2019-09

2019・9・30(月)佐藤俊介とオランダ・バッハ協会管弦楽団

       浜離宮朝日ホール  7時

 名門オランダ・バッハ協会管弦楽団の第6代音楽監督に就任したばかりの佐藤俊介。
 2010年に第17回バッハ国際コンクールで第2位となり、その後コンチェルト・ケルン及びオランダ・バッハ協会管弦楽団のコンサートマスターを務めていたが、後者の前任音楽監督ヨス・ファン・フェルトホーヴェンから後継者として指名され、昨秋就任した由。偉業である。

 今回は彼を含めて11人の編成での来日だが、そのリーダーとして、息を呑ませるほどの見事な「弾き振り」だ。そのバロック・ヴァイオリンは切れ味鋭く、凄まじいリズム性をもつ演奏でアンサンブルをリードし、音楽を燃え立たせる。

 プログラムは、最初にバッハの「ヴァイオリン協奏曲ニ短調」の第1楽章、ドレスデンの音楽家ピゼンデルの「ダンスの性格の模倣」、ヴィヴァルディの「フルート協奏曲《海の嵐》」、バッハの「管弦楽組曲第1番」、同「ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲ハ短調」、ザクセン=ワイマール公ヨハン・エルンストの「ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品1の4」、そして1曲目に演奏した「協奏曲」の今度はチェンバロ協奏曲版で第2・第3楽章という洒落た組み合わせで構成されていた。アンコールはバッハの「管弦楽組曲第2番」の「バディネリ」と、同「第3番」の「アリア」。
 すべてが生き生きとした、鮮やかな演奏だった。

2019・9・29(日)ひろしまオペラルネッサンス モーツァルト:「魔笛」

      JMSアステールプラザ大ホール  2時

 前夜のうちに広島に入る。

 川瀬賢太郎が広島交響楽団を指揮、岩田達宗が演出する新プロダクションということで、期待して行ったのだが、些かアテが外れた。

 序曲の後半から大蛇登場の幕開きにかけて、魔物どもの延々たる威嚇怒号絶叫がオーケストラを完全に打ち消してしまっていたが、音楽をまるきり聞こえなくしてしまうようなこんなやり方は、オペラの演出にはあり得ない。岩田さんともあろう人が、何ということをしてくれるんだ、と、ここからすでに激しい反発を覚えてしまう。

 また今回は、字幕付ドイツ語歌詞上演、日本語セリフという形式が採られていたが、このセリフ部分が著しく長い間を取って進められるのでドラマが間延びしてしまい、また女声歌手たちが一様に、頭の先から声を出すような、あの裏声にも似た甲高い声で台詞を喋り続けることなど、私にはどうにも堪えられない。

 パパゲーノに観客を巻き込んで広島カープの歌を歌わせたり、彼と老婆(パパゲーナ)のやり取りの部分を恐ろしく長く拡大して笑いを狙ったりする手法などを観ると、「ひろしまオペラルネッサンス」の性格も昔とはもう変わってしまったのか、と思う。ファミリー向けオペラを狙う路線と割り切れば、それはそれでいいのだろうけれども。

 ただ、岩田の演出としては、夜の女王やモノスタトスに人間味ある苦悩を表現させたり、タミーノに試練への疑問の念を一時的に抱かせたり、パミーナが「女性の復権」の信念を持つに至ったことを明確に描いたりしたあたりに、その片鱗が観られただろう。
 ラストシーンで、没落した夜の女王を美しく変身させ、ザラストロとの微妙な関係と、この老指導者が秘かに抱いていた永遠の女性像といったものを暗示する個所にも、岩田らしい新解釈が見出せる。

 本当は、岩田達宗のこういう演出がもっと観られるかと思って楽しみにして行ったのだが━━。
 川瀬賢太郎と広響が清楚な演奏をしていたのは救いだった。
 出演は、安東省二(ザラストロ)、端山梨奈(夜の女王)、川野貴之(タミーノ)、小林良子(パミーナ)、砂場拓也(パパゲーノ)他。

 20分の休憩を挟み、終演が5時35分になったのだから、いかにセリフの間合いが長かったかが判るだろう。

2019・9・28(土)ハインツ・ホリガー指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

      フェスティバルホール〈大阪〉 3時

 指揮者&オーボエ奏者ハインツ・ホリガー、80歳記念(?)の日本縦断ツアー。4オーケストラをそれぞれ異なったプログラムで振り分けるエネルギッシュな活動。
 これは先週の札響に続く第2弾で、しかも今日は(オーボエこそ吹かなかったものの)ピアノを弾いてくれたのである。

 プログラムは、相変わらず凝ったものだ。第1部は、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」と「ラ・ヴァルス」の間に、自作の「エリス~3つの夜想曲」を挟む。そして第2部はシューベルトの「未完成交響曲」の前に晩年の作品「アンダンテ」を置き、2曲を切れ目なしに演奏するという構成。

 「マ・メール・ロワ」組曲の冒頭から、木管群の演奏に気品のある官能性が備わって、何とも気持のいい音楽が伝わって来る。あたたかいラヴェルだな、と陶然とさせられてしまうのである。抑制された演奏だが、完璧なバランスで構築された音色が素晴らしい。

 次がホリガーの自作。1961年に作曲したという、演奏時間数分の「エリス~3つの夜想曲」を、オリジナルのピアノ・ソロ版と、2年後に自ら管弦楽に編曲した版とを続けて演奏して見せるという凝りようだ。
 まずホリガーが、ステージ下手に置かれたピアノで、自ら弾く。いかにも「60年代の現代音楽」だと思わせる作風ながら、その演奏があまりにも鮮やかで強烈なので、彼の気魄に呑まれてしまう。正直なところ、彼がこの齢でこんなピアノを弾くとは、予想していなかった。凄い人である。
 オーケストラは並んだまま黙って聴いているが、ホリガーのピアノに合わせてコンサートマスターと1番フルート奏者がそっと自分のパート譜をめくり、イメージをつかもうとしている姿が印象的だった。

 そしてホリガーは弾き終ると、小走りに(元気だ!)指揮台に向かい、飛び乗り、今度はオーケストラを指揮して、同じ曲の管弦楽編曲版を指揮しはじめる。この編曲がまた多彩で壮麗で精緻なこと、「現代音楽」の作曲家としても当時注目されていたホリガーの真骨頂が、いま改めて私たちの前に蘇って来る。

 そして第1部の最後は、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」。かなり厳しく制御された演奏で、バランスこそよかったものの、こちらはさすがの大阪フィルも些か自由さに欠け、音楽としては面白味に不足したというのが正直なところだろうか。だがそれでも音色のつくりの巧さは印象的で、自作の管弦楽編成の音色の多彩さとともに、ホリガーの卓越した音色感覚を改めて私たちに印象づける結果となった。

 第2部の最初に演奏されたのは、シューベルト~モーゼル編の「アンダンテ ロ短調D936A」。他界する年に書かれ、未完に終った所謂「交響曲第10番」の第2楽章に当たる曲だ。ニューボールドの編曲版よりも室内楽的な響きが濃い。
 その音楽は、まるで遠い遠い、未だ見ぬブルックナーの世界を予告しているかのような神秘的な曲想で、シューベルトは死の直前に一体どこへ向かおうとしていたのか、何かしら慄然とさせられる彼岸性に満ちたものだ。

 これが暗く消えて行ったと思う間に「未完成交響曲」(同じロ短調)が低いチェロとコントラバスの弱音で入って来るその効果は抜群のものがある。
 この「未完成」も、抑制され、厳しく律せられた感のある演奏であった。ただ、他の多くの指揮者のそれと同様に、第1楽章のアレグロと第2楽章のアンダンテに事実上のテンポの差異が感じられないのはいつも疑問に思うのだが・・・・。
 ともあれホリガーの指揮は、この3つの楽章を通じ、「暗」から「明」への浄化を模索するという解釈のように思われたのだが、如何だろうか。
 そしてまた、「未完成」の第2楽章の終結が、ブルックナーの「未完成」たる「9番」の第3楽章終結を奇しくも予告しているという縁を、今日もまた痛感させられることになった。この2つの曲のエンディングは、本当に感動的である。

 大阪フィルの演奏には、指揮者により厳しく制御されている様子が明確に聴き取れる。ホリガーはたった1回の客演で、このオーケストラを完全に掌握してしまったように思える。
 それにしても大阪フィルは、ホリガーの要求によく応えたものだ。音楽監督・尾高忠明により目覚ましくアンサンブルが整備されて来ている現在の大阪フィルであるからこそ、今回のような演奏が可能になったのではなかろうか。
 コンサートマスターは、この9月から正式にソロ・コンマスとなっている崔文洙。

2019・9・27(金)ライナー・ホーネック指揮紀尾井ホール室内管弦楽団

       紀尾井ホール  7時

 首席指揮者ホーネックが登場。
 最初に弾き振りでバッハの「ヴァイオリン協奏曲第2番」。そのあとは指揮に専念してメンデルスゾーンの「弦楽のための交響曲第10番ロ短調」と、ベートーヴェンのバレエ音楽「プロメテウスの創造物」全16曲を演奏した。コンサートマスターは千々岩英一。

 「プロメテウスの創造物」全曲━━とは、また珍しい作品を取り上げてくれたものである。今回は西村まさ彦がナレーターを担当して、ストーリーを紹介しながらの演奏になっていた。まあ、大ベートーヴェンの作品としては、「序曲」と「フィナーレ」以外はお世辞にも傑作とは言い難い曲だから、このような試みは効果的だったと言えるだろう。

 ただ、西村まさ彦(改名前の「雅彦」の方がいいと思うんだがなあ)ほどの優れた性格俳優を起用するのだったら、今回のような「解説調」のナレーションでなく、「物語風」にして、音楽と巧く組み合わせるようなスタイルにしたら更に面白くなったのではないかと思われる。
 もっとも、バレエのオリジナルの進行台本が現存せず、残されている僅かな記録からストーリーを「編作」せざるを得なかったということだから、これがぎりぎりの線だったのかもしれない。編作は、ベートーヴェン研究家として有名な音楽学の平野昭さんだった。

 この作品におけるホーネックと紀尾井ホール室内管の演奏は、端整で生真面目だったが、なかなかに引き締まったものだった。こういう演奏が可能なら、最初のバッハなど、弦楽合奏はもう少しメリハリのある構築にならなかったものかと思う。

2019・9・26(木)パスカル・ロジェ・ピアノ・リサイタル

       東京文化会館小ホール  7時

 東京文化会館の「プラチナ・シリーズ」の第1回として開催された演奏会。
 客席数650前後の小ホールでやるのはもったいないような名アーティストだが、ピアノの響きをしっとりと味わうには、このホールの空間は最高の条件ともいえる。

 特に今日のような━━サティの小品2曲、ラヴェルの「ソナチネ」とプーランクの「ナゼールの夜会」、ドビュッシーの「前奏曲集」第1巻と第2巻からの抜粋計12曲というようなプログラムの場合はそうだ。まして、ロジェが瞑想にふけるような沈潜した表情で、そして美しいモノローグのように弾いてくれるのだから、なおさらである。

 至福の2時間。

2019・9・25(水)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

      サントリーホール  7時

 B定期の初日公演。
 エストニアの作曲家トゥールの「ルーツを求めて~シベリウスをたたえて~」に始まり、デンマークの作曲家ニールセンの「フルート協奏曲」がエマニュエル・パユのソロで演奏され、後半にはフィンランドの作曲家シベリウスの「第6交響曲」と「第7交響曲」が切れ目なしに演奏されるという、極めて流れのいいプログムが組まれていた。コンサートマスターは客演のアンドレアス・ヤンケ。

 パーヴォ・ヤルヴィが祖国の作曲家エルッキ・スヴェン・トゥールの作品を盛んに紹介してくれるのは有難い。そのどれもが心を打つ作品とは言い難いけれども、パーヴォがこの作曲家に寄せる愛情と共感が、それらを他の指揮者とは一味違う良さを以って響かせてくれるのは確かであろう。
 今日の「ルーツを求めて」でも━━それが「シベリウス的」であるかどうかは別として━━トゥールなりの「シベリウス讃」なるものが多少なりとも感じ取れて、興味深いものがあった。

 その重々しくいかつい音楽の雰囲気を、ニールセンのコンチェルトが、さっと吹き払うといった感を与えてくれたのが、パユの爽やかな演奏。なお彼が吹いたソロ・アンコールは、同じニールセンの劇音楽「母」からの「子どもたちが遊んでいる」という曲の由。

 この2つの曲を受ける後半のシベリウスが、「1番」や「2番」などでなく、後期の円熟した作風の「6番」と「7番」であったことは賢明な選曲といえるだろう。
 ただしパーヴォの指揮はすこぶる激しい、鋭角的で大きな起伏に富んだもので、シベリウス後期の落ち着いた曲想に劇的な要素を盛り込み、この作曲家の不屈の剛直な気風を浮き彫りにしていたイメージになっていた。
 N響の演奏には多少の粗さも感じられたが、それは1階席のやや前方(14列)という位置で聴いた所為かもしれない。

2019・9・24(火)大塚玲子ピアノ・リサイタル

      東京文化会館小ホール  7時

 大塚玲子は、桐朋学園とモスクワ音楽院で学び、同音楽院研究科を最優秀で修了、2012年パリにおけるスクリャービン国際コンクール優勝を飾った人だ。彼女の演奏を聴いたのは、今回が最初である。

 プログラムは、リストとスクリャービンを核にしたもので、最初にチャイコフスキーの「四季」から「トロイカ」など3曲、以下グリンカ=バラキレフ編の「ひばり」、シューベルト=リスト編の「愛の便り」と「万霊節の連祷」、リストの「ダンテを読んで(ソナタ風幻想曲)」、アレンスキーの「アンダンテと変奏曲」、最後にスクリャービンの「ソナタ変ホ短調」「2つの詩曲」「ソナタ第9番《黒ミサ》」といった作品が演奏された。

 初めのうち、チャイコフスキーからシューベルトあたりまでは、緊張の所為なのか、ピアノ(ヤマハCFX)との相性の問題なのか、音が不思議に軽く細く、客席後方までまっすぐ伝わって来ないような傾向が感じられてもどかしい思いにさせられたが、リストのソナタに入り低音のモティーフが力強く鳴り始めると、演奏は途端に生気を取り戻した━━彼女は、低音にある種のこだわりを持っている人なのだろうか。

 休憩中に、ピアノにほんの少し調律が行なわれたためか、アレンスキー以降では、それまで少し冴えなかった高音域にも輝かしさが戻って、バランスの良い音色の演奏が繰り広げられた。
 スクリャービンは流石に緊密度の高い演奏だったが、やはりロシアの演奏家によるそれと異なり、繊細さと叙情性が前面に出て、ロシアのショパンとでもいうような趣になっていたのが興味深い。このような日本人の感性によるスクリャービン像というものがあっても、少しも不思議ではないだろう。

2019・9・23(月)ルドルフ・ブッフビンダー ピアノ・リサイタル

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ウィーンで学んだルドルフ・ブッフビンダーの、ベートーヴェンのソナタを集めたリサイタル。「悲愴」「ワルトシュタイン」「熱情」という極め付き名曲のプログラムだ。

 当節ではむしろ稀有の存在になってしまった感のある、堂々たる風格を備えた演奏スタイルによるベートーヴェンのソナタは、快い。揺るぎない重心の上に構築されているが決して重くなく、むしろ柔らかくしなやかで、表情はあたたかい。
 「ワルトシュタイン・ソナタ」の第1楽章、展開部の終りから再現部に向かう個所で、単なる形だけのクレッシェンドではなく、とどろく低音の上に音楽がみるみる力を増して上昇し、壮大に聳え立って行く━━という演奏を聴かせるのは、やはりベテランの独墺系ピアニストならではの大わざだろう。
 こういう、率直で、しかも人生肯定的なベートーヴェンは、聴き手の心を充実に引き込んでくれる。

 アンコールは、ベートーヴェンの「テンペスト・ソナタ」の終楽章と、バッハの「パルティータ第1番BWV825」からの「ジーグ」。後者での諧謔的な演奏も洒落ている。

2019・9・22(日)リオネル・ブランギエ指揮東京交響楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 フランスはニースの生れ、今年33歳の若手リオネル・ブランギエが東京響に初客演。
 ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」と、プロコフィエフの「交響曲第4番op.112」(つまり改訂版のほう)を指揮したが、思いのほか━━というか、思っていた以上に強固な構築性に富んだ指揮ぶりだ。

 特に後者では、ラザレフやゲルギエフが指揮した時のような濃厚な色彩感や、所謂「プロコフィエフ節」のようなものは全くと言っていいほど聴かれない。むしろ、専ら厳しい表情を漲らせた、音の構築に正面から迫った音楽づくりという感がある。
 これほど渋い、強面の、しかも一分の隙もなく組み立てられた「4番」の演奏は、滅多に聴かれないのではないか。プロコフィエフの交響曲にこのようなユニークなアプローチを、真摯に試みるとは、なかなか面白い指揮者だ。
 東京響(コンサートマスターは水谷晃)も、こういうタイプの指揮者には慣れているオーケストラだけあって、相性が良いような印象を受ける。

 ブランギエのこの端整で剛直な表情に満ちた指揮は、前半のブラームスのコンチェルトではいっそうの強みを発揮し、若いアリーナ・ポゴストキーナのこれも強靭なソロと相まって、揺るぎのない演奏を聴かせてくれた。

2019・9・21(土)ハインツ・ホリガー指揮札幌交響楽団

     札幌コンサートホールkitara  2時

 80歳を迎えたオーボエの名手であり指揮者でもあるハインツ・ホリガー。2年ぶりの来日で、今回は日本の4つのオーケストラに客演し、異なったプログラムを指揮・演奏するという濃密なスケジュールが組まれている。その第1弾がこの札響との定期。

 その2日目の公演を、札幌への日帰りで聴きに行く。こんな疲れる予定は、好んで組んだのではない。この連休中には札幌でラグビーや女子バレーがあるためホテルが混雑し、宿泊料金も高騰し、新千歳空港のターミナルホテルに至っては1泊4万円(あのホテルが!)などという超狂乱価格なので、渋々日帰りにしたまでのこと。

 さて、そのホリガーの指揮だが、プログラムが実に多彩だ。
 最初にリストのピアノ曲{暗い雲」と「不運」をホリガー自身が編曲した「2つのリスト・トランスクリプション」。重厚暗鬱な響きを持った管弦楽曲である。
 この陰鬱さを、あたかも清澄な祈りで拭い去ろうとするかのように、バッハの「カンタータ第12番《泣き、嘆き、憂い、怯え》」および「カンタータ第21番《わが心に憂い多かりき》」からのそれぞれ「シンフォニア」が、ホリガー自らのオーボエ・ソロとともに演奏される。

 次がベルクの「ヴァイオリン協奏曲」で、曲中にバッハの「カンタータ第60番」のコラールが引用されているところに、前曲との関連性を持たせた所以であろう。ヴェロニカ・エーベルレが素晴らしいソロを聴かせてくれたが、ホリガーと札響の演奏が、この曲の「ある天使の思い出に」という副題をいつも以上にはっきりと想起させる温かさを滲ませていたことに、とりわけ強い印象を与えられた。

 休憩後の1曲目もホリガー自身の編曲作で、ドビュッシーの「燃える炭火に照らされた夕べ」による「アルドゥル・ノワール(黒い残り火)」という曲。これには20人ほどの編成の札幌合唱団が参加したが、合唱は単なる音色の効果としての存在にとどめられていたようである。
 さて、こうした一連の暗い曲調が、最後のシューマンの「交響曲第1番《春》」でどのように解決されるのか、聴く前までは半信半疑だったが、さすがはホリガー、一癖も二癖もあるシューマンで見事に全プログラムを総括して見せた。

 冒頭のファンファーレ的なモティーフからして、まるで「1841年自筆稿」のそれを思わせるような陰翳を湛えた音色だったのにはぎょっとさせられたほどで、以降もいくつかの個所で、その初稿から引用したのではないかとまで思えるような表情が聴かれたのである。
 終演後の楽屋にホリガーを訪ねて確認してみると、「そう、あれこそが、シューマンが最初に書いた、最初に意図したものだったのだよ!」と、身振り手ぶりを交えて、話が止まらなくなってしまった。

 ただ、使用した楽譜は初稿のそれではなく、現行版のそれだったのから、今回はホリガーの解釈が加えられた、かなり個性的な「1番」だったと言えたのはないか。
 全曲にわたり、開放的な表情はほとんどなく、むしろ憂いを含んだ「春の交響曲」━━「北国の春」とでもいうべきものだったろうか。

 札響の今日のコンサートマスターは田島高宏。なお開演前のロビーコンサートでは、先頃逝去した名誉指揮者ラドミル・エリシュカを偲んで、バッハの「G線上のアリア」とドヴォルジャークの「弦楽セレナード」の一節が演奏されていた。

2019・9・19(木)彭家鵬指揮蘇州民族管弦楽団

      サントリーホール  7時

 2017年11月、蘇州に旗揚げされたオーケストラの由。
 些かCHINA趣味のある私としては、西洋楽器と中国楽器とをミックスした編成のこの楽団に興味を抱き、聴きに行った次第。

 いわゆる弦楽器の位置にはチェロとコントラバスの他、楽器編成表に従えば高胡、二胡、中胡が並んでおり、「弾じる」楽器としては柳琴、琵琶、三味線、筝、ハープ他、管楽器には曲笛、高音チャルメラ、中音チャルメラ、低音チャルメラ、高音笙、中音笙、その他・・・・という具合だが、百名近い大編成では楽器の形さえしかと判別できない。
 ステージでの楽器の紹介あるいはプログラム冊子での楽器の図解などがあれば、「高音チャルメラ」と「倍低音チャルメラ」との形がどう違うのかなどということもよく判って、更に愉しめただろうと思われる。

 それにしてもまあ、とにかく大きな音を出すオーケストラだ。それも瞬間的に大きな音を出すというのではなく、並べたプログラムが、どれもこれも家鳴り震動するような大音響の作品ばかり、それらを続けざまにこれでもかとばかり轟かせるその感性と体力のタフネスさには、全く唖然とさせられる。

 プログラムは、「奔騰」、「牡丹亭・游園」、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」の「ポロネーズ」、「随想曲」、「叙情変奏曲」、「二泉映月」、「幹将・莫邪幻想曲」といった作品で、この中には静かな曲も二つ三つはあった(それらは嫋々たる演奏で実に美しかった)ものの、大半は耳を聾する音のものばかり。
 アンコールとして加えられた「世界に一つだけの花」、「雷鳴と電光」、「ウィリアム・テル」序曲からの「スイス軍の行進」、「スラヴ舞曲Op,46-8」も、すべて刺激的な編曲による物凄い演奏だ。ロックのコンサートのPAの音量に比べればまだマシ、ではあるけれども。

2019・9・16(月)ベルリオーズ:「ロメオとジュリエット」バレエ付
大野和士指揮東京都交響楽団

    東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 東京都と東京都響が主催する「サラダ音楽祭 TOKYO MET SalaD MUSIC FESTIVAL 2019」━━「サラダ」とは「Sing and Listen and Dance」の略「SalaD」なのだそうで、これは東京芸術劇場を中心に池袋エリアや日比谷公園などで開催されるクラシック音楽中心の大イヴェント。

 そのメインコンサートが、この大野和士と東京都交響楽団によるベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」だ。
 協演が新国立劇場合唱団(合唱指揮・冨平恭平)、谷口睦美(S)、村上公太(T)、妻屋秀和(Bs)の他、今回は安達悦子振付による東京シティ・バレエ団が加わり、福田建太(ロメオ)、斎藤ジュン(ジュリエット)および10人の踊り手たちが出演した。コンサートマスターは矢部達哉。

 この曲がバレエ入りで演奏されるケースは、滅多にないだろう。そのバレエは、ステージ前面で展開される。
 冒頭の「序」の中で早くもバレエが━━言うまでもなくモンタギュー家とキャピュレット家の争闘を描くものだが━━始まった時には少々違和感を覚えないでもなかったが、しかし全曲ぶっ続けにバレエが絡むわけではなく、音楽にすべてを集中させる仕組は当然考慮されている。

 そして、このバレエの振付は極めて音楽とよく調和していて、「舞踏会の場面」ではもちろん巧く効果を発揮しているし、「愛の場面」でもアダージョのあの美しい主題の昂揚とともにパ・ド・ドゥが高々と決められる瞬間など、なかなか感動的だった。
 何より効果的だったのは「墓地の場面」だろう。ここは昔A・Coquardだったかも辛辣に皮肉を述べていたところで、独りよがりの描写的音楽が何を意味しているのやら、バレエか芝居でも入れなければさっぱり解らないと指摘された個所だが、その点、今日のバレエでは、恋人たちが相手の身体に取り縋って悲嘆に暮れるさまが明確に描かれ、音楽の動きと完璧に合体する光景が見られたのである。

 演奏の方は、大野の指揮だけあって、声楽も管弦楽も密度の濃いものであったが、ただ、大野がオケを抑制したのか、あるいはオーケストラの位置の所為か、ステージを前面まで拡げたことによる音響の変化か、それとも反響板の関係か、よく判らないけれども━━何となく「音が遠い」印象で、ベルリオーズの管弦楽法の量感と力感が今一つ客席まであふれ出してこない、という感がしないでもなかった。私が聴いたのはいつもの2階席前方である。

 字幕が付けられていたのは、良いアイディアだった。「恨みを捨てて、友よ、永遠に友情を誓おう」と歌われる最後のシーン。こういう歌詞を含む音楽は、今日この頃、ひときわ心を打つ。

2019・9・15(日)シャブリエ:オペラ・ブーフ「エトワール」(星占い)

      新国立劇場中劇場  3時

 制作と主催は東京オペラ・プロデュース。この団体は、長年にわたり、こういう珍しいオペラを次から次へと手がけており、その意欲と実行力たるや見上げたものである。今年の公演で取り上げたのは、シャブリエの、多少ブラック・ユーモア的な内容の喜劇オペラ「エトワール」(星占い)。

 字幕付フランス語歌詞による上演だが、セリフ部分は日本語。演出が八木清市。飯坂純指揮の東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団と東京オペラ・プロデュース合唱団。
 配役はダブルキャストで、今日は青柳素晴(国王ウーフ1世)、米谷毅彦(占星術師シロコ)、醍醐園佳(行商の美青年ラズリ)、江口二美(隣国の王女ラウラ)他多数の出演である。
 まことに申し訳ないことながら、第1幕が終ったところで野暮用に呼び出され、そのまま失礼せざるのやむなきに至ってしまった。

2019・9・14(土)岩城宏之メモリアルコンサート2019
ユベール・スダーン指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

         石川県立音楽堂コンサートホール  2時

 文化庁文化芸術振興費補助金関連の調査を兼ね、日帰りで聴きに行く。
 風邪気味で鼻炎と咳に悩まされていた上に、連休初日で北陸新幹線は満席、金沢駅前の観光客軍団の大雑踏、それに金沢の予想外の蒸し暑さ等々、あれこれあって、体力的にも気分的にもヘトヘト。

 演奏会の方は、これは定期公演ではなく、OEKの永久名誉音楽監督・岩城宏之を記念したもの。彼の写真がステージに飾られている。
 最初に第13回「岩城宏之音楽賞」の授賞式が行われ、ピアノの鶴見彩が受賞。これは「北陸に縁を持ち、現在優れた音楽活動を行なっている音楽家を顕彰し支援する」目的を持つ賞の由。今年の審査員には木村かをり(岩城宏之夫人)、池辺晋一郎、ユベール・スダーン(OEKプリンシパル・ゲスト・コンダクター)が名を連ねている。

 続いての本番の演奏は、湯浅譲二の「ピアノ・コンチェルティーノ」(ソリストは木村かをり)、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソリストは鶴見彩)、ベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」というプログラム。コンサートマスターは町田琴和(客演)。

 「コンチェルティーノ」は、OEKの委嘱作品で、1994年の岩城宏之指揮による初演時にも木村かをりがソロを弾いていたはず。
 この曲は、つい最近(2017年10月30日)にも杉山洋一指揮の都響と児玉桃の演奏で聴いたばかりだが、作品に備わる透明清澄な音色を率直に再現していたという点では、その時の演奏の方に分があったと思われる。
 もっとも、今日は上手側2階のバルコン席という、あまりにオーケストラとピアノの中に耳を突っ込み過ぎた(?)位置で聴いた所為で、少々乾いた演奏という印象を得たのかもしれない。それはベートーヴェンの「4番」の時も同様であった。

 「第5交響曲」では、スダーンは、OEKを鋭角的に響かせていた。あの東京響を、長年にわたり、あれほど厳格な指揮で制御し、独特の響きを構築していた彼が、小編成のOEKを相手にどのような大シンフォニーを響かせるのか、興味津々だったのだが━━。
 しかし、それにはかなりの綿密かつ慎重なリハーサルを必要とするだろう。今日のスダーンは、特に第3楽章などで、かなり弱音を重視した構築を行なっていた。第1ヴァイオリン、オーボエ、クラリネットなどが、このピアニッシモを巧く響かせたり、おっと、と思わせたりする瞬間がリアルに聴き取れるなどというのは善し悪しだが、それもこれも、オケに近い位置で聴いた所為である。

2019・9・13(金)アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル

      サントリーホール  7時

 ヴィヴァルディの「四季」とホルストの「惑星」というプログラムによる定期。

 前者は弦6・4・4・3・2およびチェンバロ、ソロ・ヴァイオリンに木嶋真優という編成で、136名(オーケストラ年鑑2018)を擁するオケとしては何だか効率の悪い(?)ステージだったが、とにかく木嶋真優のソロが活きのいい快演を聴かせてくれた。
 バッティストーニのだか誰のだか定かでない不気味なハミングが折角の流麗な演奏のカンタービレと音色とをしばしば濁らせていたことを除けば、なかなか良い「四季」だったと言えただろう。

 この日のプログラムのポイントは、小編成と大編成のオーケストラの響きのコントラストにあったようである。
 「惑星」はいかにもバッティストーニらしく、東京フィルを渾身の力で鳴らしての元気いっぱいの指揮だ。オーケストラは些か騒がしく、まとまりはあまり良いとは言えなかったものの、曲が曲だし、賑やかな雰囲気でお客さんを楽しませたのは確かだろう。

 終曲の「海王星」での女声合唱は新国立劇場合唱団(合唱指揮・冨平恭平)。2階のP席の場外で、客席とのドアを閉じたまま響かせたのは、比較的いい音響効果を生んでいただろう。ただ、最後のフェイド・アウトの部分で、何となく仕切りのドアを閉めたようにスパッと音が遠ざかったのは惜しく、もう少しスーッと綺麗に消え行かなかったものかと思うが━━こんなことがいちいち気になるのは、元FM放送ディレクターの性(さが)ゆえである。

 コンサートマスターは三浦章宏。

2019・9・10(火)セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団

      サントリーホール  7時

 前半に、プフィッツナーの遺作「チェロ協奏曲イ短調」。
 プフィッツナーの作品というのは、私はどうも昔から苦手で、あの晦渋さには辟易させられるのである。いつだったか、放送でそういう発言をしたら、「お前にはあの深淵な哲学的精神が解る耳が無い」という匿名の手紙をもらったことがある。そうかなあとは思ったが、とにかく私には晦渋に感じられるのだから、だれに何と言われようと、譲る気は無い。

 そのプフィッツナーだが━━今日のチェロ協奏曲も相当渋いが、しかし今日のソリスト、ドイツ出身のアルバン・ゲルハルトの明晰な、芯の強い、確信にあふれた演奏で聴くと、その晦渋なイメージもかなりの程度まで払拭されて、むしろ強靭な性格を滲み出させた作品に感じられるのだから面白いものだ。
 ゲルハルトはアンコールにバッハの「組曲第6番」の「プレリュード」を弾いてくれたが、その強固な響きの裡にあふれるしなやかな表情も、実に見事だった。

 休憩後には、お目当てのハンス・ロットの「交響曲ホ長調」。
 出だしの、「エデンの東」主題曲そっくりのあのテーマが、トランペットのソロを含めて不思議に心細げに響き、そのあともオーケストラ全体が唖然とさせられるほどガサガサした、しかも痩せた音だったので、これはいったいどうしたのかと驚いた。
 だが幸いなことに、第1楽章途中からは次第に容が整えられて行き、マーラーの「巨人」そっくりの第3楽章では既に確固とした明るさが戻り、第4楽章では壮大で念入りな歓呼が繰り広げられ、聴衆を沸き立たせることに成功したのだった。

 トランペットを極端に際立たせることなく、全管弦楽のハーモニーの中に均衡を持たせて響かせていた所為か、のちにマーラーがあれほど臆面もなくパクった(?)特徴はあまり目立たずに感じられたのだが、これはヴァイグレの巧みな解釈だったのかもしれない。
 冒頭の不安定な演奏は、多分、かりに翌日も公演があったとしたら、その時は最初からまとまるだろう━━と思わせる類のものである。
 それにしてもこの曲、トライアングルは本当にお疲れさま、である。
 今日のコンサートマスターは小森谷巧。

2019・9・9(月)昭和音楽大学公開シンポジウム
「アジアから世界へ~オペラ公演制作におけるグローバリゼーション」

    昭和音楽大学 ユリホール  6時30分

 大野和士と、ソウル市オペラ団団長でオペラ演出家の李京宰(イ・ギョンジェ)に、韓国のオペラ活動の取材も多い朝日新聞編集委員・吉田純子が加わったトークセッション「世界へのオペラ発信」。

 イ・ギョンジェ氏は、現在の韓国のオペラ活動と教育活動を詳細な資料を駆使して説明、今日の欧米のオペラ界で韓国出身の歌手が如何に活躍を拡げているかを納得させるようなレポートを披露。
 かたやマエストロ大野は、かなり幅広い話で、それが昂じると演壇の椅子から立ち上がって舞台前面まで出て来て大きなジェスチュアを交えつつ体験談を喋り出すというおなじみの盛り上がり。

 ━━まあ、こういうシンポジウムにはつきものの、テーマが絞り切れずに各々が喋りっ放しで終るという形になってしまっていたが、要するにアジアから━━あるいは環太平洋地域からのオペラ発信という意義と展望について意見を交わすということが主要演題だったのだろうと思う。

 いずれにせよ、東アジアから優れたオペラ歌手なり、オペラ指揮者が輩出されるようにという話もいい。アジアの物語や題材を使ったアジアのオペラ発信もいい。だがそれらとて、所詮は西洋音楽(オペラ)への日本や韓国のアーティストの積極的な参画、という段階の話ではなかろうか。

 私が今最大の関心事として悩んでいるのは、肝心の音楽の面で、アジアのオペラが世界的になり得るのか、なり得ないのか、ということである。ウェーバーの「魔弾の射手」や、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」が、ドイツとロシアの各々のオペラの語法を確立したように、日本が泰西のスタイルを真似するのではなく、自らの語法によるオペラを確立させるということが━━果たして出来得るのか、どうなのか? そういう議論もしてくれないだろうか?

2019・9・8(日)大野和士指揮東京都交響楽団&アチュカロ

     東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 シベリウスの「トゥオネラの白鳥」(イングリッシュ・ホルンのソロは南方聡子)、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはホアキン・アチュカロ)、シベリウスの「交響曲第2番」というプログラム。コンサートマスターは山本友重。

 高齢のピアニスト、アチュカロの演奏は、今年1月の山田和樹&読響でラヴェルのコンチェルトを聴いたばかり(☞2019年1月12日)だが、この人のラフマニノフもまた個性的で面白い。
 全体にゆっくりしたテンポで、所謂ヴィルトゥオーゾ的な華やかさを誇示するスタイルとは全く対極の位置にある演奏だ。しかもそれが奇を衒ったような遅いテンポでなく、音を慈しむように心を込め、しかもスケール感豊かに弾かれるのだから、ラフマニノフという作曲家が通常とは全く異なった顔を持って立ち現れることになる。

 もっとも、第3楽章で、彼特有の民族舞曲のような可笑しなリズムが、ゆっくり、どっしり演奏されると、何だか余計に滑稽に聞こえるのも事実で━━しかも大野と都響が正面からそれに取り組み、全曲のエンディングを地響き立てるように遅い足取りで重々しく締め括ったあたり、微苦笑させられたものだ。
 アチュカロはソロ・アンコールにスクリャービンの「左手のための小品op.9-2(ノクターン)」を弾いたが、そのあたたかい音楽の表情には、無類の素晴らしさがあった。

 大野と都響の聴かせどころ、シベリウスの「第2交響曲」は、強固な構築と厳しい表情を備えた豪壮な演奏だ。第2楽章で繰り返されるクレッシェンドとデクレッシェンド、全曲大詰での全管弦楽の轟々たる昂揚など、金管群の鋭い咆哮が見事な緊張感を生んでいた。

2019・9・7(土)セイジ・オザワ松本フェスティバル
ディエゴ・マテウス指揮サイトウ・キネン・オーケストラ

     キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館) 3時

 また松本へ。今年のセイジ・オザワ松本フェスティバル最終公演、「オーケストラB」の演奏会。

 今日はディエゴ・マテウスが指揮。シルベストレ・レブエルタス(1899~1940)の「センセマヤ」、モーツァルトの「ハフナー交響曲」、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」、アンコールにチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」からの「ポロネーズ」。
 コンサートマスターは「ハフナー」のみ田中直子、他の3曲は豊嶋泰嗣が受け持っていた。

 最終日ゆえに小澤征爾総監督がサプライズで登場するのではないか、と誰もが内心期待していたが、残念ながらついに実現せず。
 10日ほど前には某有力筋から「もしかしたら」と知らされて、「ハフナー」あたりが匂うな、とも思い、一転して数日前には同じ筋から「可能性あまりなし」と情報が入りつつも、しかし前日は元気で練習に立ち会っていたという話を聞いて、それならもしや・・・・と、━━そのあとの今日なのである。現場にはテレビカメラも入っていて、地元はもちろん、東京や大阪の新聞社の記者さんたちもぞろぞろと━━と言った具合に、噂は二転三転していた。
 ただ、今日は終演後に打ち上げパーティがあったので、取材陣はそこで忙しく立ち回っていた。小澤さんは現れなかった。

 それはともかく、このベネズエラ出身のディエゴ・マテウスという若手。
 指揮者への好みが非常にうるさい(らしい)このサイトウ・キネン・オーケストラに、ファビオ・ルイージとともにこれだけ客演しているということは、よほど楽員たちから好まれているのか。それども小澤さんから気に入られているのか。
 私もこれまで彼の指揮を2回聴いている(☞2011年8月26日2018年12月5日)が、良くも悪くも、なかなか情熱的な音楽をつくる人である。

 今日の「センセマヤ」は、民族的性格の強い作品だからともかくとして、「ハフナー」は、古典派音楽の端整さよりも━━変な言い方だが、何かこう、ある種の土俗的な荒々しさに塗り替えた演奏というイメージを抱いてしまった。私にはあまり気に入らない演奏だったが、指揮者が自分のカラーをここまで押し出したモーツァルト演奏という点で、甚だ興味深かったのは確かである。

 その彼の強い個性は、「悲愴」で、極めて効果的な方向で発揮された。この曲の憂愁とか陰翳とかいった性格とは縁の遠い性格の演奏ではあるものの、曲の副題「パセティーク」の本来の意味である「感情豊かな」という言葉にはある意味で合致した指揮だったようだ。
 第1楽章の展開部から再現部にかけては激情の嵐だったし、第4楽章第2主題でも感情の盛り上がりが凄い。休止を挟みながら沈潜する個所になると、その緊張感を維持するのに今一つ、という感があるのだが、いったん情熱的な部分に入ると、本領を発揮する人のようである。
 とはいえ、第3楽章後半が、さながら勝ち誇った壮大な行進曲のようになっていたのには、解釈の上で疑問がある。演奏上の効果こそ絶大なものがあったが。

 指揮者への拍手はすこぶる大きかったが、しかしそれ以上に、サイトウ・キネン・オーケストラに対する聴衆の人気は、やはり圧倒的で、不変なものがあった。このオーケストラが良い演奏をしている限り、このフェスティバルもとりあえずは安泰と思われる。
 ただしこのオケは、あくまで小澤征爾という「錦の御旗」が存在するからこそ集まっているのだ、ということも事実なのだが・・・・。

 打ち上げパーティで愉しく過ごし、最終から1列車前の「あずさ」で帰京。今日は日帰り。
     (別稿)信濃毎日新聞
     (別稿)モーストリー・クラシック11月号「オーケストラ新聞」

2019・9・6(金)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 フランスの作品と日本の作品を組み合わせるプロ。昨年も9月の定期で同様のプログラムが演奏されていた。いい企画だ。

 今日は最初にサン=サーンスの「サムソンとデリラ」からの「バッカナール」、最後にルーセルの「バッカスとアリアーヌ」第1・第2組曲。真ん中に間宮芳生の「ヴァイオリン協奏曲」と大島ミチルの新作の世界初演という、なかなか個性的な選曲である。
 協奏曲のソロは、今シーズンから日本フィルのコンサートマスターに就任した田野倉雅秋。今日のオケのコンマスは千葉清加が務めた。

 間宮のコンチェルトは、1959年に作曲された「日本フィルシリーズ」の第2作。演奏時間も40分近い長大な作品だ。
 初演を聴いたかどうかは定かでなく、もしかしてレコードで聴いただけだったのかもしれないが、とにかく、昔聴いた時のイメージとは全然違う。オーケストラのパートがさらに多彩で、輝きがあって、起伏が大きく、所謂民族色と言った傾向からも離れて、思索的な、凝縮した力が、昔よりもずっと明確に感じられるのである。
 失礼な言い方ながら、昔の日本のオーケストラの音には何となく「ねずみ色」という雰囲気があったので、作品に含まれたこういう多彩な音色も、今ほどはっきりと表出できなかったのかもしれない。

 間宮氏は今年90歳とのことながら、相変わらずお元気である。カーテンコールでは、客席からステージへ上がる階段や、ステージ袖に近い段差の大きな階段などを独りで難なく上がり降りされるという身の軽さで、聴衆を沸かせた。

 一方、大島ミチルの最新作「Beyond the point of no return」は、この「日本フィルシリーズ」の第42作とのこと。演奏時間約10分、冒頭にこそ「魔法使いの弟子」や「武満節」などのエコーがちらりと顔を覗かせるが、そのあとはひたすらエネルギッシュなリズムが主体となって進む、すこぶる明るい作品だ。
 「日本フィルシリーズ」にこういうストレートな傾向の作品が登場して来たというのも、やはり時代の流れというものだろうか。

 これらを挟んだフランスの2つの「ダンス音楽」では、山田和樹は日本フィルを鳴らしに鳴らし、猛烈果敢な力と大音響で押しまくった。
 「バッカナール」は、ああいう曲(?)だからそれでもいいけれども、ルーセルの場合には、いくら何でも最初から最後まで怒鳴らせ過ぎじゃないのかなあ。大音響自体は悪いことではないけれど、叙情的な個所も何も一緒くたにしたエネルギー優先主義では、この曲の起伏も精妙さも失われてしまう。
 ただし、第2組曲の後半、途中のカットなしに演奏してくれたことは、実によかった。

2019・9・6(金)藤原歌劇団 ロッシーニ;「ランスへの旅」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 藤原歌劇団の公演だが、新国立劇場と東京二期会が共催するという形が採られていて、合唱には3団体のメンバーが━━といっても、もともとこれは大合唱団の出るオペラではないから、せいぜい数人ずつだが━━共演している。ソリストにもわずかながら二期会所属の歌手が加わっている。
 演出が松本重孝、舞台美術は荒田良。

 これは、4年前に日生劇場で上演されたものの再演だ。私も観ている(☞2015年7月4日)ので詳細は省くが、もちろん指揮者も歌手たちも、その時に観たのとは、大半が違う。 
 今回はダブルキャストで計4回の公演が行われているが、これだけの歌手が動員できたということは、最近の藤原歌劇団の強力さを示すものだろう。

 ただ、言っては何だが、中には音程の不確かな人もいて、大勢のソリスト全てに拍手を贈れるというものでもないのである。
 それに今日はBキャストで、もちろん、光岡暁恵(コリンナ)をはじめ、スター的存在の歌手もいるけれども・・・・配役表を見ると、やはりAキャストの方に有名な人たちが多いわけで・・・・。だからどうということではない。失礼。

 イタリア・オペラ、特にロッシーニを得意とする園田隆一郎が東京フィルを指揮して、実にいい演奏を聴かせてくれた。

2019・9・5(木)熊川哲也&バッティストーニの「カルミナ・ブラーナ」

      Bunkamuraオーチャードホール  7時

 熊川哲也の台本・振付・演出と、アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルの演奏による、オルフの「カルミナ・ブラーナ」。

 こうして聴いて、観てみると、オルフの「カルミナ・ブラーナ」は、まさにダンス音楽そのものだ。いや、今回の熊川哲也のプロダクションでは「バレエ」という言葉が使われているから、「バレエ音楽」そのものだと言い直そう。
 今回は一つのストーリーが付けられ、それは女神フォルトゥーナ(中村洋子)と悪魔との間に生れた魔性の青年アドルフ(岡野海斗)との物語だとのこと。そのプロットは、観ていて必ずしも解り易くはないけれども、音楽の動きと見事に合致しているところが気持がいい。すこぶるスリリングで、面白い舞台だった。

 合唱(新国立劇場合唱団、NHK東京児童合唱団)は舞台上に位置し、時に移動し、時には歌いながら踊りに参加する。位置によっては、あまり客席に響いて来ない個所もあったが、とにかくご苦労様でした! 
 声楽ソリスト(今井実希、藤木大地、与那城敬)もその都度、舞台袖に登場して歌う。

 バッティストーニは、バレエに合わせにくかったのか、流れに多少ぎくしゃくしたものを感じさせる個所もあったものの、まずは勢いのいい熱演であった。
 もちろん、字幕は使われていない。

2019・9・4(水)西脇義訓指揮デア・リング東京オーケストラ

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 最近話題になっている、ユニークな楽器配置でユニークな響きを出すオーケストラ、「デア・リング」の生演奏を初めて聴く。これは公演としては第2回にあたるものだそうだ。

 このオケの主宰者であり、指揮者である西脇義訓さんとの付き合いはもう40年以上、彼がフィリップス・レコードのスタッフだった時からだ。温かい、穏やかな感じの人柄が、今でも私たちを惹きつける。
 彼の企画力は当時から抜群で、特に後年には奇抜なアイディアにも長け、「きんさん・ぎんさんのクラシック」(メイン曲がレハールの「金と銀」)というCDとか、「小澤幹雄のやわらかクラシック」(小澤征爾の録音集)というCDなども制作したこともある(後者は私が構成選曲をやらせてもらったものだが)。
 その彼が、バイロイト祝祭劇場の特殊なオーケストラ配置をヒントにして「デア・リング」なるオケを創設したと聞いた時には、ついに豪いことをやり出した、と舌を巻いたものだ。

 今日の演奏会のプログラムは、シューベルトの「未完成交響曲」と、ブルックナーの「第7交響曲」だった。
 「未完成」での楽器配置は、ステージ前面に、各々円形になった弦楽五重奏のグループを4つ並べ、その各々中央に木管の1番奏者たちを配置、而してそれらのグループの背後に2番奏者たち及び金管群を各々分散して配置する、という具合である。

 つまり、各セクションの奏者たち、あるいは1番・2番奏者は、舞台上にバラバラに━━といってももちろん西脇の考えに基づく一定の法則はあるのだろうが━━配置されるため、たとえばフルートやオーボエは舞台のあちこちから聞こえて来る、という仕組になるわけだ。
 プレイヤーの中には、配置の関係で、指揮者に背を向けた姿勢のまま演奏する、という奏者もいる。

 一方ブルックナーでは、ステージ最前列にチェロが1列に並び、2列目と3列目には、下手側に第2ヴァイオリン群、上手側に第1ヴァイオリン群が位置する。そしてその奥に他の楽器群が、各セクションが分解されて配置されるというわけである。全員が正面を向いて並ぶ。半円形になって指揮者を見る、という形ではない。

 こういう配置のオーケストラから響き出す音が、いつも聴き慣れたサウンドとは全く異なって来るのは、いうまでもない。
 今日は1曲目を2階最前列、2曲目を1階席後方で聴いたが、その範囲で単刀直入に言えば━━楽器の定位が明確でない録音を聴いた印象に似ている、ということだろうか。昔、フルトヴェングラーのモノーラル録音を電気的に疑似ステレオ化して話題を呼んだ、あの「ブライトクランク方式」の音を思い出させるのである。
 音の量感はたっぷりと保たれ、オーケストラ全体は混然としながらも一体となり、マッスの力感として響いて来る。内声部の動きは、ナマ演奏であるだけに、楽器によってはブライトクランクよりもずっと明確に聴きとれる。

 一方━━これはブライトクランクとは別個の話だが━━同種の楽器が各所に分散しているために、各パートごとの調和は生まれず、それらの対比も明確にはならない。つまり、スコアそのものが分解されてしまっているのである。ブルックナーの音楽に備わる壮大な量感は保たれているが、彼の音楽に特有な清澄な音色は失われ、時には混濁した巨大な音塊というイメージに陥ることさえある。

 断っておくが、私はこれらを、単に伝統的なオーケストラ・サウンドとは違うから不可ない、などという非難の意味で言っているのではない。その伝統的なオーケストラ配置を分解した手法は、一部の現代音楽では当然のように行われているものだが、その手法を古典派やロマン派の音楽にも適用したかのような前代未聞の試みに接して、今は未だ考え込むだけの段階にとどまっている、というのが正直なところなのである。

 これまでにも、楽器配置を大胆に変更し、新鮮な響きを生み出させることに成功した指揮者の例として、ストコフスキーがいる。だが「響き」は、音楽の重要な要素ではあるものの、あくまでも要素の一つに過ぎない。
 西脇さんがこの試みによって、作曲者の意図から、あるいは作品の性格から何を再創造しようとしているのかは、私には未だよく解らないのだ。だが、いずれにせよその発想の豊かさに、いたく感心させられたことは事実なのである。

2019・9・1(日)パーヴォ・ヤルヴィ&N響 「フィデリオ」

     Bunkamura オーチャードホール  2時

 パーヴォ・ヤルヴィがNHK交響楽団を指揮して、ベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」を演奏会形式で上演した。これは聴きものとして、早くから話題を呼んでいたプログラムである。

 協演は、新国立劇場合唱団(合唱指揮・冨平恭平)、アドリエンヌ・ピエチョンカ(レオノーレ)、ミヒャル・シャーデ(夫フロレスタン)、フランツ=ヨーゼフ・ゼーリッヒ(牢番ロッコ)、ヴォルフガング・コッホ(刑務所長ドン・ピツァロ)、モイツァ・エルトマン(マルツェリーネ)、大西宇宙(大臣ドン・フェルナンド)、鈴木准(ジャキーノ)といった豪華な顔ぶれ。
 セリフも部分的に取り入れられている。歌手たちはステージ前面に位置し、暗譜で歌い、ドラマの内容を聴衆に理解させるための必要最小限の演技を加えていた。

 顔ぶれもよかったが、聴いてみて、やはり第一に感じたのは━━先日のデュトワと大フィルによる「サロメ」と同様━━演奏会形式オペラの良さ、ということだ。
 舞台に気を取られることなく精神を音楽に集中できる━━とはよく言われることだが、私はそれ以上に、オペラにおけるオーケストラの音楽を存分に堪能できることに魅力を感じるのである。欧米の大歌劇場ならともかく、日本では、ピットの中に入ったオーケストラは貧弱な音になってしまうことが多いのだが(もちろん例外はある)、ステージに乗れば、とにかくフル編成で、オケのパートの緻密さや壮大さを充分に発揮できるからだ。

 今日の「フィデリオ」でも、P・ヤルヴィとN響の強力な、響きのいい演奏のおかげで、ベートーヴェンのオーケストラ・パートの素晴らしさを、余すところなく味わえたのである。たとえば、特に暗い曲想の個所が、ウェーバーやベルリオーズやワーグナーにどれほど大きな影響を与えたか━━つまりこの作品が紛れもなくドイツ・ロマン派オペラの先駆ともなっていることを、改めて強く認識させてくれたのだ。

 パーヴォは、基本的には速いテンポで押し、序曲をはじめいくつかの個所では、さすがのN響も追いつかないくらいの疾風怒濤の演奏をつくった。緊迫感も充分で、とりわけ第1幕後半、ドン・ピツァロが登場して以降の部分は見事なほど劇的な高まりを示していた。
 ただし、第2幕の「大臣到着」の場での、遠方からトランペットが2回響く間の四重唱の個所だけは、パーヴォは劇的な緊迫感よりも、音楽の叙情味の中に没頭してしまったようだった・・・・。

 また今回は「レオノーレ序曲第3番」が、第2幕の前に挿入されていたが、これはドラマの流れの上で、まあ、あってもなくてもいいように感じられた。ただし、演奏はすこぶる立派なものだったが。

 歌手陣。タイトル・ロールのピエチョンカは、後半は声に疲れが出たか、やや硬質な声になったようだが、第1幕のアリアは怒りと正義感とに燃えた圧倒的な歌唱だった━━ここではN響のホルン群が強靭な演奏で彼女の歌を盛り上げた。
 エルトマンの声も美しく、マルツェリーネ役にしては色気があり過ぎるような気配もあったけれども、三重唱などでは清涼な雰囲気を漂わせていた。

 男声陣の方も、ゼーリッヒとコッホは力と滋味にあふれた役者ぶりで、第1幕後半の二重唱を不穏な雰囲気で飾った。シャーデは、獄中のフロレスタンの弱々しさを表現しようとしたのか、変に癖のある歌い方でスタートしたが、やがていつもの伸びのある声を取り戻して行った。
 注目の若手・大西宇宙も安定した歌いぶりだったものの、この大臣役は出番が少ないこともあって、彼の真価を味わうには役不足だったか。鈴木准も同様、このジャキーノという役を歌う歌手は、いつも損な目に遭う。

 なお今回は、いわゆる演出はなかったが、外国人歌手たちはみんな、ドラマの内容をはっきりと解るような身振りを入れてくれた。
 これは、彼らがみんな自分たちで考えてやったのだということである。さすが、歴戦のオペラ歌手たちだ。ちょうど10年前(2009年9月3日)に飯守泰次郎が「ヴァルキューレ」第3幕を演奏会形式で指揮した時、ヴォータンを歌ったラルフ・ルーカスが独自の判断で演技を入れ始めたため、その他の歌手たちがそれに刺激されて、各々が自分で演技を考えて行った(飯守氏談)という例を思い出した。
 その点、今日はジャキーノだけが所在無げで蚊帳の外だったが、これはまあ、役柄の所為もあって仕方がないか。大臣も泰然と構える役なので、これも仕方がない。

 ステージ奥にずらり並んだ新国立劇場合唱団が、兵士や囚人、群衆役で力強い歌唱を聴かせてくれたことにも触れておきたい。

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