2020-02

2020・2・28(金)METライブビューイング「ヴォツェック」

     東劇  6時30分

 新型コロナ・ウィルスの所為で、29日に聴きに行こうと思っていたアルミンク指揮群響のマーラーの「復活」も、1日の神奈川県立音楽堂の「シッラ」も中止。そのあとも、ワシントン・ナショナル響をはじめ、国内各オーケストラの演奏会が軒並み中止。その上、この春これだけはと期待していたびわ湖ホールの「神々の黄昏」も、東京・春・音楽祭のムーティ指揮の「マクベス」も・・・・。
 われわれも落胆の極みだが、何年もかけて懸命に準備して来たであろう主催者たちの苦衷は、察するに余りある。

 そんな中、東劇でのオペラのライブビューイングは予定通りやっているということなので、観に行く。
 これは今年1月11日のMET上演のライヴ映像で、ウィリアム・ケントリッジの演出、ヤニック・ネゼ=セガンの指揮による注目のプロダクションだ。歌手陣はペーター・マッテイ(ヴォツェック)、エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー(マリー)、クリストファー・ヴェントリス(鼓手長)、ゲルハルト・ジーゲル(大尉)、クリスチャン・ヴァン・ホーン(医者)他という顔ぶれ。

 このプロダクションに関しては、共同制作だったザルツブルク音楽祭での上演(☞2017年8月8日)の際に書いたので、委細は省略する。
 ここでの本当の主役はヴォツェックよりも、ドローイング・アニメの巨匠ケントリッジの━━それも「演出」というより舞台の景観なのではないか、と私には思われるのだが、「共同演出」としてLuc de Wit、舞台美術としてザビーネ・テウニッセンが名を連ねているので、どこまでが実際にケントリッジの手が及んだ部分なのかは判然としない。

 だがとにかく、このケントリッジの舞台は、どれが装置で、どれが映像なのか区別がつかぬほど混然としていて、それが刻々と変化するあたりのつくりの巧さは格別である。そしてこの混然たる舞台が、荒廃した世相や人物たちの精神を見事に象徴し、貧しい者たちを惨酷なまでに無造作に呑み込んで行く様子を描く。マリーの子供が異形の人形で描かれるところなど、あまりに無情過ぎるという感を抑えきれないが。

 ネゼ=セガンの指揮が素晴らしい。実のところ、彼がドイツの近代オペラを手がけてこれほどの演奏を聴かせてくれるとは予想していなかった。
 それは所謂表現主義的な鋭角的で激烈な音楽づくりではなく、むしろ叙情性を主としたものといっていいかもしれない。例えば、全体が刺激的な演奏ではないので、幕切れ近くヴォツェックが命を絶った後に現われるあの間奏曲が、「ニ短調という調性が突然現われて衝撃を与える」ほどでもなく聞こえる━━のである。このあたりが、もはや「調性」だの「無調」だのが議論された時代から遠く隔たった世代の指揮者の特徴なのかもしれない。

 歌手では、ペーター・マッテイが熱演だ。特に後半では、破滅に向かうヴォツェックに哀れを誘われてしまうほどの表現力を見せてくれる。
 上映時間は2時間弱。なお上映の最後に、「さまよえるオランダ人」で乳母マリーを歌う藤村実穂子が日本のファンに送るメッセージの映像が挿入されていた。

2020・2・23(日)チョン・ミョンフン指揮東京フィル「カルメン」

     Bunkamuraオーチャードホール  3時

 チョン・ミョンフンと東京フィルのオペラ演奏会形式上演の一環。
 マリーナ・コンパラート(カルメン)、キム・アルフレード(ドン・ホセ)、チェ・ビョンヒョク(エスカミーリョ)、アンドレア・キャロル(ミカエラ)、上江隼人(ダンカイロ)、清水徹太郎(レメンダード)、伊藤晴(フラスキータ)、山下牧子(メルセデス)、青山貴(モラレス)、伊藤貴之(スニガ)の出演。合唱が新国立劇場合唱団と杉並児童合唱団。

 主役4人が伊・韓で、わが日本人は脇役ばかりというのは少々不甲斐ないが、世界のオペラ界における実績という面からみれば、日本人歌手は韓国人歌手群に圧倒的に水をあけられているのは、残念ながら争えぬ事実である。但し今日の歌手陣は、脇役すべてに至るまで、全員が力強く、素晴らしい出来だった。
 欲を言えば、エスカミーリョ役の歌手にもう少し安定感が欲しいということだろうか。強く印象に残ったのは、ホセ役のキム・アルフレードの強靭な声と、ミカエラ役のアンドレア・キャロルの愛らしい表現力。

 チョン・ミョンフンの指揮は、例の如くスピーディで切れがよく、強い推進力にあふれたものだ。全曲を緩みなく引き締め、厳格なバランス感を生み出すところも、近年の彼のオペラにおける指揮に共通している。その意味では、極めて立派な演奏だったと言っていいだろう。
 ただその一方、第1幕から第4幕まで、すべて緊張度の高い演奏で固められているため、オペラ全体に「山場感」というのか、「クライマックス感」というのか、それが些かぼやけたような印象を与えたことは否めまい。

 また、全曲が強いエネルギー性を以って、一気呵成の速めのテンポで演奏されて行くので、音楽作品としては充実感を生んだかもしれないが、登場人物の感情の襞が充分に描かれなかったという恨みを残すだろう━━これは、以前に彼が東京フィルを指揮した「トリスタンとイゾルデ」(☞2013年11月23日の項)でも私が強く感じたことなのである。今回の主人公たちもまた、疾風のようにこの世を生き、走り抜けて行ったというわけか・・・・。

 東京フィルの演奏は、ピットでの演奏とは比較にならぬほど豊かな音だった。コンサートマスターは三浦章宏。

 蛇足だろうけれども、私にとっては大問題なので、最後に一言。
 今回の上演では「アルコア版」楽譜が使用されるという情報を受けていたので、依頼された東京フィルのWebの事前解説には、ギロー版とアルコア版との楽譜の違い、前者のレチタティーヴォと後者のセリフにおける人物像(特にドン・ホセ)の描き方の違いなどについて、その面白さと期待などを書いた。
 ところが実際は、セリフはほとんどカットされ、しかもあろうことかドン・ホセとエスカミーリョが決闘するシーンの音楽も、極度に短縮されたギロー版で演奏されてしまっていたのである。セリフをまともに入れれば長大なものになるので、大半はカットされるだろうとは思っていたが、まさかほとんどナンバーのみの連続の形になるとは。それにまた「折衷版」の演奏になるとは・・・・。
 東京フィルのWebの記事をお読みいただいた方には、とりあえず私からお詫び申し上げたい。

2020・2・22(土)全国共同制作オペラ「ラ・トラヴィアータ」

     東京芸術劇場コンサートホール  2時

 ヴェルディの「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」を白河文化交流館コミネス大ホール(2月9日)、金沢歌劇座(2月16日)、およびここ東京芸術劇場で上演するという企画。

 合唱団は地区それぞれで異なるが、オーケストラは金沢と白河がオーケストラ・アンサンブル金沢、東京が読売日本交響楽団━━という分担だった。指揮はヘンリク・シェーファー、演出と振付が矢内原美邦。
 歌手陣はエカテリーナ・バカノヴァ(ヴィオレッタ)、宮里直樹(アルフレード・ジェルモン)、三浦克次(ジョルジョ・ジェルモン)、三戸大久(ドゥフォール男爵)、古橋郷平(ガストーネ)、高橋洋介(ドゥビニー)、森山京子(アンニーナ)、醍醐園佳(フローラ)他。

 注目すべきは、矢内原美邦のきわめて個性的な、ユニークな試みの演出である。
 スマホとコスプレの時代の「トラヴィアータ」とでも言ったらいいか。連絡はスマホで取り合い、パーティでの関心事にはすべてスマホを向け━━2012年にミュンヘンでプレミエされたクリーゲンブルク演出の「神々の黄昏」でもこのテが使われていた━━、ヴィオレッタは処分財産リストをタブレットでジェルモンに見せるといった具合で、これにはニヤリとさせられる。

 衣装も極彩色でアクの強いものばかり。ダンスには多分主人公たちの心の動きを象徴するような性格が付されているのだろう。・・・・といったように、日本での「トラヴィアータ」の舞台としては、かなり思い切った大胆な試みを注入した舞台となっていた。

 群衆の騒々しいはしゃぎぶりや、しつこい疾走の反復(特に「プロヴァンスの海と陸」の場面━━これにはうんざりさせられた)など、いろいろ「うざい」ところはあったものの、とにかく「オペラ演出家」なら躊躇うであろう手法が大胆に臆面もなく(?)投入されていたことは、アウトジャンルの演出家を起用した意義は充分にあったと言えよう。
 「オリジナルを尊重する」とか、「手を加えず、あるがままに」などと、自己のアイディア不足をすり替えて尤もらしく理由づけて何にもしない演出家よりも、たとえ賛否両論起ころうとも独自のコンセプトを遠慮なく押し出して来る演出家の方がはるかに立派である。

 それに今回、第3幕をヴィオレッタの葬儀場面にし━━と解釈したが━━ジェルモン親子ら参列客とヴィオレッタとの幻想的対話として設定したことは、面白いアイディアであった。参列客たちが手に持っていたものは私の席からはよく判別できなかったが、スマホでもなく、十字架でもなく・・・・関係者に尋ねたら、「砂時計」だったそうな。ウィリー・デッカ―の演出の逆手を行った、ということか。
 最後にヴィオレッタが起き上がり、永遠の生を主張するのは、これはよく見られる手法だが。

 歌手陣の声は、ホールの特性のゆえもあって、(1人を除いて)猛烈によく響く。
 バカノヴァという人はロシア生まれで、非常に強靭な声を持ち、必ずしも洗練されているとは言えぬものの明快な歌唱で、意志の強いヴィオレッタを表現していた。三浦、宮里の父子コンビも強力な歌唱だ。
 合唱も含めてちょっと怒鳴り過ぎ、という印象もなくはなかったし、オーケストラもえらく怒号していたが、「ひ弱」で物静かな演奏よりはマシだろう。それにしてもこのシェーファーという人は、随分きっちりと振る人だ。

 字幕は、上段に英語、下段に日本語という方法。今回の日本語字幕は解りやすい。
 一言申し上げたいのは、プログラム冊子ですね。あの字のフォントの小ささと言ったらまァ、よほど目のいい人が作ったんでしょうな。無料配布では文句も言い難いけれど。

2020・2・20(木)アンネ=ゾフィー・ムター 協奏曲の夕べ

     サントリーホール  7時

 「サントリーホール スペシャルステージ2020 アンネ=ゾフィー・ムター~ベートーヴェン生誕250年記念~」と題された4回の演奏会、その初日。
 クリスティアン・マチェレル指揮の新日本フィルを「したがえた」ムターは、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」と「三重協奏曲」を弾き、その間にソロ・アンコールとしてバッハの「無伴奏パルティータ第2番」からの「サラバンド」を弾いた。

 濃厚艶麗なムター節が炸裂したニ長調の協奏曲は、満員の聴衆を文字通り熱狂させたが、演奏にはやや放縦なところもあり━━いや、それでは言い過ぎかもしれないから、自由な感興、とでも訂正しておこうか━━私は少々呆気にとられながら聴いていた次第だ。
 もっと言えば、彼女が指揮者の尻を叩くような演奏に聞こえてしまったのだが、これは私がこの指揮者のベートーヴェンに少々苛々していたから、そんな風に聞こえてしまったのかもしれない。

 何しろこの指揮者は━━多分今日だけのことだろうが━━オケの音量を抑え、内声部の木管の動きを抑制し、ヴァイオリン群などの高音域をくぐもった音にしてしまっていたので、冒頭の「コリオラン」序曲など、えらくひ弱なものに聞こえたのである。
 ニ長調協奏曲でも、管弦楽パートは力感のない、自己主張のない、単なる「伴奏」に堕したような響きになっていた。ただその代わり、ムターのヴァイオリンのソロを管弦楽パートの上に見事に浮き上がらせ、あの濃厚な音色を余すところなく発揮させる役目は果たしていただろうと思われる。

 しかし面白いことに、指揮者のこのオケの鳴らし方が実に効果的だったのが、「三重協奏曲ハ長調」だ。
 徹底的に高音域を抑制して中低音を分厚く響かせたサポートが、ヴァイオリン(ムター)、ピアノ(ランバート・オルキス)、チェロ(ダニエル・ミュラー=ショット)のソリを見事にクローズアップして、「オーケストラのオブリガート付きトリオ」とでもいう形をつくるのに成功していたのである。ナマ演奏で、これほどピアノがオケに消されずに響かせられた「三重協奏曲」の演奏も珍しいのではないか。

 その意味では、このマチェラルという人は、伴奏指揮者としては稀有な才能の持主であろうと思われる━━嫌味に聞こえたら御容赦ありたい。彼の指揮に慣れた新日本フィルも、「コリオラン」の時とは打って変わって、「三重協奏曲」では見事なほどの個性的な音色を響かせた。さすが上岡敏之に鍛えられたオーケストラのことだけはある。

 それにしても、この「三重協奏曲」での3人のソリストたちの演奏は圧巻だった。ミュラー=ショットの切り込むような闊達さ、オルキスの滋味豊かで温かい表情。そして何よりムターの存在感が圧倒的で、指揮者・オケも含めた全員をリードして音楽を展開して行くといった演奏だ。第1楽章の展開部の終りにかけ、みるみるテンポを速めて盛り上げて行くあたりの彼女のリーダーシップには、息を呑ませるほどの迫力が感じられたのである。
 今夜の白眉は、間違いなく、この「三重協奏曲」だった。

2020・2・21(金)METライブビューイング「アクナーテン」

     東劇  6時30分

 フィリップ・グラスのオペラ「アクナーテン」、昨年11月23日のMET上演ライヴ映像。
 作品自体は1983年のもので、1984年にシュトゥットガルト州立劇場で初演されていた。ただし今回のフェリム・マクダーモット演出によるプロダクションは、イングリッシュ・ナショナル・オペラとロサンゼルス・オペラのために制作されたもの (originally created by)と、METのSEASON BOOKには記載されている。

 題名の「アクナーテン」とは、紀元前14世紀の古代エジプト第18王朝のファラオであるアクナーテン(=太陽神アテンの魂 アメンホテップ4世の別名)を指す由。彼はそれまでの多神教を廃し、一神教を推進した王だとのこと(国内パンフレット掲載の前島秀国氏の解説に由る)。
 この上演では、そのアクナーテンをアンソニー・ロス・コスタンゾ(CT)、その妻ネフェルティティをジャナイ・ブリッジス(Ms)、太后ティイをディーセラ・ラルスドッティル(S)、アメンホテップ3世(亡霊)をザッカリー・ジェイムズ(Bs)他が歌い演じ、女性指揮者カレン・カメンセックが指揮した。
 この演奏の見事さ、歌手陣の素晴らしさは驚異的である。

 フィリップ・グラスの音楽には、私も一頃は猛烈に凝ったものだが、しかし最近は、その熱も少々冷めつつある、というのが正直なところだ。
 一方、舞台の方は目を奪う壮麗さで、トム・パイの美術&プロジェクション・デザインと、ケヴィン・ポラードの衣装デザインが凄い。ただし人物の演技は、演技というよりは象徴的な動作の連続で、すこぶる重厚な迫力を感じさせる。とはいうものの、それらとて正味2時間20分の長さを保たせるのは、そう簡単なことではない。

 しかし、例えば第3幕終結に近い「反乱の場」と「アクナーテンの没落の場」におけるように、次第に量感を増して行くミニマル・ミュージック特有の押しの強さや、ゆっくりだが不気味な迫力を示す人物の動きなどにより主人公の壮絶な悲劇が描かれるあたりはやはり物凄い。そういうところは、まさにフィリップ・グラスのオペラの本領と言えるだろう。

 なお、幕切れのエピローグの場面で、時代を現代の歴史博物館にスリップさせるという洒落た手法が採られているのが面白い。
 全編で繰り返されるジャグリングは、派手な見ものだが、これはまあ、ミニマル・ミュージックの音のイメージを視覚化したもの━━程度の意味しか、私には感じ取れなかった。
 終映は10時頃。

2020・2・19(水)東京二期会 ヴェルディ:「椿姫」

     東京文化会館大ホール  6時30分

 原田諒の演出、松井るみの装置による新制作。ジャコモ・サグリパンティGiacomo Sagripanti)指揮東京都交響楽団の演奏。
 ダブルキャストの今日は初日で、大村博美(ヴィオレッタ)、城宏憲(アルフレード・ジェルモン)、今井俊輔(ジョルジョ・ジェルモン)、加賀ひとみ(フローラ)、増田弥生(アンニーナ)他。

 今回の演出家は宝塚出身の由。私は「宝塚」はほとんど観たことがないので、この人の舞台については詳しくは知らない。とはいえ、社会派ミュージカルの演出も手がけて読売演劇大賞なども取っている人というから、この「椿姫」のドラマにも、既存のオペラ演出にはなかったような何か新しいアプローチを見せてくれるのかと期待していたのだが、残念ながら期待は裏切られた。

 舞台構図だけに重きを置いたような演出で、演劇的な手法が全く見られないのである。第2部(第2幕第2部以降)では天井に巨大な鏡が設定され、人物の動きを異なった角度から視させるという趣向も採られていたが、これも単なる視覚的効果以上の意味は感じられず、単なる添え物の域にとどまったようである。

 人物は基本的に佇立したままで、歌は概して客席を向いて歌い、感情や心理の交錯などがほとんど描かれていない。ヴィオレッタはアルフレードの父親が突然現れてもとりわけ衝撃を受ける様子はなく、ジェルモンも彼女が財産を手放すために作った書類を見ても特に驚く風もない。まるで、60年前の日本のオペラを見ているような気がした。
 ただ美しい視覚効果を持つ舞台に類型的な身振りばかりする人間たちがあふれるのでは、今日のオペラ演出に問われている様々な問題の解決には役立つまい。

 今回の演出家は「演出ノート」で、「華麗な音楽の中に描かれている人間の愛や情や罪や赦しなどすべてのものをストレートに伝えたい」とし、それゆえ目新しさを狙った奇を衒うものにするのでなく「クラシカルな正調の様式美の中で・・・・濃密な人間ドラマを展開させたい」(冊子より自由に引用)と述べているけれども、今作のような手法では、真の「人間ドラマ」が表現できるとはとても思えない。
 それに、揚げ足を取るつもりはないが、音楽にすべてが描かれているというのなら、単に演奏会形式で上演すれば済むことである。

 今日のオペラ演出家は、手垢に汚れた既存のスタイルを打破するために腐心し、だれもがあれこれ実験を重ね、努力しているだろう。そこへアウトジャンルから演出家を招くのは、既存のオペラ演出家にはないような、画期的な新風を期待するがゆえのことのはずだ。それがわざわざ時計の針を戻してしまうのでは、何にもならない。ドイツオペラではあれほど実験的なスタイルにアプローチしている東京二期会が、どのようなコンセプトを以って今作のような演出を選んだのか、訝らざるを得ないのである。

 歌の方だが、大半のソロ歌手たちの声が客席に延びて来ないのは、舞台構築の所為もあったのか? ヴィオレッタがジェルモンとの場面で下手側を向いて歌った時に、急に声が舞台裏に反響したような音になったところからすると、上手側と下手側に反響板となるセットが無かったのか。

 城宏憲は2年前の「ノルマ」のポリオーネなどで伸びのいい声を聴かせていたので、アルフレードにはぴったりかと思っていたのだが、なぜか前半では声があまり聞こえて来ない。第2幕第1場のシェーナで声が擦れたところをみると、今日は本調子ではなかったようだ。大村博美はいつものように柔らかい雰囲気で味を出していたが、ヴィオレッタの切羽詰まった状況を歌い上げるには少し温かすぎたかもしれない。

 主役3人の中では、やはり今井俊輔が声を朗々と響かせ、粗野で無神経な父親という性格を表していた。カーテンコールでの拍手が他の歌手に向けられたそれと比較して圧倒的に大きかったのは、やはりオペラはこのくらいの声が欲しいよ、という観客の本音の表れだったのではないか。
 指揮者は歌手たちの声量に対応したのか、概してオーケストラの音量を抑えてしまい、そのため今回の「椿姫」は、何とも「静かな椿姫」になった。

 字幕は、文章が些か不自然だった。誰が誰にどういうニュアンスを籠めて言っているのかがあまり正確に表現されていない文体である。字幕は演出の一要素だ。工夫を願いたい。

2020・2・15(土)細川俊夫:オペラ「松風」

     JMSアステールプラザ中ホール(能舞台) 2時

 細川俊夫の3番目のオペラ「松風」は、原作・観阿弥、改作・世阿弥、台本がハンナ・デュブゲンによるもので、2010年の作品である。2011年にモネ劇場で世界初演され、その7年後にやっと新国立劇場で日本初演(☞2018年2月18日)が行われている。

 それらはいずれもサシャ・ヴァルツが演出した抽象的で幻想的なダンスが中心の舞台だったが、今回は能舞台で演出されたことにより、作品が日本に「里帰り」したとも言えるだろう。
 演出は岩田達宗。松風を半田美和子、村雨を藤井美雪、旅の僧を初鹿野剛、須磨の浦人を山岸玲音が歌った。そして、川瀬賢太郎指揮の広島交響楽団が舞台の下手側に位置、寺沢希指揮のひろしまオペラルネッサンス合唱団が2階席に位置していた。

 松林を揺るがす風の音というのは、私も子供の時によく体験したものである。それは普通の風の時でも深みのある広大な感じを与えたが、いざ強風や嵐の時ともなれば、これはもう、恐怖感を呼び起こすくらいに物凄い音だった。

 その松の風が、そのまま女性の名前になった。となれば、そこに一種の超自然的なイメージが生まれて来るのも当然だろう。それはしかし、どろどろしたオカルト的なものではなく、どこかに「もののあはれ」を感じさせる美しさも含んでいるのだ。今回の能舞台による岩田達宗の演出は、そのあたりを実によく表していたような気がする。

 主役の姉妹、松風と村雨を歌い演じた半田美和子と藤井美雪の歌唱と演技は、「班女」の広島初演(☞2012年1月22日)の際にも驚嘆させられたものである。
 今回は演出の能のスタイルにこだわった所為か、あの時のような演劇的な凄味は感じられなかったが、松風が中納言・在原行平の狩衣を身に纏って錯乱に陥る場面では、能の「狂女物」としての様式に沿った「舞」の迫力は充分に味わえたように思う。
 特にその場面では、細川の音楽が極度に劇的に激しく盛り上がるため、聴き手はいっそう感覚を揺さぶられることになる。

 ラストシーンの「曙」で、夜が明けて旅の僧が我に返ると、塩屋も姉妹の姿も既に消え、ただ松を吹き抜ける風の音が残るのみであった━━という場面は、いかにも日本的な余韻を感じさせ、私は大好きだ(「隅田川」の幕切れにも「ただ茫々たる荒野が広がるだけだった」という設定がある)。
 ただし、そういう光景と状況は、このような能舞台だと、すべて観客の想像力に任せるしかなくなる。それだから良いのだ、という人もいるだろうし、そこがちょっと物足りない、という人もいるだろう。

 川瀬賢太郎の指揮と、広島響の演奏が、今回も見事だった。透明で、しかも鮮烈である。両者とも、細川俊夫の作品の演奏には慣れているし、この中劇場の能舞台での演奏にも要領を心得ているのだと思う。事実、楽屋で会ったマエストロ川瀬は、それを明言していた。
 客席で聴いていると、その響きはドライでリアルな感になり、幻想味は多少弱まるが、川瀬のオケの鳴らし方の巧さがそれをカバーしているだろう。

 なお、2階席に配置された合唱は、会場内にうまくエコーとなって響く時と、いかにも生々しく聞こえて夢幻的な味に不足する時とがある。が、これは聴く位置にもよるだろう。もうひとつ、スピーカーから流れる風の音、海の音などは、もう少し綺麗な響きにならないものか、という感も。

 オペラの上演そのものは、3時20分過ぎには終った。明日も公演があるので、今日は終演後の打ち上げなどは無い。アフタートークも4時には終わったので、楽屋に行っておめでとうを言い、少し雑談してから失礼する。
 5時6分広島駅始発の「のぞみ」で帰京。9時少し過ぎには自宅に着く。

2020・2・13(木)山田和樹指揮読響&ポゴレリッチ

   サントリーホール  7時

 首席客演指揮者の山田和樹が、グリーグの「二つの悲しき旋律」、シューマンの「ピアノ協奏曲イ短調」、ドヴォルジャークの「交響曲第7番」を指揮。シューマンの協奏曲では、あのイーヴォ・ポゴレリッチがゲスト・ソリストとして登場した。

 ポゴレリッチが弾くコンチェルトは、ナマではショパンの「2番」を、デュトワ指揮フィラデルフィア管とのショパンの「2番」(☞2010年4月28日)と、ゲオルギー・チチナゼ指揮シンフォニア・ヴァルソヴィア(☞2010年5月3日)、ラフマニノフの「2番」をカエターニ指揮読響(☞2016年12月13日)とのそれぞれ協演で聴いたことがある。
 いずれも「物凄い」演奏だったが━━今回のシューマンも、「ロマン派の詩人」などというこの作曲家のイメージを根こそぎ吹っ飛ばしたような解釈の演奏で、衝撃を受けたり、感嘆させられたり、甚だスリリングな体験をさせてもらった。

 何しろこれは、ふだん物静かな人(シューマン)が突然声を荒げて叫んだり怒号したり、凶暴で攻撃的な性格を見せるような演奏なのである。凄まじいアクセントとフォルティッシモが随所に爆発し、こちらはそのたびごとにぎょっとさせられる。しかもそれが凄愴で、孤高の悲愴感といったものを生み出しているところに、ポゴレリッチの独特の境地があるだろう。

 第1楽章の指定「アフェットゥオーゾ(優しく)」も、第2楽章の「グラツィオーゾ(優雅に)」も、ここでは無視され、前者はアジタート(激烈に)、後者はスケルツァンド(諧謔的に)とでもいった演奏になっているところも面白いというか、唖然とさせられるというか。
 同じ楽譜を使いながらもこれだけ異なった音楽になることがつくづく興味深く、スコアというものがいかに「あてにならぬ」ものであるかを痛感させられることになる。

 だが私はここで、かつてポゴレリッチの演奏について書いた言葉をもう一度繰り返したい━━この大胆不敵で、作曲者をも畏れぬ感性は、激しく攻撃されて然るべきだが、しかし、それと同じ数の称賛を受けても然るべきだと思う、と。
 ただ、もうひとつ穿った見方をするなら、ポゴレリッチはこの曲に、シューマンがその晩年に陥る精神的な危機を先取りした解釈を施したのではないか、とも言えるかもしれないのだ。

 そのポゴレリッチの音楽に、山田和樹が、実に巧く合わせる! テンポだけではなく、例えば第1楽章の第134小節以降の全合奏を、ほとんど怒号同然の攻撃的な最強奏(スコア指定はフォルテ1つのみ)にして、ポゴレリッチのソロに呼応する。
 それでいて、カエターニやチチナゼのようにポゴレリッチに「かしづく」のではなく、デュトワのように皮肉めいた闘いを仕掛けるのでもなく、随所に山田の持味たる微細なニュアンスを散りばめる指揮を聴かせる、という巧妙さなのだ。これに応えた読響(コンサートマスターは長原幸太)も見事だったというほかはない。

 冒頭のグリーグの小品でも、山田和樹のエスプレッシーヴォの精妙さは群を抜いていた。明確なアクセントで入りながら、次の瞬間にはふっと力を抜いて最弱音にするというニュアンスの豊かさ。読響の弦もそのあたりが実に巧い。アンコールで演奏したアザラシヴィリの「無言歌」なる弦楽合奏の小品でも、その特徴が表れていた。

 そしてなお、ドヴォルジャークの「第7交響曲」でのアクセントの強靭さとメリハリの豊かさは、彼が海外で良いオケを指揮していることを思わせる。第3楽章では、それらの良さすべてが集約されていたように感じられたのだった。

2020・2・9(日)トレヴァー・ピノック指揮紀尾井ホール室内管弦楽団

       紀尾井ホール  2時

 西にいずみホールの「いずみシンフォニエッタ大阪」あれば、東に紀尾井ホールの「紀尾井シンフォニエッタ東京」━━いや現在の名称は「紀尾井ホール室内管弦楽団」あり。

 その「紀尾井ホール開館25周年記念演奏会」に、トレヴァー・ピノックが客演指揮者として登場し、モーツァルトの「交響曲第40番」「アヴェ・ヴェルム・コルプス」「レクイエム」(ジュスマイヤー補筆版)という魅力的なプログラムを演奏した。
 コンサートマスターは玉井菜採。

 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を第2部で、「レクイエム」へ続ける形で演奏するのかな、と思っていたら、案に相違して、それを休憩前に、「40番」のあとに演奏する、ということがプログラム冊子に掲載されていた。
 事実、最初にオーケストラと一緒に合唱団(特別編成の紀尾井ホール合唱団)も入って来て、奥にずらりと並んだので、そうするとこの声楽曲を「40番」のあとにアタッカで演奏する気なのか、それもいいな、とおそらく聴衆の誰もが思いこんでいたのではなかろうか。

 「40番」が終っても、しばらく拍手は起こらなかった。ところが、何となく様子が違う、という雰囲気が出て来て、誰かが拍手を始め、次いでみんなが拍手を始める。するとピノックは振り向いてにこやかに答礼し、おもむろに袖へ引っ込んでしまったのである。これでは何にもならない。
 あとで小耳に挟んだところによると、「40番」が終れば必ずみんな拍手をしてしまうだろうから、ここで一度引っ込み、それから改めて「アヴェ・ヴェルム・・・・」を演奏する、と最初からピノックが決めていたのだとか。そりゃあしかし、お客をナメルモンジャアリマセンヨ(?)。

 そんなことがあったものの、しかし演奏自体は素晴らしかった。
 まず最初の「交響曲第40番ト短調」。冒頭から演奏に緊迫感が漲り、聴き慣れた主題が突き詰めたような美しさで始まったのである。聴いた席がステージに近い8列目だったため、弦が非常に近く、木管が彼方に引っ込んで聞こえるというバランスだったので、内声部の絡みがあまりよく味わえなかったのだけが残念だったが、この曲の良さに改めて浸れたのは幸いであった。

 2つの祈りの曲でも、彼の指揮は鮮やかだ。特に「レクイエム」の「Dies irae」(怒りの日)での切込みの凄まじさなどはまさにピノックならではのもので、モーツァルトが死の直前に書いたこの作品のデモーニッシュな側面を、余すところなく浮き彫りにしてくれる。オーケストラが、巧い。
 声楽ソリスト(望月万里亜、青木洋也、中嶋克彦、山本悠尋)は合唱団の中に分散して位置し、合唱の中のソリストともいうべき形で歌っていたが、祈りとしてのこの曲の性格を重視するなら、これは実に適正な方法だろうと思う。

 終演は4時過ぎ。ホールの正面口を出ると、ホテルニューオータニの西側高台の端に並ぶ高い木立から差し込む木漏れ日が、この上なく美しい。「ト短調交響曲」の第1楽章にぴったりの寂しい光景である。残雪でもあれば、なおさら美しかったろう。

2020・2・8(土)飯森範親指揮いずみシンフォニエッタ大阪

       いずみホール  4時

 大阪のいずみホールの専属オーケストラ「いずみシンフォニエッタ大阪」(2000年創設、音楽監督・西村朗、常任指揮者・飯森範親)の第43回定期演奏会を日帰りで聴きに行く。

 今日のプログラムは、中村滋延の「善と悪の果てしなき闘い 第一章」の世界初演と、川島素晴編曲になるマーラーの交響曲「大地の歌」。後者での声楽ソロは望月哲也(テノール)と大西宇宙(バリトン)。
 コンサートマスターは、前者が小栗まち絵、後者が高木和弘。

 1曲目は物々しいタイトルだが、その題名を目にしただけで、大体どういう形式の作品か、すぐ想像はつくだろう。
 ところが作曲者はプレトークで、「善」と「悪」とは絶対的なものではなく、ある時は善が悪になり、他の時には悪が善になる━━まるで現代の世界におけるように━━のであって、しかもその闘いはどちらが勝つというものではない、と説明していた。

 そうなると、二つの主題が対立するがごとき単純な形式ではなく、もっと聴き手を惑わせる複雑な音楽と化す、ということになるだろう。なるほどそう言えば━━と感心して聴いていたわけだが、しかし現代音楽作品の初演をただ1回聴いただけであれこれ判断するのは早計なこと。出来得ればもう一度聴いてみたいものである。

 川島素晴が管弦楽のパートを小編成のオーケストラ版に編曲した「大地の歌」は、これはもう、絶賛に値するだろう。シェーンベルク編曲版よりよほどいいじゃないか、と終演後にはその話で盛り上がったほどである。
 つまり、濃厚で押しつけがましいような響きではなく、透明さを持った叙情的な音色が主流を占めており、したがって作品の性格も酒に溺れる頽廃的で厭世的な世界に偏るのではなく、より澄んだ詠嘆的な美の世界に近づいたもののように感じられたのだった━━日本的な「美」の「大地の歌」というか。もちろんこれは私の主観によるものだが。

 響きから言えば、テノールのソロがよく聞こえるようにオーケストラ・パートがつくられていたし、「テノール殺し」の悪名からこの曲を解放していたと言って間違いない。
 飯森範親の音の響かせ方も見事だったこと、そして「いずみシンフォニエッタ大阪」がまた実に上手く、いい音を出してくれたことが、この演奏を成功に導いたのも事実であったろう。

 望月哲也が一頃の不調を脱して伸びのいい歌唱を聴かせてくれたのは嬉しかった。大西宇宙の朗々たる声の歌唱も良かったが、それがゆえに、第6楽章など、多少健康的なニュアンスになったかな、という印象も否めまい。

 今日は字幕がついた。ただしこの字幕、字が小さいので、客席の最後列からは些か判読しかねることが多い。第5楽章は大阪弁で訳されていたのが話題になったが、まあそうかな、という感。
 全体にかなり砕けた訳文で、第1楽章の「生は暗く、死も暗い」も、今日は確か「人生は真っ暗、死んだところで・・・・」とか、なんかそんな訳文だったのではないかしら。こういうのは、関西のノリというのかな。

2020・2・7(金)マティアス・バーメルト指揮札幌交響楽団

     サントリーホール  7時

 札幌交響楽団の定例の東京演奏会。昨年(☞2019年1月30日)と同様、2018年から首席指揮者のポストに在るマティアス・バーメルトが振った。
 今年のプログラムは、シューベルト~ウェーベルン編の「ドイツ舞曲D820」、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」(バリトン・ソロはディートリヒ・ヘンシェル)、ベートーヴェンの「交響曲第7番」。アンコールはモーツァルトの「カッサシオンK63」の「アンダンテ」。
 コンサートマスターは田島高宏。

 最初のシューベルトでの、弦楽器群の柔らかい、温かい響きが、形容しがたい安堵感を呼び起こす。アンコールのモーツァルトの曲でも同様だ。一種レトロな━━という表現は誤解を呼ぶかもしれないが、今日ではこういう色合いの演奏はむしろ希少で、貴重な個性と言えるだろう。

 言葉のついでに、「第7交響曲」も、敢えて「懐メロ的なベートーヴェン」と称させていただこうか。
 これは、悪い意味で言っているのではない。現代の刺激的な、何か新解釈をやるのかと構えながら聴く「7番」でなく、昔この曲を聴いていた頃の懐かしい思い出が蘇って来るような演奏の「7番」だったのである。

 昔好きだった詩を読み返した時に感じるような・・・・何か上手い表現が見つからないのだが、要するにこういう、昔よく聴いたような、心温まる懐かしさが湧き出て来るような「7番」も、それなりに安心して聴けるし、愉しかった、と言いたいのである。こういう個性を今の時代に頑固に押し通すバーメルトもそれなりに立派だし、それを真摯に表現する札響の姿勢も興味深い。

 マーラーを歌ったヘンシェルは、期待していたのだが、今日は調子が悪かったのか? 昨夜東京でリサイタルをやったばかりだったから、疲れでも残っていたのだろうか。「亡き子をしのぶ歌」の第1曲など、彼らしくもない不安定さがあって、どうしたのかと心配してしまったほどだ。

2020・2・2(日)フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮東京都交響楽団

     サントリーホール  2時

 ロトの都響客演は2016年(→4月7日4月12日)に次いでこれが2度目。
 その前2015年(☞6月24日7月1日)にhは読響へも客演していた.。

 それらでの演奏はいずれも、彼自身のオケである「レ・シエクル」との帯同来日(☞2018年6月12日)での演奏に比べると、衝撃を与えるような出来とは言えないものだったが、客演指揮だからそれは致し方ない。
 しかし、今回の演奏では、都響も彼の指揮に馴れて来たのか、目覚ましいほどブリリアントな音色で応えるようになった。

 前半にラモーの「優雅なインドの国々」からの組曲と、ルベル(1666~1747)のバレエ音楽「四大元素」が演奏された。
 テナードラムやタンブランなど打楽器を活躍させ、愉快なリズムを強調する。前者があの「未開人の踊り」で終結したあとの拍手は大きく長く、ロトは2回もステージに呼び戻された。また後者の、18世紀前半に書かれた作品とは信じられぬような現代的な不協和音があふれた音楽にも、客席は湧いた。

 バロック・オペラの好きな人もたくさん聴きに来ていたのだろう。これまでそれに馴染みのなかったお客さんにも、その面白さを知ってもらえたなら、小さな劇場で偶にしか取り上げられないほど低調なわが国のバロック・オペラ上演状況にも、好ましい刺激を与えるかもしれない。

 後半はラヴェルの「ダフニスとクロエ」。実は、第2組曲だけだ、という某情報を鵜呑みにしていたので、開演前のホールに入った時に、大きく空けられた正面のP席を見て、おや今日はコーラス入りの全曲版だったか、と初めて気がつくほどのボケぶりだったのである。しかし、久しぶりで全曲版をナマで聴けたのは嬉しかった━━冒頭、ほとんど聞こえないような弱音からクレッシェンドし、合唱が加わって煌めくような最強音に爆発した瞬間、都響がこんなに輝かしい音を出したのを初めて聴いた、と思った。

 ロトという人、濃厚な表情の音楽をつくる指揮者で、レパートリーにも向き不向きがあると思うが、やはりもっと来日客演して、フランス音楽の粋を聴かせて欲しいと願う。
 終演後の楽員たちが引き揚げた後のソロ・カーテンコールも熱狂的で、この時にもロトは2度もステージに呼び戻されたほどだった。
 合唱は栗友会合唱団。コンサートマスターは矢部達哉。

2020・2・1(土)藤原歌劇団公演 ヴェルディ:「リゴレット」

     東京文化会館大ホール  2時

 日本オペラ振興会の制作・主催による藤原歌劇団の公演「リゴレット」。
 柴田真郁が日本フィルハーモニー交響楽団を指揮し、松本重孝が演出。

 ダブルキャストの初日たる今日は、須藤慎吾(リゴレット)、佐藤美枝子(ジルダ)、笛田博昭(マントヴァ公爵)、伊藤貴之(スパラフチーレ)、鳥木弥生(マッダレーナ)、泉良平(モンテローネ伯爵)、河野めぐみ(ジョヴァンナ)、月野進(マルッロ)他の出演。

 松本重孝の演出はこの人らしく穏健なもので、特に新しい発見を提供するというタイプのものでない。
 感心させられたのは、柴田真郁の指揮。引き締まっていて、オーケストラを切れ味よく鳴らして緊迫度を高め、ドラマを音楽的に巧く「持って行く」術にも長じている。彼の指揮をこれからもっといろいろ聴いてみたいという気になる。

 日本フィルも先年の「カルメン」以来のピット入りだが、ふだんオペラをあまり手掛けていないだけに、逆に熱意に燃えているのか、思いがけぬ好演を繰り広げてくれたのも喜ばしい。
 ステージではちゃんとした演奏をしてもピットに入ると途端に演奏が貧弱になるというオーケストラもあるだけに━━どこのどれとは申しませんが━━たまにはこういう熱意のあるオーケストラを起用してみるのも、オペラ上演の活性化に役立つように思われる。

 歌手陣の中では、題名役を歌い演じた須藤慎吾の充実がひときわ抜きんでていた。彼の歌はこれまでにもオペラでいくつか聴いていたが、今度ほどスケール感が豊かで、安定して力強い凄味を表出した歌唱は、私としては初めて聴いた気がする。特に「悪魔め、鬼め」における悲劇の道化としての凄味と迫力、そしてそれ以降の終幕にかけての緊迫度の高い歌唱は、見事な存在感であった。

 一方、マントヴァ公爵役の笛田博昭にも期待をかけていたのだが、調子があまりよくなかったか、それともこの役に合わないのか━━多分後者ではないかと思うのだが━━歌い方が恐ろしく乱暴で強引なのが、何とも気になった。こんな歌い方ではいけない。
 そういえば昔、ドラマティックな歌い方では史上屈指の存在でありながら、叙情的な弱音はおよそ苦手だった伝説的大歌手マリオ・デル・モナコは、このマントヴァ公爵役にはほとんど手を出さなかったという話をふと思い出したが・・・・。

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