2019-10

2019・10・10(木)野田秀樹演出「Q」 松たか子、竹中直人他

      東京芸術劇場プレイハウス  6時30分

 「Q」とは何だかよく分からないのだが、ロックのクイーンの演奏を効果音楽として使っていることに関係があるのかも。
 そういうことをあまり詳しく説明しないのが演劇の世界であるらしい。(それに比べると翻ってクラシック音楽の世界は、善し悪しは別として、何とまあ、由来だとか経緯だとか、内容に関する事細かな説明・解説がなければ済まぬジャンルであることか。もっとも、そのおかげで私たちごとき業者も恩恵を蒙っているわけだけれど━━)。

 それはともかく、このお芝居、ちょっと長いが(15分の休憩1回を含み10時頃終演)面白い。
 話の基は「ロミオとジュリエット」だが、これを日本の源氏と平家の対立時代に持ち込み、ついでにシベリヤ抑留のイメージも盛り込んでいるのが特徴。
 平清盛(竹中直人)の息子が瑯壬生=ろうみお(上川隆也)、源頼朝(橋本さとし)の妹が愁里愛=じゅりえ(松たか子)、自由な瑯壬生と愁里愛がそれぞれ志尊淳と広瀬すず━━といった具合で、もちろん野田秀樹自身も狂言回し的な「源の乳母」として大暴れする。

 野田秀樹得意の言葉の遊び、語呂合わせ、駄洒落なども随所に散りばめられ、テンポの速いコミカルな舞台が展開するという芝居である。
 もっとも結末は悲劇的で、赦免された仲間を乗せた舟が遠ざかるのを瑯壬生(上川隆也)が、鬼界が島の俊寛そっくり、「おーい」と悲しげに叫びつつ見送るシーン(これは冒頭でも出る)も印象的だ。ここでは、シベリヤの野に寂しく果てるロミオ、ということか。
 平清盛と平の凡太郎の2役を演じる竹中直人の怪人ぶりは流石のものだった。

 このあと、大阪と北九州でも興行の予定で、ほぼ2カ月にわたる公演の由。

2019・10・9(水)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 昨年11月のサンクトペテルブルク・フィル日本公演の際には健康を損ねて来日できなかったテミルカーノフだが、今回は元気で顔を見せてくれたのは何よりだった。

 今回は、昨年2月以来の読響客演である。その最初の演奏会は、ハイドンの「交響曲第94番《驚愕⦆》と、ショスタコーヴィチの「交響曲第13番《バビ・ヤール》」というプログラム。後者での協演はバスのピョートル・ミグノフと新国立劇場合唱団(指揮・冨平恭平)。コンサートマスターは日下紗矢子。

 弦の編成を大きくし、かつ明晰なリズム感を以って演奏した「驚愕」もちろん良かったけれど、やはり圧巻は「バビ・ヤール」だ。
 テミルカーノフの指揮は昔と違い、あまり音楽の表情を過多にせず、むしろ率直に音楽を構築して行く手法だが、この曲にあふれる暗黒的な物凄さを充分すぎるほどに表出していたと思う。読響も陰翳に富んだ厚みのある音を響かせ、特に低弦群の不気味な表情は印象的だった。

 たった一つ、第2楽章(ユーモア)での極度に速いテンポが、剛直なリズムや音楽の細部を曖昧にしてしまい、ちょっと雑な印象を生んでしまっていたことを除けば、テミルカーノフと読響がこれまで演奏して来たショスタコーヴィチの「第7番」や「第10番」に勝るとも劣らぬ快演だったと言ってよかろう。
 ソリストのピョートル・リグノフ(サンクトペテルブルク音楽院卒、ボリショイ劇場などで活躍)は、あまり重くない、暗くない声だが、力のある声だった。新国立劇場合唱団も強靭な歌を聞かせてくれていた。日本語字幕(一柳富美子訳)がついていたのも有難い。

 ショスタコーヴィチが詩人エフトシェンコの詩により、ロシアのユダヤ人問題に関して公然と国家体制に牙を剝いた交響曲━━それを原典版による見事な演奏で聴けたことは嬉しい。

2019・10・7(月)マルク・ミンコフスキ指揮東京都交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 最初にシューマンの「交響曲第4番ニ短調」を1841年の初稿版で。第2部ではチャイコフスキーの「悲愴交響曲」を演奏。
 選曲もさることながら、指揮がミンコフスキとあらば、どんな演奏になるかと興味を呼ぶ。コンサートマスターは矢部達哉。

 初稿版の「4番」は予想通り、所謂ロマン派的な色合いを一切取り去った分析的(?)な演奏という印象だ。この残響の少ないホールではそれがいっそう強調され、まさに裸形のシューマンといった感になる。こうした演奏で聴くと、やはり改訂版の「4番」はうまく出来ているなあ、という感がますます強くなってしまう。

 「悲愴」も、所謂「チャイコフスキー節」も、「慟哭的な悲愴美」も、ほとんど感じられない演奏である。もっともその辺は、聴き手の好みと感じ方にも依って変わるかもしれない。いずれにせよ、チャイコフスキーの交響曲をこのような形で見直すことは、ある意味では面白い。ただ、作品自体がそのようなアプローチを受け入れるかどうかは、また別の問題だろう。

 ミンコフスキその人は、大変な人気だ。

2019・10・6(日)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団 「グレの歌」

      ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 ミューザ川崎シンフォニーホール開館15周年を記念しての「グレの歌」。

 今年3月のカンブルランと読響、4月の大野と都響のそれが各1回の公演だったのに対し、このノットと東京響が2回公演だったのは、主宰がミューザ川崎だったからこそであろう。2日目の今日は満席とは行かなかったが、それでも一応見劣りしない程度の客を集めていたことは、当節大したものだという気がする。

 今日の声楽陣は、トルステン・ケール(ヴァルデマール)、ドロテア・レッシュマン(トーヴェ)、オッカ・フォン・デア・ダムラウ(山鳩)、アルベルト・ドーメン(農夫)、ノルベルト・エルンスト(道化師クラウス)、トーマス・アレン(語り手)、東響コーラス(指揮・冨平恭平)。コンサートマスターは水谷晃。

 歌手陣についていえば、今回もすこぶる豪華な顔ぶれが揃っていたと思う。
 特にヴァルデマール役のトルステン・ケールは、読響公演でのロバート・ディーン・スミスや都響公演でのクリスティアン・フォイクトに比べ、ヘルデン・テノールとしての性格がいっそう強力なので、役に相応しい。ただし声が聞こえにくいのは、これは彼の所為ではなく、作曲者のオーケストレーション━━管弦楽編成の音色と大音量━━に問題があるからで、歌手には何とも気の毒というほかはない。

 女声歌手2人は文句なしの表現力であり、レッシュマンの巧さ、デア・ダムラウのパワーは、いずれも見事なものであった。農夫役にドーメンとは随分贅沢なものだったが、彼も些かトシを取ったな、という感はあるだろう。
 しかし同じ「齢を取ったな」でも、トーマス・アレンの貫録と巧味は流石で、歌は歌わないのに最後を独りで決めてしまった、という雰囲気である。

 ステージいっぱいに、ぎっしりと詰まったオーケストラは壮観だ。ノットの緻密で切れのいい制御のもと、編成の拡大された東京響は波打ち、轟々と鳴り響く。弱音の個所はロマン派的な豊麗さにも富み、声部も微細に交錯して美しいが、最強奏の個所ではやや硬質になり、怒号という感じになってしまうのは些か惜しい。
 ノットのこの作品へのアプローチの軸足は、後期ロマン派には近いものの、むしろ20世紀初頭のマーラーやR・シュトラウスの立ち位置から見たロマン派━━といったものに置かれているように思われる。

 演奏が終ったあと、オーケストラが引き上げてからも、ノットと歌手たちは鳴りやまぬ拍手に呼び出され、それは2回も繰り返された。

2019・10・5(土)スダーン指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

      東京オペラシティ コンサートホール  6時

 今年の「アジア オーケストラ ウィーク」は、香港シンフォニエッタとジャカルタ・シティ・フィルハーモニック、それにこのオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の参加により開かれている。

 今日はその初日で、主役のOEKが池辺晋一郎の「この風の彼方へ」とベートーヴェンの「第7交響曲」を演奏、それら2曲の間に香港シンフォニエッタとの合同演奏でチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」を━━というプログラムだった。
 指揮はいずれもOEKのプリンシパル・ゲスト・コンダクターのユベール・スダーン。コンサートマスターはアビゲイル・ヤング。

 池辺の作品は、昨年のOEK委嘱作品で、岩城宏之を偲ぶ記念演奏会で初演されたものの由だが、私は今回初めて聴いた。「風の彼方にある未来を問う」といったようなコンセプトを折り込んだ曲とのこと。ダイナミックな起伏に富みながらも、曲想には常にまろやかな力と美しさを感じさせる。2年前の交響曲「次の時代のために」と同じように、未来に殊更な悲劇性を強調して見せることなく、あくまで肯定的に視るというのが彼の信条なのだろう。
 今回の作品では、清澄さと透明さがいっそう増し、しかも洗練された民族色といったものさえも感じられたのだが、これは私だけの印象だろうか?

 「ロメオとジュリエット」では、二つのオーケスラの楽団員がまるで一つの団体のメンバーのように調和していた。スダーンの手腕だろう。
 ベートーヴェンの「7番」は、先日の「5番」と同様かそれ以上に鋭い力を持ったアクセントの強い演奏で、全ての反復を遵守した古典的な構築と、小編成のオケの特徴を生かした明晰な音色とリズム性が特徴の快演だ。この曲で、異様なほどに強奏されたホルンやティンパニが、しばしば弦楽器群を圧して聞こえ、旋律線まで異なった響きになっていたのは、2階正面の席で聴いた所為なのか、それとも・・・・?

 アンコールは、ベートーヴェンの「トルコ行進曲」。ナマで聴く機会は滅多にないので、面白い。

2019・10・3(木)東京二期会 宮本亜門演出「蝶々夫人」初日

       東京文化会館大ホール  6時30分

 ザクセン州立歌劇場、デンマーク王立歌劇場、サンフランシスコ歌劇場との共同制作による、宮本亜門演出の新プロダクション、プッチーニの「蝶々夫人」。

 アンドレア・バッティストーニが東京フィルを指揮、初日はダブルキャストのA組で、森谷真理(蝶々夫人)、藤井麻美(スズキ)、樋口達哉(ピンカートン)、黒田博(シャープレス)、萩原潤(ゴロー)、成田伊美(ケート)、小林由樹(ヤマドリ)、志村文彦(ボンゾ)、香月健(役人)、牧田哲也(蝶々夫人の子、青年時代)他。二期会合唱団。

 舞台(装置はボリス・クドルチカ)には座敷や障子などの所謂日本家屋的なものはほとんど無く、ただバンガロー風の小さな部屋が一つあるだけで、これが精妙に移動する黒と白のカーテンとともに動き、場面を構成し、区切りをつける。
 以前の「魔笛」と違い、プロジェクション・マッピングのような手法の使用はごく限られている。

 衣装(高田賢三)とメイクは(米国人役を除き)徹底的に「日本的」なもので、ヤマドリ公爵に至っては帝国海軍の軍装(中将か少将か、とにかく偉い人の服装だろう)だ。第2幕以降の蝶々さんが、髪型といいメイクといい服装といい、何だか猛烈に21世紀の日本人女性的、というのは少々意外だったが。

 しかし今回の演出の最大のポイントは、蝶々さんの自決から30年後、ピンカートンとケートに引き取られてアメリカに渡っていた遺児の青年(32歳位)が、病床のピンカートンから渡された手紙から、実の母に関する詳しい話を初めて知り、あの長崎の時代に「Back to・・・・」する━━もしくは想像上の世界にタイム・スリップする、という設定にあるだろう。

 このモティーフは各幕冒頭に繰り返され、ピンカートンと蝶々さんの物語もほぼ通常通り進んで行くが、蝶々さんの遺児たる「青年」も常にその舞台にいて、母への同情と愛、そしてのちに後悔の念に苛まれ続けて生涯を終ろうとする父への同情などの交錯に悩む、という設定になっている。
 劇中でゴローが「この子はアメリカへ行っても幸せにはならない」と歌ったのを聞いた時に、現実にアメリカで差別を受け続けた「青年」が示す苦悩の表情、また実母が絶望に沈んだ時に、同情のあまり髪を掻き毟って悲しみにくれる「青年」の表情などを、黙役の牧田哲也が実に巧く演じていた。

 ただ、この「青年」の役柄については、もう少し何とか━━どこをどうしたら、というのは私にも分からないのだが━━巧い使い方もあるんじゃないのか、という気がしないでもないのだが。かといって、あまり過剰にウロチョロされても邪魔だし・・・・。
 その辺の解決法は、私が常日頃から尊敬し信頼し、演出の手法を支持している宮本亜門さんに、さらに一考していただくことにしよう。
 ただ、私の好みからすれば、ラストシーン、息を引き取ったピンカートンが蝶々さんと再会するという最後の幻想光景は、些か甘すぎるのではないかと思うが・・・・。

 いずれにせよ、見慣れたドラマに新しい視点を導入する手法の一例として、この「蝶々夫人」は、たいへん面白いものであると思う。これまで、ピンカートンは許せん━━と息巻いていた観客にも、何かしら寛容の気持を生ましむる演出だったかもしれない。

 今日のAキャストでは、題名役の森谷真理が、清楚な素晴らしい歌唱を聴かせていた。樋口達哉の張り切った横柄な米国海軍士官、重厚で人間味と貫録にあふれた黒田博のシャープレス領事も、演技・歌唱ともに魅力充分。藤井麻美のスズキは、ちょっと控えめな歌唱と演技だったが、人間的なあたたかさはよく出していた。

 熱血漢指揮者バッティストーニは、この作品ではむしろ抑制した美しさを狙っていたような印象を受ける。
 東京フィルは、新国立劇場の「オネーギン」との二手に分かれてのピット入りだったが━━本当にこういうやり方でいいのだろうか、と疑問に感じないではいられない━━仲のいいバッティストーニと組んだこちらのメンバーの方が演奏もサマになっていたような印象である。

2019・10・2(水)ハインツ・ホリガーと東京シティ・フィル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ホリガー、今日は東京シティ・フィルを「吹き振り」だ。ただしこの演奏会は、シティ・フィルの定期ではない。ホリガーを招聘しているヒラサ・オフィスの主催による特別演奏会である。

 プログラムは、最初にヴェレシュの「トレノス」、次がリストの作品をホリガーが編曲した「2つのリスト作品のトランスクリプション」━━これは札響定期で指揮したのと同じ曲で、「暗い雲」と「凶星」(Unstern!札響の時は「不運」という訳が使われていた)。
 次に郷古廉をソリストにバルトークの「ヴァイオリン協奏曲第1番」、そしてホリガー(オーボエ)とマリー=リーゼ・シュフバッハのイングリッシュホルンとのデュオで、細川俊夫の新作「結びーハインツ・ホリガーの80歳の誕生日を祝して」の世界初演が行なわれた。
 休憩後は、ホリガーのオーボエ吹き振りでマルティヌーの「オーボエ協奏曲」、最後にラヴェルの「スペイン狂詩曲」と続く。シティ・フィルのコンサートマスターは荒井英治。

 ホリガーの卓越した色彩的な音色感覚は、今夜の演奏でも健在だ。民族色も滲ませた「トレノス」と、続く「リスト・トランスクリプション」での暗鬱な沈潜、慟哭的な美しさ。バルトークでの郷古のソロも素晴らしい。

 ホリガーは、それらの指揮とともに、オーボエの面でも今夜はパワー全開である。細川俊夫の新作と、マルティヌーの協奏曲とで聴かせたホリガーのオーボエ・ソロは、驚異的な肉体的な力と、精神的な集中力と、ヒューマンなあたたかさに満ちた音楽性とで、ただもう舌を巻くしかない━━。

 さて、それまでホリガーの指揮によく応えて来たシティ・フィルではあったが、「スペイン狂詩曲のような曲を、彼のような━━つまり厳しい制御の一方、巧妙とは必ずしも言い難いバトン・テクニックの━━指揮者の下で演奏するのは、そう簡単ではなかったのではないか。大阪フィルの「ラ・ヴァルス」と同じく、色彩感は豊富だったが、何となく肩肘張ったようなラヴェルになっていた。

2019・10・1(火)新国立劇場「エフゲニー・オネーギン」

       新国立劇場オペラパレス  6時30分

 新国立劇場のシーズン開幕。この劇場としては珍しい、ロシア・オペラのレパートリーでの幕開きである。今日はその初日。なお劇場側では「エウゲニ・オネーギン」と表記している。

 指揮がアンドリー・ユルケヴィチ、演出がドミトリー・ベルトマン、舞台美術がイーゴリ・ネジニー。
 歌手陣は、ワシリー・ラデューク(オネーギン)、エフゲニア・ムラーヴェワ(タチヤーナ)、鳥木弥生(その妹オリガ)、パーヴェル・コルガーティン(詩人レンスキー)、アレクセイ・ティホミーロフ(グレーミン公爵)、森山京子(姉妹の母ラーリナ)、竹本節子(乳母フィリッピエヴナ)、成田博之(介添人ザレツキー)、升島唯博(フランス人トリケ)他、新国立劇場合唱団(指揮・三澤洋史)。オケは東京フィルハーモニー交響楽団。

 今回の演出の最大のポイントは、演出家ベルトマンの「Production Note」によれば、あの伝説的なロシアの演出家スタニスラフスキーによる「1922年のプロダクション」を基本にした舞台、ということにあるようだ。
 そういえば、今回のネジニーによる舞台装置も、手許のジーン・ベネデティ著「スタニスラフスキー伝」(高山図南雄・高橋英子訳、1997年品支社刊)の320頁に見られる「2対の柱がある」という記述と共通している。

 また今回は第1幕前半の、農民たちがラーリン家に集う場面の合唱が根こそぎカットされていたが━━これは私には大いに不満であった━━これも前掲書の321頁に、
 「第1幕の農夫の場面で、うたったりおどったりするところが容赦なく切りつめられた・・・・そのままだとかえって演技を停滞させる月並みな芝居になりそうな気がしたからだ。人間のドラマに集中したいと思ったからだ」という記述があるので、この音楽カットも、スタニスラフスキーの発案だったことが判る。(━━とはいえ、これを今日そのまま踏襲することは、いかにも時代遅れの所業であり、私は断じて同意できない)。

 その前後の場面における母と乳母、タチヤーナとオリガの人物の巧みな配置関係なども、同書321頁で述べられていることと符合しており、こちらの方は、スタニスラフスキーが声楽的なバランスに綿密なアイディアを持っていたことの証明になるだろう。

 その他、演出面で、どこまでがスタニスラフスキーの指示だったのか、どこからが今回のベルトマンのアイディアだったのかは定かではないが、私がとりわけ興味深かったのは、オネーギンとレンスキーの決闘の場面だ。
 ここでは、ト書きや通常の演出とは大きく異なって、皮肉屋でニヒリストで「ロシアのインテリゲンチャ」だったオネーギンが、決闘などという行動に馬鹿々々しさを感じ、自嘲の空虚な高笑いととともに、そっぽを向いたままピストルをあらぬ方に向けて発射する。ところがこの弾丸が、不審そうにオネーギンに近づいたレンスキーに偶然命中してしまい、オネーギンは呆然とする━━という設定になっているのだ。

 これがもしスタニスラフスキーの演出だったのなら、当時としては画期的な読み替えだったというべきだろう。だがもし、ベルトマンの発想だったら、先年ボリショイ劇場で制作されたチェルニャコフ演出の━━同劇場来日公演でも上演されたが━━前場のパーティでのオネーギンらを含む出席者全員がレンスキーの激怒を泥酔による冗談だと思い込んで爆笑し、その中でオネーギンが笑いとともに投げ出した銃が暴発してレンスキーを・・・・という、あの演出設定にも劣らぬくらいの、面白いアイディアだと思うのだが。

 他にも、第1幕最後の「オネーギンとタチヤーナの場面」で、もともと夢想家のタチヤーナが、オネーギンの言葉を半分聞いただけでうっとりと勝手な空想に走ってしまい、オネーギンを呆れさせるくだりとか、パーティや舞踏会の客たちがオネーギンから見た「くだらない有象無象の連中」として戯画的に描かれていたり、オリガがどうしようもないバカ女(プーシキンの原作と少し共通させたのかも)として扱われていたりと、興味深い場面もいくつかあった。

 「手紙の場」で、タチヤーナの感情が激する瞬間に上手側の窓のカーテンが風でひときわ大きく揺れて膨らむあたり、芸が細かいなと思わせる。ただし些事だが、そのあと下手側の窓からも同時に風が吹き込んで来てカーテンが内側に膨らむなんてのは、そんな風の流れはあり得まい。その際に送風機の轟音が漏れて来たのも雰囲気ぶち壊しであった。

 歌手陣。題名役のラデュークはマジメ風のオネーギンだが、歌唱は手堅い。
 タチヤーナのムラーヴェワも「手紙の場」で優れた歌唱を聴かせた。彼女、容姿も演技も清楚で好ましく、社交界で公爵夫人となった時よりも、むしろ前半の田舎娘時代の方が魅力的だ。
 レンスキーのコルガーティンは歌唱・演技とともに神経質な特色を出している。鳥木弥生は「アタマの悪そうなオリガ」だったために少し損な役回りだったが、ヴィブラートの極端な強さは、特にこの若い娘役としては、あまり感心したものではない。

 そういえば、今回脇役で共演した日本の歌手たちは、慣れないロシア語を明確に発音しようと努力した結果なのか、男声も女声もおしなべてヴィブラートが強すぎたような印象がある。言葉をはっきりと発音させるというのは、スタニスラフスキーの方針であったという(前掲書319頁)から、それ自体は結構だと思うのだが、歌い方のほうは、何か力み返っていたように感じられなくもなかった。
 トリケを歌い演じた升島唯博の怪演(?)は、なかなかのものだった。

 ウクライナ出身の指揮者ユルケヴィチは、私は初めて聴いたように思うが、東京フィルを比較的骨太な音で鳴らして、メリハリのある演奏を試みていたようである。最終場面での劇的な緊迫感などに関しても、松本でのファビオ・ルイージなどの指揮と比べると、はるかにロシア・オペラのカラーに相応しい押しの強さを感じさせる。ただ、「ポロネーズ」などでは、やはりオケのひ弱さと薄手の音が、指揮の足を引っ張ったのではないか。一方、「手紙の場」での叙情的なオーケストラの流れは好ましい。

 休憩は1回のみ。それも第2幕第1場の後(「水車小屋での決闘の場面」の前)に置かれていた。9時35分頃終演。

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