2019-12

2019・12・11(水)秋元松代作 長塚圭史演出 「常陸坊海尊」

      KAAT神奈川芸術劇場 ホール  2時

  常陸坊海尊は、源義経の奥州での最後の戦いの前に「帰らずして失せにけり」となったということでさまざまに批判されてきた人物だが、その後何世紀にもわたっていろいろな場所に姿を現すという不思議な伝説の持主でもある由。

 この新作演劇では、その海尊が全ての迷える者たちの罪障を一身に引き受け、精神的な慰めを与える存在として結論づけられているらしい。
 らしい、と書いたのは、3時間以上(10分の休憩2回を含み、終演は5時を過ぎた)経ってからその結論が唐突に出るので、なるほどそうかと思うには多少考えを整理しなければならないからだ。

 とはいえ、それまでの物語には、「本州さいはての地」を舞台に、あふれる東北弁(みんな上手い!)の響きの裡に、イタコの魔力、太平洋戦争中の学童疎開、十数年後の学友の再会など、涙を催させる感動的な場面がいくつもある。
 時代を隔てた3つの幕が、いずれも「海尊さま!」という叫びをキーワードとしているところに、いつの世にも救済を渇望する人々の姿が象徴されているというわけであろう。

 主演は白石加代子(イタコのお婆)、中村ゆり(巫女)、平埜生成(啓太)他。
 白石加代子という人は、あの物々しい喋り方が私には昔から苦手だった。だが、いざ芝居となるとまさに圧倒的な存在感を示すのは、流石というほかはない。今回は魅了された。

2019・12・9(月)ベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラ

      東京文化会館小ホール  7時

 ヴァイオリンの日下紗矢子がリーダーを務めるベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラ。メンバーはもちろんあのベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(旧東独ベルリン響)に所属する人たちが中心だ。
 今年が結成10周年にあたるが、これが早くも4度目の日本公演になる由。弦12人にチェンバロを加えた計13人編成による来日である。

 この団体の演奏を聴いていると、その音色には、彼らの母体たるオーケストラが、その本拠としている壮麗なベルリンのコンツェルトハウス(昔のシャウシュピールハウス)で響かせる特徴がそのまま映し込まれているような気がする。飾り気のない、剛直で、重厚さを備えた響きだ。イタリア・バロックを演奏する時でさえ、それは変わらない。
 月並みな表現になるけれども、所謂良き時代のドイツのローカル色を未だに残している貴重な個性といっていいかもしれない。こういう独自の個性を持ち、それを守り抜いているオーケストラは、当節では貴重である。

 前半にはコレッリ~ジェミニアーニの「ラ・フォリア」、ヴィヴァルディの「ムガール大帝」、コレッリの「クリスマス協奏曲」といった合奏協奏曲やヴァイオリン協奏曲が演奏され、日下紗矢子が全てのソロを鮮やかに、烈しい気魄を迸らせて弾いた。
 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の第1コンサートマスターとして長年活躍している彼女の実力が、今回も日本のファンにはっきりと示されたであろう。

 後半には弦楽合奏の形で、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」とグリーグの「弦楽四重奏曲ト短調」(日下紗矢子編)、アンコールとしてレスピーギの「《リュートのための古風な舞曲とアリア》第3組曲」からの「イタリアーナ」と、グリーグの「ホルベアの時代から」の「リゴードン」が、これまたいずれも極度に強靭な力感と鋭角的なニュアンスを以って演奏された。

 エネルギーには富んではいる。が、その硬質な響きが、しばしば過剰に攻撃的な色合いを帯びてしまうのは、必ずしもホールのアコースティックの所為だけとも思えないのだが━━。

2019・12・7(土)ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管と藤田真央

      東京文化会館大ホール   6時

 生誕180年を来年に控えての、ゲルギエフの「チャイコフスキー・フェスティヴァル」その最終公演は、「ピアノ協奏曲第2番」と「交響曲第5番」。

 協奏曲は、当初の予定ではセルゲイ・ババヤンがソロを弾くことになっていたが、如何なる事情か「本人の都合により」キャンセル、替わって藤田真央が登場した。
 まあ、ババヤンには悪いが、これはかえって歓迎すべき人選だった。今年のチャイコフスキー国際コンクールで第2位となり、人気の沸騰している藤田真央が━━しかも「1番」でなく「2番」を聴かせてくれるとなれば、これ以上のことはない。

 彼については以前からゲルギエフが絶賛していたので、まるで今回のフェスティヴァルに出演予定の無かった彼をゲルギエフが突然起用するべく秘かに手を回したのではないかとさえ思えたほどだが━━まあ、そんな憶測はともかく、この藤田真央の演奏は予想以上に素晴らしく、煽り立てるゲルギエフとマリインスキー響相手に一歩も退かず、鮮やかで瑞々しいソロを聴かせてくれた。スケール感という点では未だしのところもあるが、準備期間も短かったはずなのに、よくぞあそこまで仕上げたものだと、ただもう感嘆するのみである。

 彼がソロ・アンコールで弾いたグリーグの「愛の歌」も美しかった。このアンコールの間、ステージ下手側の袖近くにゲルギエフが立ったまま聴いていたのは、若手をソリストに起用した時のゲルギエフのいつもの癖である。

 休憩後は「第5交響曲」。弦とクラリネットが暗い音色で主題を演奏し始める冒頭個所を聴くと、ああロシアのオーケストラ!という懐かしさが湧いて来る。
 ただ、そのあとは最近のゲルギエフとマリインスキーの傾向で、あまりロシアの土俗的な香りのしない演奏になってしまっていた。音色に陰翳が希薄で、響きが異様に鋭いのも気にかかる。昔のゲルギエフとマリインスキーの音は、こうではなかった・・・・。

 先日の「悲愴」でもそうだったが、譜面台を置かずに暗譜で指揮をする時のゲルギエフは、音楽のつくりがいっそう自由で、テンポや強弱の変化が大きくなる。
 それ自体は悪くないのだが、今日は、なぜこんな個所でいきなりテンポを落したり音を弱めたりするのかなと訝られるような━━敢えて言えば作為的にさえ感じられるところがいくつかあったのだ。昔のゲルギエフには、こんなことはなかった。変幻自在といえども、もっと自然に流れていた・・・・。

 とはいえ、ここぞという個所での盛り上げが強烈なところは、いつものゲルギエフである━━「第5交響曲」の第4楽章終結部は、その一例だ。
 アンコールは「くるみ割り人形」の「パ・ド・ドゥ」。この曲の演奏にも、これらのことが全て当てはまる。

2019・12・5(木)ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管「悲愴」他

      サントリーホール  7時

 ゲルギエフの「チャイコフスキー・フェスティヴァル」が「交響曲・協奏曲篇」(3日間・計4公演)に入った。
 今日はその初日で、「交響曲第1番《冬の日の幻想》」、「ロココの主題による変奏曲」(チェロのソロはアレクサンドル・ブズロフ)、「交響曲第6番《悲愴》」。

 ただでさえ長いプログラムの上に、ブズロフがソロ・アンコール(バッハの「無伴奏チェロ組曲第3番」からの「サラバンド」)まで弾くものだから、休憩後の「悲愴」に入ったのが何と8時50分。その演奏終了は9時37分頃になった。
 もっとも、そのブズロフ(モスクワ生れの36歳)のチェロの音色は極めて美しく、しかも芯のしっかりした表情を備えていて、「ロココの・・・・」を品のいい、形式感の明快な作品として再現してくれたのは確かである。

 交響曲の方は━━「冬の日の幻想」の演奏には、何かひとつ底の浅さと、力感に頼りすぎたような表現が感じられ、もどかしい思いにさせられたのが正直なところだ。
 だが、「悲愴交響曲」におけるゲルギエフの演奏構築には、いつもながら、実に綿密な設計が聴かれる。

 中間2楽章は極めて速いテンポに設定される。第2楽章は、一般にはしばしばアンダンテかアレグレットのテンポで演奏されることが多いのだが、ゲルギエフは作曲者の指定通り、アレグロのテンポで演奏していた。いっぽう、第3楽章でのスコアの指定はアレグロ・モルト・ヴィヴァーチェだが、今日のゲルギエフのテンポは、ほとんどプレストというイメージのものだった・・・・。

 今日の演奏で真に感動的だったのは、やはり両端楽章である。第1楽章では再現部に怒涛の如き頂点が置かれ、疲れと諦めのようなコーダへ沈静して行く。その流れがすこぶる見事だった。

 そしてこの曲の原標題「パテティーク」の本来の意味である「感情豊かに」が、最もリアルに表現されたのはやはり第4楽章においてであろう。特に楽章後半、荒れ狂った悲痛な激情がタムタムの一撃により堰き止められ━━ゲルギエフは、この一撃の余韻を、スコア指定よりも長く引き延ばしたが、その長い余韻は、タムタムを本当に運命の暗い一撃のように感じさせたのである。

 それゆえ、そのあとの「poco rallentando」から「quasi Adagio」に至る経過句は、衝撃に打ちのめされたように、間を置いてからゆっくり入って来る。
 そしてそれが消えると、ゲルギエフは、最後のアンダンテの前に、もう一度長い休止を置く。その沈黙は実に感動的な効果を生み、続くアンダンテ━━事実上のアダージョだが━━の個所を、どうしようもないほどの諦めと絶望感に満ちたものにしてしまう。止めどなく沈み込んで行くその音楽は、聴き手を救いようのない深淵に引きずり込んで行くのである。

 こうして闘いは終った・・・・。チャイコフスキーが「この曲にはプログラムがあるが、それはあくまで謎だ」と書き残していた「標題性」が意味するところはまさにそこにあったのだ━━と聴き手に確信させるゲルギエフの指揮であった。

2019・12・4(水)ミカラ・ペトリ リコーダー・リサイタル

      サントリーホール ブルーローズ(小ホール) 7時

 懐かしい。私が放送現場にいて、演奏会を録音した時は、まだ可愛らしい妖精のような美少女だった。

 久しぶりに彼女の演奏会に足を運ぶ。今でも上品で美しく、とろけるような優しい笑顔の素晴らしいひとである。
 今回はギターのラース・ハンニバルとハープの西山まりえとの協演で、バッハの「ソナタBWV1033」に始まり、コレッリの「ラ・フォリア」、ヘンデルの「ソナタHWV377」、グリーグの「スプリング・ダンス」や「つまづき踊り」、マルチェッロの「アダージョ」、作者不詳の「グラウンドによるグリーン・スリーヴス」などのプログラムが演奏されて行った。

 大小さまざまのリコーダーを頻繁に持ち替え、時にはユーモラスに多彩な音色を披露、この上なくあたたかい雰囲気で私たちを包んでくれた。

2019・12・2(月)ゲルギエフ&マリインスキー 「マゼッパ」(演奏会形式)

      サントリーホール  6時

 冒頭、11月30日に帰天したマリス・ヤンソンスを偲び、今日の演奏会を彼に捧げることと、全員で黙祷したいというゲルギエフの提案が場内アナウンスにより紹介された。

 チャイコフスキーのオペラ「マゼッパ」は、今回が日本初演か? ほとんど知られていないオペラなのに、しかも舞台上演でなく演奏会形式上演なのに、予想以上に客席が埋まっていた。お客さんの熱心さには、心を打たれる。

 幸いにして私はこれまで、MET、リヨン歌劇場、ベルリン・コーミッシェ・オーパーなどで計3回、舞台上演を観る機会を得た。ゲルギエフやキリル・ペトレンコが指揮していたそれらの公演はいずれも見事なものだったが、しかしチャイコフスキーの音楽そのものに心底から没頭できたのは、今回が初めてである。
 それは何よりも演奏会形式という、表現力豊かな大編成のオーケストラを舞台上に上げての、しかも妙な(?)演出に気を取られることなく音楽に集中できる形で上演されたことのおかげだろうと思う。

 今回の上演では、30分足らずの休憩を1回のみ、第2幕第1場(牢獄の場)の後に入れての演奏となった。これは作品全体のバランスを考えれば、賢明な方法だろう。
 弦14型編成のマリインスキー響は、ステージ上に大規模な山台を置いて配置され、ゲルギエフの劇的で緊迫感に富む指揮のもと、実にたっぷりと豪壮に、しかも切れのいいシャープな響きで鳴り渡る。
 かつてのこのオケが持っていたロシアの装飾品の色彩を思わせる翳りのある音色ではなく、明晰でインターナショナルな音色で響いて来るのは、「スペードの女王」の時と同じである。

 一方、歌手たちはオーケストラの前で非常に詳細な演技を行いつつ、暗譜で歌う。この演技が堂に入っているのは、歌手たちがほぼ全員、すでに最近マリインスキー劇場での舞台上演で演じていたからにほかならない。若い世代の人が多いが、だれもかれも、揃いも揃って声が力強い。

 その歌手陣は次の通り━━ウラディスラフ・スリムスキー(ウクライナの統領マゼッパ)、ミハイル・コレリシヴィリ(その配下オルリク)、スタニスラフ・トロフィモフ(ウクライナの大地主コチュベイ)、アンナ・キクナーゼ(その妻リュボフ)、マリヤ・バヤンキナ(その娘、マゼッパの妻となるマリヤ)、エフゲニー・アキーモフ(マリヤを愛する青年アンドレイ)、アレクサンドル・トロフィモフ(コチュベイの同志イスクラ)、アントン・ハランスキー(泥酔したコサックの男)。

 ゲルギエフはマリインスキー・カンパニーを引き連れて日本公演をやるたびに、あとからあとから、次々と新世代の優秀な歌手たちを連れて来ているが、その歌手の層の厚さにはいつもながら驚くばかりだ。
 もう一つ、合唱の凄さも忘れてはならない。P席中央に配置されたマリインスキー劇場の合唱団は、わずか60人の編成ながら、そのパワーはオーケストラを圧するほどの強靭なものであった。

 総帥ゲルギエフの、音楽上の演出力、持って行き方の巧さは格別だ。このオペラをこれほど纏まりよく、スリリングに、退屈させずに聴かせてくれる指揮者は、彼を措いてそうはいないだろう。
 ゲルギエフは、やはりロシア・オペラを指揮する時が最高だ。

 なおこれは━━批判として言うのではないが、今日は正面オルガンの下のやや下手側に配置されていた金管のバンダの音が、「ポルタワの戦い」で一緒に行進曲を演奏する時に、何分の1秒か遅れて響いて来るのが、えらく気になった。2階席最前列で聴いていてさえこうだから、さらに距離の遠い2階席最後方では、もっとずれて聞えるのではないかしらん。ファンファーレならともかく、細かいリズムでオケ本体と一緒に演奏する際には、この「音の伝達速度」は難しい問題だ。
 以前、東京文化会館でヴェルディの「レクイエム」を演奏した某オケの楽員さんが、5階席てっぺんで演奏している「トゥーバ・ミルム」のラッパがステージ上の自分たちの音とずれて聞えるのでやりにくくって・・・・とぼやいていたのを思い出す。

2019・12・1(日)ヘンデル:オペラ「リナルド」

      北とぴあ さくらホール  2時

 「北とぴあ国際音楽祭2019」の最終日、ヘンデルの「リナルド」の2日目を観る。有名なアリア「私を泣かせて下さい」を第2幕に含むオペラである。

 寺神戸亮のヴァイオリンと指揮、レ・ボレアードの演奏、佐藤美晴の演出。
 歌手陣は、布施奈緒子(キリスト教徒軍総司令官ゴッフレード)、フランチェスカ・ロンバルディ・マッズーリ(その娘アルミレーナ)、クリント・ファン・デア・リンデ(キリスト教徒軍の将軍リナルド)、フルヴィオ・ベッティーニ(エルサレムの王アルガンテ)、湯川亜矢子(ダマスカスの女王で魔法使のアルミーダ)ほか。
 オーケストラをステージに載せ、歌手たちはその前で演技を繰り広げる形で、ほぼセミステージ形式上演と言ってもいい。

 オペラは十字軍時代、キリスト教徒軍の英雄リナルドを主人公に、最後にキリスト教徒軍が大勝利を収め、敗れたエルサレム王アルガンテとダマスカス女王アルミーダが前非を悔いて改宗する━━という内容。当時のオペラによく見られる、いかにも西欧のキリスト教徒側に都合のいい物語だ。
 ただこちら「リナルド」には、ハイドンの「アルミーダ」などとは違い、異教徒の指導者たちを単に残虐な者たちとしては描いていないという特徴がある。いずれにせよ、キリスト教とイスラム教の対立がますます深刻な問題となりつつある今日からすれば、これまでとは異なった解釈が加えられても然るべきドラマではあろう。

 ただし今回の上演は、特にそういう政治的なところには的を置かずに、ストレートに取り扱い、登場人物の性格、男女の心理の機微などを浮き彫りにすることを狙ったようだ。アルミーダとアルミレーナを1人の女性の両面を表わす存在として解釈したのは、あの「タンホイザー」でのエリーザベトとヴェーヌスの解釈にも似て興味深い。
 ともあれ、この小さな演技空間では、ドラマとしてあれこれ解釈を織り込むのは、どだい無理と申すものであろう。

 歌手の中では、アルミーダ役の湯川亜矢子が発音の明晰さ、イタリア語歌唱のメリハリの良さ、妖艶な演技表現などで際立っていた。彼女は昨年の「ポッペーアの戴冠」でもペネローペを歌って素晴らしかったという記憶がある。

 1995年以来のほぼ毎年、時にはモーツァルトのオペラなども含みつつ、バロック・オペラを集中して取り上げて来たこの音楽祭━━特にレ・ボレアードを率いる寺神戸亮の努力と実績は、偉とするに足る。

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