2019-10

2019・10・1(火)新国立劇場「エフゲニー・オネーギン」

       新国立劇場オペラパレス  6時30分

 新国立劇場のシーズン開幕。この劇場としては珍しい、ロシア・オペラのレパートリーでの幕開きである。今日はその初日。なお劇場側では「エウゲニ・オネーギン」と表記している。

 指揮がアンドリー・ユルケヴィチ、演出がドミトリー・ベルトマン、舞台美術がイーゴリ・ネジニー。
 歌手陣は、ワシリー・ラデューク(オネーギン)、エフゲニア・ムラーヴェワ(タチヤーナ)、鳥木弥生(その妹オリガ)、パーヴェル・コルガーティン(詩人レンスキー)、アレクセイ・ティホミーロフ(グレーミン公爵)、森山京子(姉妹の母ラーリナ)、竹本節子(乳母フィリッピエヴナ)、成田博之(介添人ザレツキー)、升島唯博(フランス人トリケ)他、新国立劇場合唱団(指揮・三澤洋史)。オケは東京フィルハーモニー交響楽団。

 今回の演出の最大のポイントは、演出家ベルトマンの「Production Note」によれば、あの伝説的なロシアの演出家スタニスラフスキーによる「1922年のプロダクション」を基本にした舞台、ということにあるようだ。
 そういえば、今回のネジニーによる舞台装置も、手許のジーン・ベネデティ著「スタニスラフスキー伝」(高山図南雄・高橋英子訳、1997年品支社刊)の320頁に見られる「2対の柱がある」という記述と共通している。

 また今回は第1幕前半の、農民たちがラーリン家に集う場面の合唱が根こそぎカットされていたが━━これは私には大いに不満であった━━これも前掲書の321頁に、
 「第1幕の農夫の場面で、うたったりおどったりするところが容赦なく切りつめられた・・・・そのままだとかえって演技を停滞させる月並みな芝居になりそうな気がしたからだ。人間のドラマに集中したいと思ったからだ」という記述があるので、この音楽カットも、スタニスラフスキーの発案だったことが判る。(━━とはいえ、これを今日そのまま踏襲することは、いかにも時代遅れの所業であり、私は断じて同意できない)。

 その前後の場面における母と乳母、タチヤーナとオリガの人物の巧みな配置関係なども、同書321頁で述べられていることと符合しており、こちらの方は、スタニスラフスキーが声楽的なバランスに綿密なアイディアを持っていたことの証明になるだろう。

 その他、演出面で、どこまでがスタニスラフスキーの指示だったのか、どこからが今回のベルトマンのアイディアだったのかは定かではないが、私がとりわけ興味深かったのは、オネーギンとレンスキーの決闘の場面だ。
 ここでは、ト書きや通常の演出とは大きく異なって、皮肉屋でニヒリストで「ロシアのインテリゲンチャ」だったオネーギンが、決闘などという行動に馬鹿々々しさを感じ、自嘲の空虚な高笑いととともに、そっぽを向いたままピストルをあらぬ方に向けて発射する。ところがこの弾丸が、不審そうにオネーギンに近づいたレンスキーに偶然命中してしまい、オネーギンは呆然とする━━という設定になっているのだ。

 これがもしスタニスラフスキーの演出だったのなら、当時としては画期的な読み替えだったというべきだろう。だがもし、ベルトマンの発想だったら、先年ボリショイ劇場で制作されたチェルニャコフ演出の━━同劇場来日公演でも上演されたが━━前場のパーティでのオネーギンらを含む出席者全員がレンスキーの激怒を泥酔による冗談だと思い込んで爆笑し、その中でオネーギンが笑いとともに投げ出した銃が暴発してレンスキーを・・・・という、あの演出設定にも劣らぬくらいの、面白いアイディアだと思うのだが。

 他にも、第1幕最後の「オネーギンとタチヤーナの場面」で、もともと夢想家のタチヤーナが、オネーギンの言葉を半分聞いただけでうっとりと勝手な空想に走ってしまい、オネーギンを呆れさせるくだりとか、パーティや舞踏会の客たちがオネーギンから見た「くだらない有象無象の連中」として戯画的に描かれていたり、オリガがどうしようもないバカ女(プーシキンの原作と少し共通させたのかも)として扱われていたりと、興味深い場面もいくつかあった。

 「手紙の場」で、タチヤーナの感情が激する瞬間に上手側の窓のカーテンが風でひときわ大きく揺れて膨らむあたり、芸が細かいなと思わせる。ただし些事だが、そのあと下手側の窓からも同時に風が吹き込んで来てカーテンが内側に膨らむなんてのは、そんな風の流れはあり得まい。その際に送風機の轟音が漏れて来たのも雰囲気ぶち壊しであった。

 歌手陣。題名役のラデュークはマジメ風のオネーギンだが、歌唱は手堅い。
 タチヤーナのムラーヴェワも「手紙の場」で優れた歌唱を聴かせた。彼女、容姿も演技も清楚で好ましく、社交界で公爵夫人となった時よりも、むしろ前半の田舎娘時代の方が魅力的だ。
 レンスキーのコルガーティンは歌唱・演技とともに神経質な特色を出している。鳥木弥生は「アタマの悪そうなオリガ」だったために少し損な役回りだったが、ヴィブラートの極端な強さは、特にこの若い娘役としては、あまり感心したものではない。

 そういえば、今回脇役で共演した日本の歌手たちは、慣れないロシア語を明確に発音しようと努力した結果なのか、男声も女声もおしなべてヴィブラートが強すぎたような印象がある。言葉をはっきりと発音させるというのは、スタニスラフスキーの方針であったという(前掲書319頁)から、それ自体は結構だと思うのだが、歌い方のほうは、何か力み返っていたように感じられなくもなかった。
 トリケを歌い演じた升島唯博の怪演(?)は、なかなかのものだった。

 ウクライナ出身の指揮者ユルケヴィチは、私は初めて聴いたように思うが、東京フィルを比較的骨太な音で鳴らして、メリハリのある演奏を試みていたようである。最終場面での劇的な緊迫感などに関しても、松本でのファビオ・ルイージなどの指揮と比べると、はるかにロシア・オペラのカラーに相応しい押しの強さを感じさせる。ただ、「ポロネーズ」などでは、やはりオケのひ弱さと薄手の音が、指揮の足を引っ張ったのではないか。一方、「手紙の場」での叙情的なオーケストラの流れは好ましい。

 休憩は1回のみ。それも第2幕第1場の後(「水車小屋での決闘の場面」の前)に置かれていた。9時35分頃終演。

«  | HOME |  »

























Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

お知らせ

●2007年7月以前のArchivesを順次、アップロード中です。併せてご覧下さい。
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月
2006年7月

Category

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」