品でありながら、途中にびっくりするような綺麗な音の流れが飛び出して来るなど、変化に富んだ楽しさがある。ピアノと弦が音をずらせつつ鋭く応酬する開始部分を曲の後半で再現させるというのも、やはりヨーロッパの音楽家だな、と微苦笑させられる。

 そして、今日の曲目の中では一番作曲年代が古いオーンスタインの五重奏曲は、終楽章にちょっとオリエント的な節回しも取り入れた、猛烈な運動が延々と繰り返される作品。些か疲労させられるが、ライヒのそれと違い、ナマ音の良さで救われる。

 それにしても、諏訪内晶子のプログラミング、なかなか意欲的だ。

2021・2・13(土)尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

     フェスティバルホール  3時

 モーツァルトの「ピアノ協奏曲第24番ハ短調」とブルックナーの「交響曲第9番ニ短調」を組み合わせたプログラム。15日に予定されていた東京公演が流れたので、大阪での定期演奏会(2日目)を聴きに行く。

 「9番」は最近流行りの(?)コールス校訂版での演奏だが、補訂完成版の第4楽章のほうは、賢明にも省かれていた。そもそも、永遠なるものを感じさせるこの第3楽章のあとに、なにが必要だというのだろう。

 弦16型編成で轟くブルックナーのシンフォニーはさすがに壮大無類である。しかも尾高と大フィルが全力を挙げた演奏により、第1楽章の終結部や第2楽章のスケルツォの頂点、第3楽章の昂揚個所などでは、怒涛の如き魔性の世界が形づくられていた。物凄い曲だこれは、と感じさせるナマ演奏は決して多くはないが、今日はその数少ない幸せな60分だったと言って過言ではない。

 ホルンとワーグナーテューバも快調であった。たった1ヵ所、第1楽章コーダに入る少し前(509小節)のトランペットの音の大きさには少々納得の行かぬものを感じたが━━ついでにもうひとつ、第3楽章の終結近くのフルートにはオヤと思わされた所があるのだが、これは私の聴き違いかもしれない。

 この透徹した、恐怖の白夜ともいうべき雰囲気の、ブルックナーがどこか異次元の世界に踏み込んでしまった感さえある「9番」に先立ち、これも白々とした静謐な「ハ短調コンチェルト」を置いた選曲は秀逸であった。この曲での大阪フィルの弦(コンサートマスターは崔文洙)のしっとりした響きも見事だったが、当初予定のアンヌ・ケフェレックに替わり登場した北村朋幹のソロもまた美しい静謐さにあふれ、両者相まってモーツァルトの「叙情の凄味」を描き出した。
 そして何より、この2曲における対称的なもの、あるいは相似形的なものという特徴を巧みに関連づけ、プログラミングの妙を示した尾高の指揮を讃えたい。

2021・2・12(金)熊倉優指揮NHK交響楽団&イザベル・ファウスト

東京芸術劇場 コンサートホール  6時

 県立音楽堂での演奏が終了したあと、カーテンコールの途中(4時10分)で失礼し、首都高で池袋へ向かったものの、渋滞に次ぐ渋滞で、東京芸術劇場の駐車場に飛び込んだのは開演の僅か10分前という状態、肝を冷やした。

 N響はこの春までのシーズンにおける定期演奏会をすべて中止しているが、それに代わる特別演奏会をほぼ定期と同じ回数で開催しており、2月は尾高忠明・熊倉優・下野竜也が各1プログラムずつ指揮するという形になっている。
 今日の演奏会の指揮を受け持つ熊倉優は29歳、音楽監督パーヴォ・ヤルヴィのアシスタントを務めて、このところN響を指揮する機会も多いようだ。ただし私は、彼がこのような大きな演奏会を指揮するのを聴くのは初めてになる。

 プログラムはスメタナの「売られた花嫁」からの「3つの舞曲」で開始され(珍しい選曲だ)、イザベル・ファウストを迎えたシマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第1番」が続き、最後はドヴォルジャークの「第6交響曲」という興味深いもの。

 今日聴いた熊倉の指揮は、直截で、エネルギッシュで、体当たり的で、熱狂的だったが、若い指揮者としては、この勢いは好ましいだろう。「道化師の踊り」の最後でオーケストラをひときわ大きく高鳴らせたり、「6番」の終楽章では最後の頂点にかけて煽りに煽ったりと、若者が勢いに任せて暴れているような雰囲気もあって、いい意味で微苦笑させられる。

 N響もこの青年をすこぶる大切に育てているようで、カーテンコールでもコンサートマスターの篠崎史紀が一度ならず彼を指揮台に上がらせて拍手を享けさせる光景も見られ、これも微笑ましい。ただその一方、今日の演奏の成功は、ずば抜けて上手いN響ゆえのものという感もなくもないのだが━━それはこれから彼がいろいろなオーケストラを指揮する過程で解決される問題だろう。

 コンチェルトを弾いたイザベル・ファウストは、何よりこの時期に彼女が来日できていたということからまず感謝しなければなるまい。この人が弾くと、あらゆる曲が魅力あふれるものになる。変な言い方になるが、このくらい凛として透徹したシマノフスキ像をつくれる人は、そう多くはいないだろう。

2021・2・12(金)東京混声合唱団「合唱でオペラ」

    神奈川県立音楽堂  2時

 神奈川県立音楽堂が主催し、東混が出演する「音楽堂アフタヌーン・コンサート」の一環。
 今回は第1部にヴェルディのオペラ「ナブッコ」を、曲中の合唱曲にナレーションを加えてストーリーを描き出すといった試みで演奏(約45分)し、第2部では舘亜里沙の脚本・演出と首藤健太郎の作曲によるミニ・オペラ「県立音楽堂ミステリー~マエストロ失踪事件」(約65分)を上演した。指揮はキハラ良尚、ピアノは鈴木慎崇。

 オペラのストーリーを合唱曲とナレーションで繋ぐというテは、われわれラジオ放送屋が音楽番組で昔よくやったものだが、もともと作品中に合唱曲の多いこの「ナブッコ」の場合には、それはうまく行くだろう。ただしそれをナマのステージでやるというのは珍しい試みだが、今回は成功していた。
 東京混声合唱団がオペラを歌うのは、私は不勉強にしてこれまであまり聴いたことはなかったけれど、「行け我が想いよ、黄金の翼に乗って」の最後の最弱音などは定石通りに決めた好演だったと言っていいだろう。

 マスクをして歌う合唱団を舞台手前の客席から指揮していたキハラ良尚は、東京混声合唱団の常任指揮者でもあり、私も以前から注目していた人で、今日もいい指揮を聴かせてくれた。オペラ特有の劇的な起伏感が織り込まれていれば、さらに面白い演奏になったことと思う。

 第2部での新作オペラは、ストーリーとしては腑に落ちないものの、音楽堂での本番を前に行方不明になった指揮者を━━ちょうどよくか悪くか━━その場にいない音楽監督・山田和樹が背景のスクリーンへの映像出演で演じるという趣向や、「県立音楽堂の警備員」が「当館は何十年間無事故」を自慢する楽屋オチ、有名な「愛の賛歌」のメロディを借りたナンバー、音楽の力を賛美するミュージカル的なフィナーレなどが折り込まれていて、まあ肩の凝らないマチネーといったところだろう。ただし、台本・楽譜を見ながらの演技・歌唱は、オペラとしてはやはりサマにならない。

 終ったあと、「愛の賛歌」のメロディが妙に頭の中に残ってしまった。

2021・2・11(木)川瀬賢太郎指揮東京都交響楽団&金川真弓

     サントリーホール  2時

 ベートーヴェン・プロで、「ウェリントンの勝利(戦争交響曲)」、「ヴァイオリン協奏曲」、「交響曲第8番」という一風変わったプログラム。
 当初予定の指揮者とソリストはサッシャ・ゲッツェルとネマニャ・ラドロヴィチだったが、それぞれ川瀬賢太郎と金川真弓に替わった。コンサートマスターは四方恭子。

 「戦争交響曲」では、LA席とRA席の各後方に配置されたバンダがマーチとファンファーレを演奏し、同じくスピーカーからSEによる銃撃音が轟くという形を加えての演奏。LA側の英軍の方が砲の規模で勝り、両軍の勝ち負けもはっきりさせる、という趣向もちゃんと織り込んでいる。言っちゃ何だが、何しろ曲が曲だし、このくらいの細工をしていただかないと、とてもまともに聴いてはいられないシロモノだろう。
 それにしても、ゲッツェルのプログラムを引き継いだとはいえ、川瀬賢太郎はどういうわけかこの「戦争交響曲」に縁があるようで。

 ともあれ指揮者の本領は、当然ながら最後の「第8番」で発揮される。あるフレーズでホルンを強調させるなど、楽器のバランスにも趣向を凝らしてオーケストラ全体の音色を変化に富ませるあたり、随分細かく神経を行き届かせているな、と感心しながら演奏を聴いていた。ただ、都響の音が、何か濁っているのが気にかかる。

 「ヴァイオリン協奏曲」でのソリスト、金川真弓は、先日のヴァイグレ=読響とのブルッフのコンチェルトがあまりに壮麗だったので、今日のベートーヴェンも楽しみにしていた。
 実際の演奏は、小節やそのリズム感を明確に演奏して行くという所謂古典派音楽的なアプローチというよりもむしろ、リズムを揺らせたり、ずらせたりしながら、波打つように音楽を構築して行く演奏のように思えたが、それがベートーヴェンをロマン派的に描き出しているように感じられて、私には実に新鮮に聞こえた。そういう点では、第2楽章などは絶品であったろう。

 第1楽章のカデンツァには例のベートーヴェン自身によるティンパニ入りのピアノ版からの編曲版が使われていて、こういう音楽での自由な飛翔感も、彼女の個性に合っていたように思う。第2楽章最後にも短いカデンツァが挿入されていたが、これもなかなかいい。この個所でソロが即興したのちパッと第3楽章の主題に飛び込むテは、私は大いに気に入っている。以前にも、たとえばヒラリー・ハーンがここでおおわざを聴かせたことがあった。

2021・2・9(火)新国立劇場「フィガロの結婚」2日目

      新国立劇場オペラパレス  4時30分

 白い箱型の舞台で演じられる、アンドレアス・ホモキ演出、フランク・フィリップ・シュレスマン舞台美術によるおなじみのプロダクション。2003年10月にプレミエされて以来、2005年、2007年、2010年、2013年、2017年と上演されて来た。

 今回の指揮は沼尻竜典、キャストは以下の通り━━ヴィート・プリアンテ(アルマヴィーヴァ伯爵)、大隅智加子(伯爵夫人)、ダリオ・ソラーリ(フィガロ)、臼木あい(スザンナ)、脇園彩(ケルビーノ)、妻屋秀和(バルトロ)、竹本節子(マルチェリーナ)、青地英幸(バジリオ)、吉原圭子(バルバリーナ)、糸賀修平(ドン・クルツィオ)、大久保光哉(アントーニオ)。東京交響楽団と新国立劇場合唱団。演奏者は当初の予定から一部変更になっている。

 このプロダクション、プレミエの際に観た時は、本当に魅了されたものだ。私が観たのは10月12日のマチネーだったが、当時はまだこのブログを開設していなかった。その時の日記をここに引用すると━━

 ノヴォラツスキー芸術監督体制の第1弾、注目の公演は大成功。新国立劇場オリジナル制作プロダクションで、かつてこれほど指揮(ウルフ・シルマー)、歌手陣、演出(アンドレアス・ホモキ)、装置、照明、オーケストラ(東フィル)のバランスの整ったものはなかった。スザンナを歌った中島彰子、マルチェリーナの小山由美も外国勢に劣らずすばらしい。どこか外国の、たとえばザルツブルク祝祭小劇場で観ているような錯覚まで起こさせる上演である。それにしても、開場以来6年、この作品が取り上げられるのはこれが初めてというのは、いかにレパートリーが偏っていたかの証拠だろう。

 ━━雑な書き方ながら、とにかくあの時はそう感じたものだ。それ以降に観た日記はこのブログの2005年4月9日2010年10月13日2013年10月29日2017年4月20日の項にある。

 何か再演ごとにだんだん感銘が薄れて来ている様子が窺えるのは、必ずしも私の勝手な好みや主観によるものではないように思われる。演出に鮮度が感じられなくなってきたのは、それが旧いからでなく、再演を重ねるごとに、ドラマとしての演技が緩んで来たからではなかろうか? このホモキ演出のように、微細な演技が綿密に組み合わされた舞台は、再演演出家と出演者たちがよほど理解しあって稽古を重ねないと、その小さな破綻でさえ目立ってしまうだろう。
 今回は、残念ながら、それがいっそう気になった。

 そのほかにも例えばオーケストラの音が明晰さに不足する━━モーツァルトの小編成のオケなら、ピットはもっと欧米の歌劇場のように高くするべきだろう━━とか、ある歌手が「出」を間違えるとか、歌手たちの演技が何となくチグハグで演出のコンセプトに溶け込んでいないとか、いろいろあるけれども、それより何より、全体として、不思議に冷めた雰囲気が、舞台に、併せて演奏にも漂っていたのである。
 一所懸命やっていた人たちには申し訳ない言い方になるが、こんなに燃えない、白々とした感の「フィガロの結婚」に接したのは初めてだ。せめてオーケストラの演奏に活気があれば、まだよかったのだが━━。

 コロナ禍が私たちに強いたソーシャル・ディスタンスが生んだ人間関係のよそよそしさは、この作品のようなヒューマンなオペラの上演においては、普通以上に非情なほどに顕れて来るのかもしれない。

2021・2・4(木)沼尻竜典指揮読売日本交響楽団

    東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 「都民芸術フェスティバル」参加公演。今日は読響(コンサートマスター長原幸太)の出演で、このところ多忙を極める活躍を展開中の沼尻竜典が客演指揮。

 第1部にワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲と、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは小山実稚恵)、第2部にメンデルスゾーンの「イタリア交響曲」というプログラム。
 曲目表を見た時には、あまりピンと来ないプログラムのように感じられたのだが、実際に聴いてみると、なかなか好い。たとえばワーグナーとチャイコフスキーのアクの強い音楽のあとに、軽快に響き出したメンデルスゾーンの音楽の、何と爽やかなこと。

 実際、この「イタリア交響曲」の、特に第1楽章をこんなに気持よく聴いたことがこれまでにあったかどうか。
 だが今日の沼尻竜典と読響の演奏の面白さは、それだけにとどまらない。軽快闊達な曲想をつらぬいている強い推進性は、終楽章に至り、ますますその激しさを強める。

 以前、この曲をテンシュテットの指揮で聴いた時、終楽章の演奏の陰影の濃さに、なるほどこの楽章はタイトルのイ長調ではなく、イ短調で書かれていたのだ、ということを改めて強く認識させられたものだったが、今日の演奏もある意味でそれに似て、これはイタリアの陽気なサルタレロ(舞曲)どころか、何か巨大なエネルギーが荒れ狂っている世界なのだという印象を与えられた。メンデルスゾーン得意の「スケルツォ」が、最も激しいデモーニッシュな姿で立ち現れたのがこの楽章だと言えるのではないか。

 沼尻は全曲を見事なバランス感でまとめ、読響も沸き立つ演奏でそれに応じ、この「軽快な」交響曲を演奏会全体の頂点とすることに成功していた。

 チャイコフスキーの協奏曲を弾いた小山実稚恵は、まさに完璧な練達のピアニストという風格を漲らせた演奏を聴かせたが、それがいつもよりさらに気魄にあふれたものになっていたのには、少々驚いた。終楽章の頂点での追い込みなど、その音量といい、豪壮さといい、ホロヴィッツもかくやの物凄さだ。そしてステージを揺るがせて弾き終ると、途端にこれもいつも通り、はにかむような笑顔と挙止に戻る人なのであった。

2021・2・2(火)原田慶太楼指揮東京交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 「2021都民芸術フェスティバル参加公演 オーケストラ・シリーズ」の2日目。
 原田慶太楼と東京交響楽団が、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」、ベートーヴェンの「英雄交響曲」を演奏した。協奏曲でのソロは前橋汀子、コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 勢いよくステージに出て来た原田慶太楼は、指揮台に飛び上がった瞬間、答礼を省略して、拍手を背に、いきなり「ルスランとリュドミラ」の序曲を振り始める。彼は以前にもこのテで「詩人と農夫」を指揮し始めたことがあった。今回は曲が曲だけに、響きも演奏も粗削りだが、ティンパニの強打が音楽全体を煽っていることもあって、すこぶる痛快な印象を与える。若い指揮者ならではのステージで、微笑ましい。

 協奏曲では、前橋汀子が年齢を感じさせぬ力強いソロを聴かせた。彼女の演奏を聴くのは久しぶりだが、相変わらず元気なのはうれしい。思えば昔、まだ私がFM放送の現場にいた頃、彼女はすでに人気の美女奏者だった。私が収録放送したステージで、彼女がすらりとした身体を弓のように反らしつつフランクのソナタの第3楽章を情熱的に弾いていたあの迫力ある光景は、今も私の目に焼きついている。
 そして、今なおその演奏に強靭なパワーを持続させているというのは、本当に大したものと言わなければならぬ。今日聴いた彼女のソロは極めてごつごつしたスタイルで、すこぶるユニークな演奏ではあったが、原田もこの「日本のイダ・ヘンデル」ともいうべき、頑固そのものの演奏を押し通す大先輩を、ひたすら巧く盛り立てていたようである。

 後半の「英雄交響曲」では、原田慶太楼の個性が遺憾なく発揮された。特にティンパニの豪打を含めた、鋭いアクセントとスフォルツァンドを駆使した強烈なデュナーミクをこれほど躊躇なく構築する指揮者は、日本人の演奏家としては異色の存在であろう。だがベートーヴェンの「コン・ブリオ」の音楽は、こういうスタイルの演奏でこそ生きて来る。それに今日の演奏では、各声部が実に明晰に鳴っていて、ベートーヴェンの斬新なオーケストレーションの魅力を十全に感じさせてくれたのである。

 そのデュナーミクの強調も、第1楽章最後(671小節以降)や第2楽章のマジョーレの中(76小節)でのフォルティシモのように、スコアに忠実に行われていたのも印象的だった。
 もっとも、その一方、スケルツォの中での聴き手を飛び上がらせるようなティンパニの猛烈果敢なクレッシェンドとか、第1楽章最後の頂点で第1主題の旋律全部を(旧版のように)管で高らかに吹かせるとか、昔ジョージ・セルがやったように第2楽章と第3楽章をアタッカで演奏するとか、現代の若手指揮者としては珍しい手法をも使っているのは事実だが、しかし私は、それらをすべて大いに楽しませてもらったのである。

 とにかく、この指揮者は面白い。東京響はいい人を正指揮者にしたものだ。

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