2019-07

2019・7・31〈水〉ワレリー・ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ

     札幌コンサートホールkitara 大ホール  7時

 7月4日の開幕以来、ほぼ連日、アカデミーの他に室内楽やオーケストラの演奏会が開催されて来た今年の札幌PMF━━その中で、PMFオーケストラもたくさんの演奏会を行なって来た。特にエッシェンバッハが指揮したマーラーの「千人の交響曲」(20、21日)は、絶賛されたと聞く。

 そして今日の最終公演が、たった1回だが芸術監督ゲルギエフの指揮で、という仕組である。プログラムは前出の通り、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、イベールの「フルート協奏曲」(ソロはマトヴェイ・デョーミン)、ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」。

 「牧神」は、GPの際には人々の動きがゴタゴタしていたので気がつかなかったが、この本番では特に開始直後、強い低弦の響きと、間を大きく取ったテンポの遅さが目立ち、音楽全体がシンフォニックな、重厚なイメージになっていたのが印象に残った。
 いっぽう協奏曲では、ゲルギエフとオーケストラはデョーミンとの合わせに神経を使っていたのかな、という感で、リハーサルでの伸び伸びとした演奏とは少々趣きが違った。

 それにしてもこのデョーミンという大柄な青年、実に美しい音を響かせる人である。アンコールではバッハの「パルティータBWV1013」からの「サラバンド」を吹いたが、これも流麗な音色で、ゆっくりしたテンポで創り出すカンタービレはなかなかの美しさだった。
 コンチェルトの方は、多分明日以降の東京・川崎公演でもっと良くなるだろうという気がする。なおこの第1部における2曲では、ゲルギエフも「爪楊枝よりはずっと長い指揮棒」を使ってオケを合わせていた。

 休憩後の「4番」では、コンサートマスターのデイヴィッド・チャン以下、各パートのトップに「PMFアメリカ」の先生たちがずらりと顔を揃え、この難曲をリードする。ゲルギエフもいつものように指揮棒を使わず、「合わせ」よりも、音楽に豊かな表情を持たせることを重視するように、細かい手の動きでオーケストラを導いていた。
 全合奏の音色は必ずしも美しいとは言えなかったが、ステージ狭しと並んだ大編成のオーケストラの量感と力感はさすがに凄まじい。

 ただ、ゲルギエフの指揮としては予想外に、昔のマリインスキー劇場管との演奏に比較して、やや抑制したような表現にとどまっていた、という印象を得たのだが・・・・。
 それに、終曲近く現われるティンパニの連打を交えたクライマックスの個所でも、あるいはそのあとの空虚感と絶望感が漂うエンディングの個所でも、以前のゲルギエフの指揮に比べ、身の毛のよだつような恐怖感と言ったものが、やや薄らいでいたという印象を受けたのである。やはり練習不足の所為か? 明日以降の演奏では、どんな感じになるだろうか。

 これで、札幌滞在を終る。オーケストラも明朝、東京へ移動する。明日のkitaraは、きっと「強者どもが夢のあと」という雰囲気になるのだろう━━。
 因みに来年は、ゲルギエフが「ドン・ジョヴァンニ」を指揮する。PMFとしては、オペラを舞台上演として手掛けるのは初めてになるようだ(演奏会形式上演は過去にもいくつかあった)。
      ☞(別稿)北海道新聞

2019・7・31(水)ゲルギエフとPMFオーケストラ GP

      札幌コンサートホールkitara 大ホール  正午~4時

 芸術監督ゲルギエフのリハーサルを聴く。
 バイロイトでの指揮との「掛け持ち」だから、良し悪しは別として、相変わらず超人的なエネルギーである。昨夜は、ショスタコーヴィチの「第4交響曲」を通して演奏したという話であった。
 今日は本番前のゲネプロというから、まあそこそこ「通し」でやるのかと思っていたら、いやどうして、この交響曲を、アクセントの一つ一つから、ダイナミックスから、エスプレッシーヴォに至るまで、3時間以上にわたり、猛烈に細かく練習して行ったのである。

 指揮者に絶対服従の素直で優秀なアカデミー生のオケのこと、たとえ練習時間が少なくとも、これだけ濃密なリハーサルを重ねれば、充分に仕上がることだろう。もちろんそれは、事前にクリスチャン・ナップの念入りな下振りがあったればこそ、である。
 ゲルギエフは、練習予定時間の最後の30分で、ドビュッシーとイベールを、詳細な指示を交えながらも、これらはほぼ「通し」でリハーサルして行った。

 私はといえば、PMFから依頼されたゲルギエフへのインタヴューが、今日か、それとも明後日の川崎での本番前か、という流動的な状態で待機していたわけだが、「予定の立てにくい予定」に振り回されることの珍しくないゲルギエフへの対応に経験を積んだPMFとジャパン・アーツは、私にリハーサルの間の20分の休憩時間の間に楽屋へ行き、インタヴューと言わずに挨拶と雑談をし、そのまま勢いでいろいろ質問をしちまえ、と、ふつうの指揮者だったら怒り出すような方法を提案して来る。

 有難いことに私も、ゲルギエフとは1992年のサンクトペテルブルクでの初取材以来、2008年のエディンバラに至るまで、雑誌等のために、十数回のインタヴュ―を重ねて来たお馴染みの間柄である。ゲルギエフもさすがに対応を心得ていて、当たり前のような顔をしながら「ドアを閉めて」とスタッフに指示し、そのまま機嫌よく予定の10~15分間を喋りまくってくれた。そして疲れも見せずに、またステージへ戻って行ったのだった。
 予定の立てにくいことをやる人に対しては、予定外の行動も通用するのだという一例か。

※どすと様 いつも歯に衣着せぬコメントをありがとうございます。しかし今回は、「否定的」と断定なさる前に、その指揮者のリハーサルの方法、いくつかの本番での演奏の違い、あるいは過去の演奏の例など、広範囲にわたって詳細に検証なさって見れば、また異なる印象も得られて、音楽の愉しみもいっそう増加すると思いますよ。今後ともよろしく。

2019・7・30(火)PMFオーケストラ・リハーサル

       札幌コンサートホールkitara 大ホール  3時

 クリスチャン・ナップが指揮する「公開」リハーサルを、一部だが聴く。
 ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」が、一般客の入っていないキタラ・ホールに、うっとりするほど美しい音で響いていた。もうこれで本番に持って行っても大丈夫とさえ思われるような演奏だ。

 イベールの「フルート協奏曲」では、今日はソリストのマトヴェイ・デョーミンも参加して、リハーサルが行われた。
 このナップという指揮者、聴いたのは今年のPMFが初めてで、それもリハーサルだけなのだが、なかなか手堅い人のようだ。

 このあとは、4時半頃には札幌に入る(だろう)と言われているワレリー・ゲルギエフが、夜7時から10時まで振るとのこと。私の方は北海道新聞との打ち合わせのために、先に失礼した。

2019・7・29(月)PMFアメリカ演奏会

      札幌コンサートホールkitara 小ホール 7時

 PMFの教授陣には、ウィーン・フィルとベルリン・フィルから来ている「PMFヨーロッパ」と、アメリカの各オーケストラから来ている「PMFアメリカ」のグループとがある。概して前者は音楽祭の前半のアカデミーを、後者は後半のアカデミーを担当するのが例年の慣わしだ。
 今日はそのアメリカの先生たちの演奏会。ピアノには、佐久間晃子がゲストのような形で加わった。

 プログラムは、スイスのジャン=フランソワ・ミシェル(1957~)の「イースト・ウィンド」、ユージン・グーセンス(1893~1962)の「パストラーレとアルルキナード」、サン=サーンスの「幻想曲イ長調」、ベートーヴェンの「七重奏曲」。なかなか洒落た選曲である。

 「イースト・ウィンド」は、東欧のロマ(ジプシー)の雰囲気を持つ音楽と解説にはあるが、聴いた感じでは何となくスペインの舞曲といった印象だ。
 トランペットのマーク・J・イノウエ(サンフランシスコ響)と、トロンボーンのデンソン・ポール・ポラード(メトロポリタン・オペラ管)が、真面目くさった顔で吹きまくり、エンディングで突然「ヘイ!」と叫んでおどけた顔と姿になるというギャップの面白さで、満席の聴衆を大爆笑させた。

 またサン=サーンスの曲では、メトロポリタン・オペラ管のハープ奏者の安楽真理子と、コンサートマスターのデイヴィッド・チャンとが、この上なく清楚に美しい演奏を聴かせてくれた。チャンの率いるMETのオケはこれまで何回聴いたか判らないほどだが、演奏会で彼のソロをじっくりと聴いたのはこれが初めてである。叙情的なカンタービレの見事さに感心する。

2019・7・29(月)PMFオーケストラ・リハーサル

     札幌コンサートホールkitara 大ホール 午前10時、午後2時

 昨日午後、札幌に入る。昨日も今日も焼けつくような日差し。東京に比べれば湿度はずっと低いが、それでも日中は、北海道とは思えぬほど蒸し暑い(31度だったそうだ)。
 今回はホテルが狸小路とすすきのとの間あたりの繁華街にあるので、更に暑い。やたら大声が飛び交う街中では、日本語よりも中国語の方が多く聞こえる。

 PMFオーケストラのリハーサルは、31日夜にゲルギエフが指揮するはずのプログラムで、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」とイベールの「フルート協奏曲」、ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」の3曲だ。
 ゲルギエフは未だ来ていないので、下振りはアメリカ人指揮者のクリスチャン・ナップが担当している。彼は2年連続のPMF参加だが、このところマリインスキー劇場にも繁く客演しているので、ゲルギエフの信頼も篤いのだろう。

 イベールの「フルート協奏曲」は、今年のチャイコフスキー国際コンクールで優勝したマトヴェイ・デョーミンが吹くことになっているが、彼も未だ着いていないのか、リハーサルはオーケストラのみ。

 一方、「牧神」と「タコ4」の方はというと、いくつかの個所を除き、もうほとんど出来上がっているかのような演奏になっていたのには驚嘆した。今年もアカデミー生の水準は、極めて高いようである。
 「4番」の終曲、最後のクライマックスが築かれたあと、ハープとチェレスタと弦が謎めいた静寂へ溶解して行くあたりは、まさに鬼気迫る音楽としか言いようがないところだが、ここも殊のほか見事な演奏になっていたのである。ナップには失礼な言い方にはなってしまうが、ゲルギエフがこれを仕上げれば、さぞや凄愴極まりない音楽になるだろう。

2019・7・27(土)沼尻竜典指揮トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア

      三鷹市芸術文化センター・風のホール  3時

 沼尻竜典が音楽監督を務めるトウキョウ・ミタカ・フィルハーモニアの第79回定期演奏会。
 1995年、このホールの開館とともに発足した時には「トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ」と名乗っていたが、2016年に現名称に改められた。ともあれ、私がこのオケをナマで聴くのは、実は今回が初めてなのである。

 メンバーは内外の優秀な奏者を集めるという形の、特別編成のオケだ。プログラムに掲載されている今日の出演メンバー表を見ると、コンサートマスターに中島麻、第2ヴァイオリン首席に山本はずき、ヴィオラに馬淵昌子や安藤裕子、チェロに丸山泰雄や金子鈴太郎、フルートに高木綾子・・・・といった具合に、錚々たる顔ぶれが並んでいる。

 今日は弦編成7-6-5-4-2でベートーヴェンの「英雄交響曲」を演奏していたが、客席数660前後のこのホールには、これはちょうどいい編成の規模に思えた。第2楽章の中ほど、あのホルンのモティーフを、(ホルン全員でなく)スコア通りに第3ホルンだけが1人で朗々と吹き、それが完璧に力強くオーケストラをリードしていたということはすなわち、この編成とホールとがバランスの良い関係にある、という証明にもなろう。

 プログラムはその他に、ロッシーニの「セビリャの理髪師」序曲と、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第17番」だった。このモーツァルトのコンチェルトは、沼尻自身がピアノ・ソロを受け持つ全曲ツィクルスの一環で、彼のトークによれば「いよいよ残り10曲、あと10年で完成する」とのこと。

 ピアノの腕前も定評がある沼尻だから、実に気持のいいモーツァルトのコンチェルトだったが、それを弾いたあとに「エロイカ」を指揮してあのように緊迫感豊かな音楽をつくるのは大変なエネルギーではなかろうか。
 その「英雄交響曲」の演奏は、殊更に小細工や誇張をすることなく、流行りのピリオド楽器奏法を使うこともない、極めてストレートな手法によるものだったが、風格も説得力も充分だ。
 2階席後方で聴いた所為か、全体として管楽器群がかなり強く聞こえたものの、奏者たちの腕がいいので、内声部も明晰に交錯し合って響いて来る。そのため、ベートーヴェンの管弦楽法の見事さがごく自然に浮かび上がって来て、それが作品の偉大さを伝えてくれる。

 久しぶりに「英雄交響曲」の魅力を満喫した感で、暑い中を遠路遥々(?)三鷹まで来た甲斐があったというもの。ちなみに、このホール、JR三鷹駅からバスで10分ほどかかるが、そのバスがかなり頻繁に来るので、思ったほどの不便さは感じられない。
 次回の定期は来年3月14日で、ゲスト・ソリストは横山幸雄である。
       ☞(別稿)モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

2019・7・25(木)バーンスタイン:「オン・ザ・タウン」東京公演初日

      東京文化会館大ホール  6時30分

 7月15日に兵庫県立芸術文化センターで観た「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2019」の東京公演。

 配役等は概ね同一で、東京初日とあって、活気に富んだステージと演奏が繰り広げられた。歌手陣とダンサーたちも上手いが、多国籍オーケストラたるPAC(兵庫芸術文化センター管弦楽団)が実に達者で、感服する。佐渡裕も、こういうレパートリーにかけては、盤石の構えだろう。彼の最良の面が示された上演である。

 先日、ある重要な関係スタッフから、第2次大戦末期に作られたこのミュージカルには、やはり「戦争」が影を落している━━という見解を聞かされた。
 たとえば第2幕冒頭のクラブの場面で、ダイアナ・ドリームが「暗い歌」を歌っているとヒルディがそれを遮り、明るい歌を自ら歌い始める時に、それを「制服の水夫さんたちの要求」だと言い、水夫たちもそれを証明すると、アナウンサーやドリームが「それなら仕方がない」と引っ込んでしまうくだり。
 あるいは幕切れ近く、水夫たちや人々が「いつかきっとまた会える」と歌い合うくだり。
 そういう個所などに、その「影」が感じられる、と謂う。
 私も、それには全く同感である。

 ただ、私が7月15日の項で「屈託ない、良き時代のアメリカ」と書いたのは、そういう紛れもない「戦争の影」をも、すべてこのような明るいミュージカルの中に巻き込んでしまうことを可能にしてしまう、当時のアメリカの凄まじい自信と楽観性のようなものに震撼させられたからにほかならない。
 太平洋戦争の直後、私が幼い頃に街のあちこちで見た進駐軍の米兵たちにも、未だそういう雰囲気が漲っていたように感じられたのだ。

 それを最終的に木端微塵にしたのは、おそらくは1960年代のベトナム戦争だったろう。以降、アメリカは今になってもその屈折した心理に引きずられる状態が続く。いま、トランプ政権の下で「アメリカ・ファースト」を絶叫する人々の声は、その屈折した心理が形を変えて現れた、一種の悲鳴のようにさえ思われる。
 ━━そうした日々のさなかに、突然私たちの前に現われたのが、この、屈託ない時代のミュージカルなのだった・・・・。28日まで上演される。

2019・7・24(水)大野和士指揮バルセロナ交響楽団

     Bunkamuraオーチャードホール  7時

 サントコフスキーの「2つの三味線とオーケストラのための協奏曲~カザルス讃&二重の影の歌」と、ベートーヴェンの「交響曲第9番」とを並べたプログラム。

 「吉田兄弟」(吉田良一郎・吉田健一)が三味線のソリを弾く前者については、既に7月24日の名古屋公演で聴いている。
 ただしカデンツァの部分と、それにアンコールで2人が弾いた三味線版「鳥の歌」は、名古屋で聴いた演奏とは若干異なるようだ。やはり即興的な要素も織り込まれているのだろうか。
 熱演ではあったが、しかし、こう言っては何だが、このコンチェルトは、2度も3度も繰り返して聴きたくなるような作品とは言い難い。

 プログラム後半は、ベートーヴェンの「第9」だった。この曲を今回の来日ツアーに含めた理由については、マエストロ大野もプレトークで述べていたし、7月24日の項にも書いた。協演は東京オペラシンガーズ、ジェニファー・ウィルソン、加納悦子、デヴィッド・ポメロイ、妻屋秀和。

 名古屋の「三角帽子」があまりに鮮やかだったので、「第9」でも━━このオケは多分こういう曲には慣れていないだろうとは思いつつも━━それなりの演奏が聴けるかとは思っていたのだが、どうやらこれは甘すぎたようである。
 第2楽章のトリオでのホルンのソロは終始リズムとずれっぱなし。これだけ何度繰り返しても合わぬというのはプロのオケでは珍しいケースだろう。
 さらに唖然とさせられたのは、第4楽章冒頭のファンファーレでティンパニが出遅れ、慌ててスティックを持って移動しながら途中から弱々しく(!)叩き始めたことであった。管も自信無げに、ばらばらに入り始める━━従って薄い、スカスカな音群になった━━という、何とも信じられぬような事故になってしまった。

 昔、1962年だったか、シャルル・ミュンシュが日本フィルを指揮した時に、このファンファーレで金管が落ちて大混乱になった事件があったが━━当時の批評では日本フィルの金管の不備がなじられたものだったが、真相はミュンシュが向けた鋭い緊張の視線に金縛りとなったティンパニ奏者が無我夢中で飛び出してしまったのが原因、と、私は後でその奏者本人から聞いた━━今回の一件も、それに匹敵する大事故だろう。
 今回の事故の原因がティンパニ奏者にあったのか、それとも指揮者にあったのかは断定し難いが、いずれにせよ、指揮者は演奏を止めたり、やり直させたりすることなく、そのまま最後まで続けて行ったのである。

 その他、使用楽譜の版が、第1楽章と第4楽章で食い違いを聞かせていたり、東京オペラシンガーズやポメロイ、ウィルソンらが怒鳴り過ぎていたりと、随分とまあ、粗っぽい印象を与える演奏だったことは確かであった。

 だが━━たった一つ、これはいいなと思わされたのは、大野とこのバルセロナ響が響かせる音楽の表情に、第1楽章冒頭からして曰く言い難い、不思議なあたたかさが感じられていたことであった。
 たとえ技術的には完璧でも、冷たく取り澄ました表情の演奏や、音楽に感動の表情の全く無い演奏の「第9」も少なくない今日、このようにあちこちガタピシしていたといえ、人間的な雰囲気を感じさせた演奏の「第9」も悪くないものだな、と思わされた。今日の救いは、ここにあっただろう。

2019・7・21(日)大野和士指揮 プッチーニ:「トゥーランドット」

     新国立劇場オペラパレス  2時

 「オペラ夏の祭典2019-20」の「トゥーランドット」、新国立劇場では4回公演で、不思議にも4回のうち3回がAキャストだ。
 そのAキャストは7月14日に観たので、今回は3日目のBキャストを選ぶ。出演はジェニファー・ウィルソン(トゥーランドット)、デヴィッド・ポメロイ(カラフ)、砂川涼子〈リュー〉、妻屋秀和(ティムール)、持木弘(皇帝アルトゥム)、森口賢二(ピン)、秋谷直之(パン)、糸賀修平(ポン)、成田眞(役人)他。

 新国立劇場の1階席中央やや後方はオーケストラの響きがやや弱く聞こえる、というのは以前から承知していたが、今日のバルセロナ響も、東京文化会館で聴いた時よりは、少々控えめに聞こえた。━━しかし、その所為だけではなく、何となく今日の演奏は、オーケストラや合唱やソリストを含め、「落ち着いていた」のではなかったか? 幕開きで役人が歌う場面から、不思議に緊迫度の低さを感じてしまったのである。先日の東京文化会館での演奏が、少し荒っぽいけれども熱気が吹き上げるような勢いに満ちていたのとは、些か違った。

 それがこの劇場の雰囲気の所為なのか、あるいはBキャストがこの劇場で歌うのが初めてだったからなのかは、判別し難い。ただ、ジェニファー・ウィルソンの声が柔らかくて、オーケストラを突き抜けて来る威力に不足していたこと━━特に最終場面ではそれがもどかしかった━━と、ポメロイの歌い方がずり上げるような、一種の旧式なアクの強さを感じさせたことは確かだろう。
 際立っていたのはリュー役の砂川涼子で、これはAキャストの中村恵理に比して一歩も譲らぬ歌唱を示していた。

2019・7・20(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

     サントリーホール  6時

 J・シュトラウスⅡの「芸術家の生涯」、リゲティ(1923~2006)の「レクイエム」、トマス・タリス(1505頃~1585)の「スぺム・イン・アリウム」、R・シュトラウスの「死と変容(浄化)」。リゲティとタリスの作品では東響コーラス(合唱指揮・冨平恭平)が、リゲティの作品のみサラ・ヴェゲナー(S)とターニャ・アリアーネ・バウムガルトナーが加わった。コンサートマスターはグレブ・ニキティン。

 音楽監督ノットと東京響は、これまでにもリゲティの作品を数多く取り上げて来ている。定期演奏会でこのように大胆なプログラムを堂々と組んでみせるのは何とも意欲的で、立派だ。

 冒頭の「芸術家の生涯」での演奏が、いかにもそのリゲティの作品への導入という雰囲気━━ウィンナ・ワルツらしからぬ、物々しく暗く、「交響管弦楽のためのワルツ」といった感で、明るい曲からこのような陰翳を引き出して見せる興味深い例だった━━に満たされていただけに、続くリゲティの「レクイエム」がいっそう魔性的な物凄さを帯びて響く。たとえこの曲に、1960年代にハンガリーから恐怖の亡命を行なった彼の体験が反映されているにしても、その音楽自体が持つ衝撃的な強烈さは、聴き手を暗い恐怖感へ引き込むに充分であろう。
 P席に並んだ東響コーラスが実に素晴らしい演奏を聴かせた━━よくあれだけの「音が取れた」ものだと感服する。

 休憩後のタリスの作品でも、東響コーラスは全く曲想の変わった無伴奏の合唱曲「40声のモテット」を、壮大な拡がりを感じさせる豊かな美しさを以って演奏した。今日の主演賞と表彰状は、この東響コーラスに差し上げたいという気がする。

 無伴奏で歌われていたこのタリスの作品の間じゅう、オーケストラはすでにステージに並んでいたので、そのまま間をおかずに「死と変容」の神秘的なピアニッシモに入るだろうと予想していた(誰もがそうだったろう)が、何と指揮者は答礼し、引っ込み、オーケストラもチューニングをするという型通りの儀式になってしまい、拍子抜け。

 その「死と変容」は、演奏の力は充分。アンサンブルの音色は必ずしも美しくはなかったとはいえ、重量感はたっぷりのものがあった。ティンパニと管が強力に響いて、弦は厚みを感じさせながらもやや霞む傾向なきにしもあらず。リゲティのあとでは、R・シュトラウスのこの交響詩は、紛れもない後期ロマン派の特徴を際立たせる。

2019・7・18(木)チョン・ミョンフン指揮東京フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 名誉音楽監督チョン・ミョンフンの指揮で、シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはクリステル・リー)と、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」。コンサートマスターは三浦章宏。

 在京オーケストラが定期公演で「新世界」を取り上げるケースは、近年では比較的珍しいだろう。だが、さすがはチョン・ミョンフン、並みの「新世界」とは違う演奏を東京フィルから引き出した。
 といって、特に奇を衒ったような演奏ではない。それよりも、スコアの隅々まで神経を行き届かせ、内声部の全てを明確に響かせて、ドヴォルジャークがいかに緻密な管弦楽法で美しい郷愁を描き出しているかを私たちに再認識させてくれるのである。ルーティンな演奏で片づけられた場合には埋もれてしまうような「内側」のフシに、こんな素敵なものがあったのか、と作品を見直させるような演奏に出逢うのは愉しい。

 コール・アングレが綿々と吹くラルゴの主題も、殊の外情感に満ちていたし、終楽章のクライマックスも壮絶な力感に溢れていた。最強奏の際の音色は、必ずしも美しいとは言えなかったが、まあいいだろう。
 全曲が終ったあと、私の後ろの席に座っていた男性客が「凄いな、これ」と呟く声が聞こえたのも印象的だった。

 それに先立つシベリウスでのコンチェルトでは、チョン・ミョンフンは、冒頭からほとんど聞こえないほどの最弱音と遅いテンポで、ミステリアスに開始。全曲にわたりデュナミークとテンポの起伏も大きく、スケールの大きな構築だったが、ソリストのリーもこれに呼応して、かなり濃厚な表情のカンタービレを利かせて行った。

 この女性、カナダ系米国人とプログラム冊子にあるが、もともとは韓国系だそうである。2015年シベリウス国際コンクールで北米出身者としては初の優勝者の由。チョン・キョンファにも師事したそうで、演奏を聴くと、なるほどと思わされるところもないではない。 
 アンコールで弾いたバッハの「無伴奏パルティータ第3番」の「ガヴォット」も、かなり濃い叙情性を優先させていた。今どきバリバリ弾くタイプではなさそうなので、ちょっと面白そうなヴァイオリニストではある。

2019・7・17(水)大野和士指揮バルセロナ交響楽団

      愛知県芸術劇場コンサートホール  6時45分

 「トゥーランドット」公演のプログラム冊子には、「このオーケストラの訪日は24年ぶり」とある。
 確かにそう。1995年の5月に、エドモン・コロマ―という指揮者とともに来日していた。ただしその3年前の5月にも、バルセロナ・オリンピック公式認定オーケストラとして、音楽監督ガルシア・ナヴァロとともに来日したことがある。そしてこの2回ともに、「バルセロナ市立管弦楽団」という邦訳名称が使われていた。

 資料によれば、この楽団は、1920年代にパブロ・カザルスが創設したオーケストラを前身とし、1944年にエドゥアルド・トルドラの提唱により市民管弦楽団として再結成され、1967年にアントーニ・ロス・マルバを音楽監督として市立管弦楽団となった、ということだ。なお、大野和士の2代前の音楽監督が、大植英次である。
 メンバー表によれば、大野和士の現在の肩書は音楽監督。芸術監督にはRobert Brufauという人がいる。

 今回、オペラ出演の合間を縫って行われているシンフォニー・コンサートのプログラムのキーワードは、察するところ、「カタルーニャ」「バルセロナ」「カザルス」「鳥の歌=ピース(平和)」「スペイン」というあたりにありそうだ。
 何故また「第9」をやるのか?という疑問も、カザルスがフランコ政権を嫌い、スペインを去る時に、このオーケストラと最後に演奏したのが「第9」だった、という大野自身の解説を聞けば、納得が行く。そして今日のプログラムにも、そのキーワードに関連したものが見られる、というわけである。

 最初のワーグナーの「ローエングリン」第1幕前奏曲が、カタルーニャに関わりのある「モンサルヴァート伝説」に因んだものだということは、特にワーグナー・ファンにはすぐに解るだろう(これは大野自身も会場でのトークで話していたが)。
 2曲目には、2015年の「武満徹作曲賞」で2位となったバルセロナ出身のファビア・サントコフスキーの「2つの三味線とオーケストラのための協奏曲~カザルス讃&二重の影の歌」という新作が演奏された。しかも、その津軽三味線を演奏した吉田兄弟(良一郎、健一)は、アンコールとして、三味線による「鳥の歌」を演奏したのである。
 そして後半は、ファリャの「三角帽子」全曲と、アンコールとしてビゼーの「カルメン」前奏曲を演奏するという具合。かように、いかにも大野和士らしい、コンセプトの明確なプログラミングであった。

 大野は、1曲目のあとにマイクを持って立ち、オケの由来からカザルスから、モンサルヴァートから、さらに協奏曲とその作曲者について詳しく解説。丁寧ではあったがえらく長くて、後ろにオケが黙って控えているだけに、正直、ヤキモキさせられたのだが。
 しかし、なんせこの日はプログラム冊子がなく、配布されたのは曲目とメンバーを印刷したペラ1枚の紙のみ、いう愛想の無さだったので、彼の話は大いに参考になっただろう。

 その話題の「三味線コンチェルト」は、2つの三味線とオーケストラの双方に特殊奏法を多く取り入れた「現代音楽」である。演奏時間はおよそ20分。聴いた印象から想像すると、モティーフはおそらく、「森」「風」「鳥」といったものだろう。神秘的なイメージも織り込まれている。カデンツァ部分でのみ、津軽三味線らしいソリが高鳴る。
 あとでyou tubeで見たのだが、「森の中に吹く風、不気味な嵐、響く鳥の声━━その中を人(三味線)が逍遙して行く」という誰かの解説に出逢った。「逍遙」というには、この三味線の響きはすこぶる強烈である。PAが使われていたようだが、不要ではないか? その「けたたましさ」は、ミステリアスなイメージを吹き飛ばしてしまう。

 後半の「三角帽子」は、絶品だった。大野の気魄ある制御も壮烈を極めて素晴らしいが、自国の作品への共感を漲らせて熱演したバルセロナ響も圧巻だった。弦の音色の、豊麗で温かい、ソフトな美しさも印象的である。これは、今夜最大の聴きものであった。なおメゾ・ソプラノのソロ(マリーナ・ロドリゲス・クシ)は、オケの背後、2階席の一角に時々現れて歌うという具合になっていた。
 8時45分頃終演。

 スケジュールの関係で、このプログラムは東京では聴けないので名古屋まで聴きに行った次第だが、「三角帽子」に関してはその甲斐が充分にあったというものである。
 9時32分の「のぞみ」に飛び乗り帰京。

2019・7・16(火)ポリャンスキー指揮ロシア国立交響楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 「ロシア国立交響楽団」といっても、かつてスヴェトラーノフが指揮していた「ロシア国立(State)交響楽団」とは違うオーケストラなのだから,紛らわしい。4年前の7月に来日した際にもこの邦訳名称が使用されていたが━━。

 これは、かつてロジェストヴェンスキーが指揮していた「ソビエト国立文化省交響楽団」を旧称とし、その後ワレリー・ポリャンスキーを芸術監督として「ロシア国立シンフォニック・カペレ」と改称したオーケストラの方なのだ。いくら商策上とはいえ、そしてカッコ付でシンフォニック・カペレと表記してあるとはいえ、愛好家たちを混乱させるのはいけないだろう。
 ロシアのオーケストラは,ただでさえ名称がややこしくて混同されるケースが多いのだから、邦訳にも配慮して欲しいものである。

 そこで、今回のこのワレリー・ポリャンスキーを芸術監督兼首席指揮者とする「シンフォニック・カペレ」。今日から28日まで計10回の日本公演。
 プログラムの主力はチャイコフスキーで、今日も「スラヴ行進曲」「ピアノ協奏曲第1番」「交響曲第5番」という曲目で編成されていた。ピアノのソロはキエフ出身のアンナ・フェドロヴァ。

 2年前にチャイコフスキーの「後期3交響曲」を一夜に演奏した時に比べ、今日の1曲目の「スラヴ行進曲」の演奏が恐ろしく荒っぽかったので、このオーケストラ、どうしたのかと思った。ツアー初日の、しかも1曲目の「小品」とあって、会場のアコースティックもテストせずに、ぶっつけ本番ででもやったのかなと思ったのだが━━。
 だが幸いに、次のコンチェルトでは、弦も管も落ち着きを取り戻し、フェドロヴァのソロともバランスの取れた演奏が聴けた。

 そして休憩後の「第5交響曲」では、ロシアのオーケストラならではの豪壮なチャイコフスキーが繰り広げられたのである。
 このホールは席の位置によってオーケストラのバランスも音色も異なって聞こえるという特徴が際立つのだが、1階席後方の上手寄り側で聴いたこの「第5交響曲」では、ロシアのオケ特有の濃密で重厚な弦の拡がりの「彼方から」金管群の咆哮が聞こえて来る、という印象になった。だがおそらく、2階席あるいは上階席のどこかで聴けば、金管群はもっと強烈な、つんざくような音色で突進して来たかもしれない。

 いずれにせよ、1階席で聴いた範囲では、ポリャンスキーが指揮した時のこの「シンフォニック・カペレ」には、ペレストロイカ以降、やや薄らぎ気味になっている昔ながらのロシアのオーケストラのイメージ━━豪快でパワフルで、大地から湧き上がるような野性的な力を備えたオーケストラという特徴が、まだ充分に残っているように感じられたのであった。
 どの国のオーケストラも「お国柄」を失い、インターナショナルな傾向を強くしている今日、このロシアの良きカラーは、大事にしてもらいたいという気がするのである。
 荒っぽくて雑なところもあるけれども、いざ本気になると凄いリキの入った演奏をする━━という印象は、2年前に感じたそれと、全く同じであった。

 アンコールでは、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」からの「葦笛の踊り」と、「眠りの森の美女」からの「ワルツ」をすこぶる豪壮に演奏した。
 そのあとポリャンスキーが腕時計を指差し、「これでおしまい、もう寝る時間です」というジェスチュアを示し、これでお開きかと思わせておいて、いきなりショスタコーヴィチの「ボルト」の、あの愉快な「荷馬車曳きの踊り」を、物凄い大音響で賑やかに開始。
 しかも指揮者は、オーケストラに演奏をさせたまま悠然と引き上げてしまうというユーモア。曲が曲だし、客は大笑いで、手拍子で乗りまくった。もう一度全員のカーテンコールがあって、指揮者が退場すると、今度はコンサートマスターが譜面をつかんで、楽員たちに「もういい、みんな早く帰ろうぜ」という身振り。爆笑と拍手のうちに演奏会は幕。

2019・7・15(月)バーンスタイン:「オン・ザ・タウン」

      兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール  2時

 日帰りで西宮へ行き、「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2019」として上演されているバーンスタインの「オン・ザ・タウン」を観る。

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提供:兵庫県立芸術文化センター  撮影:飯島 隆

 これは面白い。「良き時代のアメリカ」の、屈託ないミュージカルだ。
 舞台初演は1944年だが、1949年にジーン・ケリーやフランク・シナトラ主演でミュージカル映画化され、日本では「踊る大紐育」の邦題で公開された。その映画の方は、原典版に比べ、音楽のナンバーも順序も大幅に変更されていたし、またミュージカル映画としてもさほど出来がいい部類とは思えなかったのだが、今回オリジナルの形による上演に接してみると、改めてその良さが解る。バーンスタインの若き日のミュージカル音楽の活力と、アメリカ・ミュージカルの全盛期の熱気といったものが、この作品からも湧き上がって来るのだ。

 これは「佐渡裕プロデュース」のバーンスタイン作品としては、9年前の「キャンディード」(→2010年7月31日の項)に次ぐプロダクションだが、それに勝るとも劣らぬ力作であり、成功作といえよう。
 まずその佐渡裕の指揮と、兵庫芸術文化センター管弦楽団の張り切った演奏がいい。かなり賑やかだが、華やかで痛快無類だ。

 出演者は、ロンドンでのオーディションにより編成された歌手陣で、主演の「3人の水兵」がチャールズ・ライス、アレックス・オッターバーン、ダン・シェルヴィ。「ミス改札口」を含む「3人の恋人」がケイティ・ディーコン、ジェシカ・ウォーカー、イーファ・ミスケリー。
 その他、ピトキン判事役のスティーヴン・リチャードソンの貫禄ある声と押し出し、ヒラリー・サマーズ(マダム・ディリー)とフランソワ・テストリー(ダイアナ・ドリーム他)の怪演ぶりなど、脇役に至るまで粒が揃っているのが素晴らしい。
 多数の外国勢のアンサンブル・ダンサーも華麗だ。合唱には十数人のひょうごプロデュースオペラ合唱団も参加していた。

 演出(舞台装置、衣装とも)はアントニー・マクドナルド。目まぐるしい場面転換を巧みに処理し、スピーディなセリフと音楽と演技とで押して行く(これらの組み合わせの流れの完璧さは流石だ)。演技も微細で、脇役に至るまでリアルな芝居を見せており、これが舞台全体を引き締めるのに貢献している。
 第1幕の中盤過ぎからドラマは活気を帯び始め、第2幕では冒頭から華やかなミュージカルの色彩が炸裂する。全曲最後の構図など、気が利いているだろう。それはほんの1,2秒間の光景ではあったが、客席から拍手と一緒にワッという歓声まで上がったほどであった。

 なお、今回の字幕は大橋マリが担当しているが、これが非常に要を得て巧い。猛烈なスピードで飛び交う英語のセリフにもかかわらず、客席からは特に後半、笑いが絶えなかったのは、ひとえにこの解り易い、台詞の本来のニュアンスを生かした訳語による字幕のおかげだろう。例えば女性たちがピトキン判事の冷酷さに呆れ、激怒して浴びせる罵声「a-ha!」に、「あ、そういうわけ!」という捨てゼリフ的な訳を充てたあたりなど、秀逸であった。
 この人の字幕といえば、かなり前になるが、オペラ・コンチェルタンテでの「イドメネオ」や「ナブッコ」に付けた訳文が傑作だったのを記憶している。

 25分の休憩1回を含み、終演は4時40分頃。兵庫では7月12~15日、17日、19~21日の計8回上演で、チケット価格は12,000円から3,000円の間にあるが、最高ランク以外はすべて完売だというから、相変わらずこの劇場の集客力は大したものだ。なお東京でも、東京文化会館で7月25~28日に計4回上演される。もう一度観てみたい。

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提供:兵庫県立芸術文化センター  撮影:飯島 隆

2019・7・14(日)プッチーニ:「トゥーランドット」

      東京文化会館大ホール  2時

 東京文化会館(東京都歴史文化財団)と新国立劇場の共同制作によるオペラ夏の祭典2019-20」の一環、大野和士指揮&アレックス・オリエ演出によるプッチーニの「トゥーランドット」。
 東京では、東京文化会館(7月12、13、14日)と新国立劇場(同18、20、21、22日)で上演され、以下提携公演としてびわ湖ホール(7月27,28日)と札幌文化劇場(8月3、4日)でも上演されるという大規模なスケジュール。

 配役はダブルキャストで、今日はイレーネ・テオリン(トゥーランドット)、テオドール・イリンカイ(カラフ)、中村恵理(リュー)、リッカルド・ザネッラート(ティムール)、持木弘(アルトゥム皇帝)、桝貴志(ピン)、与儀巧(パン)、村上敏明(ポン)、豊嶋祐壱(役人)。合唱は新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブルの合同(合唱指揮・三澤洋史)、TOKYO FM少年合唱団。大野和士(指揮)、カタルーニャ州立&バルセロナ交響楽団(この楽団名に関してはスペイン国内の複雑な政治的問題が絡むが)。

 舞台美術はアルフォンス・フローレスによるもの。威圧的な灰色の巨大な壁が三方を囲んでそそり立ち、左右の壁には階段を配したメカニックな舞台装置だ(注1)。トゥーランドットや老皇帝が住む宮殿は、上方からの巨大な吊装置を使って表現される。

 そしてこの舞台装置は、完璧な反響板の役割をも果たしており、ソリストの声と合唱とを強い音圧で客席へ響き出させるのに役立っていた。
 ちなみに、合唱の人数は必ずしも多い方ではないが、舞台装置の構造上の援護のためもあって、すこぶる強靱なパワーを発揮し、オーケストラの咆哮に呼応して、些かも引けを取らない。ソロ歌手陣━━特に主役の3人が強力で好調だったのも有難く、豪壮な「トゥーランドット」の演奏をつくり上げていた。

 ただし舞台上の景観は、豪華絢爛なものとは程遠く、むしろ暗い。ドラマが威圧的な灰色の壁に囲まれた、閉鎖され、抑圧された空間に繰り広げられるのに加え、リュック・カステーイスの衣装とメイクが、民衆を極度に貧しく、おそろしく薄汚い顔と身なりで描いているので、いっそう息詰まるような舞台になる。

 ラ・フラ・デルス・バウスのメンバーのひとり、アレックス・オリエのこの演出は、基本的には比較的ストレートな手法なので、所謂「謎解き」に気を遣うようなことはない。
 ただし━━プッチーニの未完の部分は一般的なフランコ・アルファーノの補訂完成版が使用されてはいるものの━━エンディングの演出については、ト書きとは異なる解釈が織り込まれている。今日以降もまだ上演は多いし、見せ場がネタバレになっては申し訳ないので、ここに詳細を書くのは差し控えたい━━といっても、もう知られているだろうが。

 いずれにせよオリエは、それがハッピーエンドにならないことを事前に示唆していた。それは、このオペラのストーリーの流れの上でも、またプッチーニのオペラの流儀の上からも、当然の成り行きだろう。今回採られた手法とは別に、もう一種類の手法もあり得たはずだが、それはまあどちらでもそれなりに辻褄が合い、納得の行く幕切れになっただろうと思う。

 字幕は、日本語版(増田恵子、読み易い)と英語版が表示されていた。客席は文字通り超満員。日本のプロダクションによるオペラ上演でこれだけ満席になったのは、戦後の一時期は別として、稀有のことと言っていいのかもしれない(注2)。

(注1)この舞台装置は、組立てに何と40時間を要した由。新国立劇場上演用と併せて2組が製作されたそうである。
(注2)昭和30年頃だったか、マンフレッド・グルリットが指揮、大谷冽子が題名役を歌った「蝶々夫人」で、日比谷公会堂の1階と2階の客席が左右の通路まで立ち見客で埋まっていたのを見たことがある。私も立ち見の1人だったが。

2019・7・13(土)鈴木優人指揮神奈川フィル ハイドン:「天地創造」

     よこはまみなとみらいホール  2時

 昨日の広上&日本フィルの「ロンドン交響曲」に続き、今日もハイドンの名作を愉しむ。 
 鈴木優人が神奈川フィルハーモニー管弦楽団の定期に客演して指揮したオラトリオ「天地創造」。協演は澤江依里(S)、櫻田亮(T)、ドミニク・ヴェルナー(Br)、バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱)。チェンバロは鈴木優人自身。コンサートマスターは崎谷直人。

 鈴木優人は、こういうレパートリーを指揮すると流石に良さを発揮する。しなやかでストレートな、かつ端整なアプローチだ。標題音楽的要素を殊更に誇張することもないし、演奏の起伏も大きいというほどでもなく、それに第1部では、やや慎重に過ぎたかと思えるような、山場の無い演奏だった。だが、第2部(「第5日」)以降では、ここぞという個所でいくつかの頂点をつくり、世界創造の物語にメリハリを持たせて行った。
 欲を言えば、全曲にわたってもう少しドラマティックな要素を浮き彫りにしてもいいのではないかと思ったが━━。

 神奈川フィルの演奏も清澄な響きを備えていた。これまでに聴いたこのオーケストラの演奏の中でも、今日のそれは指折りの美しさを感じさせるものだったろう。弦の音色の爽やかさが、この演奏の成功を導いたと言ってもいいかもしれない。

 だが、鈴木優人の「ここぞという個所で」に最もよく応え、演奏にひときわ力を添えたのは、やはり彼と呼吸の合っているバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の合唱団ではなかったろうか。特に第2部最後の合唱と、第3部の大詰の合唱での力感の昂揚は目覚ましかった。
 特に第3部の大詰の頂点━━合唱が「Ewigkeit」(永遠)の「E」を4小節にわたって延ばす個所で猛然とクレッシェンド、目覚ましい劇的効果を上げたのも印象に残る。そこでのオーケストラを加えた「魔法」のようなものを、録音でもあればもう一度聴いてみたいところである。

 この合唱団が、BCJ本体のオーケストラでなく、他のプロ・オケと協演したのは、国内では今回が初めてだそうだ。第1部の演奏が何となく慎重で平板な出来のように感じられたのはその所為もあったのだろうか? いずれにせよ、その「他流試合」は、なかなか面白かった。

 3人のソリストも好演で、櫻田亮の安定した天使ウリエル役は言うまでもないが、澤江依里(ガブリエル、エファ)が清楚な歌唱で、大詰でのテンポの速い「Amen」の軽快な跳躍を鮮やかに、輝かしく決めていたのも印象に残る。ドミニク・ヴェルナー(ラファエル、アダム)の落ち着いた気品のあるバスも、全曲を引き締めていた。

2019・7・12(金)広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 絶好調の広上淳一が客演して指揮したプログラムは、ジョン・ラター(1945~)の「弦楽のための組曲」、J・S・バッハの「ピアノ協奏曲BWV.1054」、ジェラルド・フィンジ(1901~56)の「エクローグ~ピアノと弦楽のための」、ハイドンの「交響曲第104番《ロンドン》」、ジョージ・バターワース(1885~1916)の「2つのイギリス田園詩曲」。
 ピアノのソロは小山実稚恵、コンサートマスターは扇谷泰朋。

 日本のオーケストラの定期演奏会のプロとしては何ともユニークなもので、企画担当スタッフの意気込みが伝わって来るだろう。しかも、こういうプロでもそこそこお客が入っているのだから、最近の日本フィルの自信のようなものがうかがえるというものだ。

 それに、聴いてみると実に面白い。ラターの組曲(4曲)は、いずれもどこかで聞いたような英国民謡などを素材としたもので愉しいし、そのあとでバッハのピアノ協奏曲が小山実稚恵のソロを中心に響き始めると、これが何とも清澄で新鮮さに満ちて聞えるのである。続くフィンジの作品も、この上なく叙情的で美しく、小山実稚恵がここでも温かい演奏を聴かせてくれた。
 この3曲のオーケストラはすべて弦楽のみだったが、日本フィルの弦が最近好調なので、素晴らしく聴き応えがあった。

 そのあと、休憩を挟んでやっと管楽器群とティンパニが加わり、ハイドンの「ロンドン交響曲」を爆発させるというプログラムの対比的面白さ。
 この「ロンドン」は、弦14型という比較的大きな編成で、豊麗壮大な構築の演奏となった。テンポをゆっくり目に採ったメヌエット楽章は少し重かったが、第4楽章では俄然強大な力感を漲らせ、祝典的な豪壮さで結んで行った。

 そのあとになおバターワースの作品が演奏されたわけだが、私の個人的な印象で言えば、聴いた音楽の質量感からして、「ロンドン」で終っても充分だったような気もする・・・・もちろん、バターワースのこの佳曲を聴けたことは嬉しかったけれども。

 今日は、中国の子供たちが数十人、団体で聴きに来ていた。音楽を勉強している子供たちだと聞いたが、ほぼ中学生から小学生くらいの年齢。しかもプログラムは渋いし、やや心配な向きもあったが、最後までみんな静かに聴いて帰って行った━━ただし、最後のバターワースに入った頃には、やや集中度が低下したような雰囲気を感じさせたが。
 中国の子供たちにとって、東京の最高のホールで、良いオーケストラの立派な演奏を聴いたことが、忘れられない思い出になるといいのだけれど。

2019・7・11(木)ヘンリク・ナナシ指揮読売日本交響楽団

     サントリーホール  7時

 ハンガリーの指揮者ヘンリク・ナナシが日本初登場、読響を振ってコダーイの「ガランタ舞曲」、サン=サーンスの「ピアノ協奏曲第5番《エジプト風》」、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」を演奏した。

 このナナシという名の指揮者、6年前に、当時彼が音楽総監督を務めていたベルリン・コーミッシェ・オーパーで、チャイコフスキーの「マゼッパ」を指揮していたのを聴いたことがある(→2013年3月30日の項)。その時38歳とのことだった。
 実に切れ味のいい颯爽とした音楽をつくるので、大いに気に入ったものだ。ドイツ在住の知人は、歌劇場事務局が「ヘンリーク・ナーナーシ」と発音されたい、と言っていた、と教えてくれたが、今回、読響は「ヘンリク・ナナシ」と表記している。

 あの時と同じように、今日の指揮も、素晴らしく勢いがいい。オーケストラを存分に鳴らし、速めのテンポを採り、さらに激しく動かす。「ガランタ舞曲」の後半などでは、ナナシはアンサンブルが合おうが合うまいが遮二無二突進するので、流石の読響も、とにかくついて行く、といった感じになることもあった。
 だが、それにもかかわらず演奏には、特に前半、ハンガリーの民族音楽の━━日本人にも不思議な懐かしさを感じさせるあの独特の節回しの持つ情感が、豊かに溢れていたのである。

 「管弦楽のための協奏曲」でも同様、引き締まった切れ味のよさが目立つ。急速なテンポが突然溶解して幅広い音型に変わるあたりのナナシの呼吸も巧妙で、読響(コンサートマスターは長原幸太)もまた見事に対応し、演奏をしなやかなものに感じさせていた。

 かように颯爽と小気味よくたたみ込んで行く指揮で聴くと、この曲は甚だスペクタクルな様相をも見せる。第4楽章の、例のショスタコーヴィチの「7番」の「戦争の主題」をパロディ化した部分でも、オーケストラがグロテスクに爆笑するさまが、いつも以上に巧く表現されているように思えたのだった。
 ただ、全曲にわたりあまり勢いよく演奏されると、いろいろな楽器のソロと管弦楽とが協奏する微細な妙味が、些か薄らいでしまうという感もなくはないが。

 この2曲の間に演奏されたサン=サーンスのピアノ協奏曲「エジプト風」では、フランスの若手(1990年生れ)リュカ・ドゥバルグが、洗練された澄んだ音色でソロを弾き、ナナシと読響もそれに呼応して行った。エンディングでオーケストラが力感豊かに決めたのは、巧い演出である。

 なおドゥバルグのソロ・アンコールは、今彼が力を入れているというスカルラッティの作品でも弾いてくれるのかと思ったら、フランスのレパートリーに合わせてサティの「《グノシエンヌ》第1番」だった。先入観で言うわけではないけれども、フランス人がサティを弾くと、得も言われぬ洒落た味が出る。

2019・7・10(水)インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール 7時

 エリアフ・インバルとベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の来日公演の、今日が7回目の演奏会。モーツァルトの「ピアノ協奏曲第21番K.467」(ソロはアリス・紗良・オット)と、マーラーの「交響曲第5番」。
 今日のコンサートマスターは日下紗矢子、凛としたリーダーぶりが素晴らしい。

 マーラーについては、2017年3月13日2017年3月21日、および一昨日(2019年7月8日)の項であらかた言い尽したと思う。
 とにかく、インバルは若々しい。演奏のエネルギーに、いささかも衰えを感じさせない。第2楽章での嵐のような推進力といい、第3楽章での緊迫性といい、第5楽章での「持って行き方」の巧さといい、まさしくそれらは「インバル」そのものだった。
 彼が読響定期でこの曲を指揮して日本デビュー(あの演奏は私がFM東京の「TDKオリジナルコンサート」で放送した)して以来、彼の「5番」は何度聴いたか覚えていないほどだが、その都度「うまいものだな」と感服する個所が数え切れないほどあったことだけは記憶している。
 今日は久しぶりで、上階席からいっせいに沸き起こったブラヴォーの声のハーモニーをも愉しむことができた。

 ところで、モーツァルトのコンチェルトを弾いたのはアリス・紗良・オット。病を得たというニュースに接して以来、気になっていたのだが、今日は元気に演奏したり、ステージを走って出る姿が見られたりしたのには一安心。だが、━━歯に衣着せずに言えば、その演奏に、以前に比べ、密度の薄さ、表情の薄さを感じさせていたのが、たまらなく心配になる。

2019・7・9(火)ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

      東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 芸術監督マルク・ミンコフスキとの東京公演。
 ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストはクリストフ・コンツ)と、ブラームスの「セレナード第1番」という、2曲の「ニ長調」を引っ提げての登場。コンサートマスターはおなじみアビゲイル・ヤング。

 協奏曲は2階席で聴いたのだが、オーケストラ(OEK)の演奏はまさに完璧な構築といった感で、瑞々しい旋律美を保ちながらも古典的な端整さをくっきりと際立たせた快演となっていた。

 更に見事だったのは、クリストフ・コンツのソロだ。まだ30歳を出たばかりだが、ウィーン・フィルの第2ヴァイオリン首席と、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルの首席客演指揮者とを兼任している才人。以前の「レッド・ヴァイオリン」という映画(私も観ているが)に天才少年として出演していたのが彼だったという話は、今回初めて知ったのだが・・・・。
 とにかく、実に気持のいいほど音程のしっかりした、清澄で気品のある音色のヴァイオリンを聴かせる青年である。その伸びやかで切れ味のいい演奏は、ミンコフスキの指揮するオーケストラと、若々しく清潔な対話を快く織り成していた。これは、まさに聴きものだった!

 後半のブラームスの「セレナード第1番」は、わが国では不思議にナマで演奏される機会の少ない曲だが、私の好きな曲である。これは業務上、試みに1階席後方に移って聴いてみたのだが、こちらで体験したミンコフスキとOEKの演奏は、かなり自由な、解放的なアンサンブルで、エネルギッシュな躍動感の強いものに感じられた。つまり、「質実剛健で謹厳なブラームス」ではなく、屈託なく寛ぎ、笑うブラームスだったのである。

 これはしかし、聴いた席の位置の違いゆえではあるまい。プログラムの前半と後半とで異なる世界を際立たせるという、ミンコフスキの音楽上の解釈もあったと思うし、またブラームスの若書きの音楽が、指揮者の音楽上の立ち位置の違いから、一般のイメージとは正反対の性格を以って描き出されることもある、という一例だろう。これだから演奏会は面白い。
     ☞(別稿) モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

2019・7・8(月)インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

      すみだトリフォニーホール  7時

 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団とエリアフ・インバルとの、2017年3月に続く来日公演。

 ところが今回、プログラムにそれぞれ組まれたマーラーの2つの交響曲は、2年前と全く同じ「1番」と「5番」だった。まあ、前回聞き逃した人も居られるだろうし、人気の定番曲には違いないけれども、だからと言って、2曲とも同じで、それ以外には無い、というのは、何とも能のない話だ。誰が決めたのかは知らないが(二、三訊いてみたが要領を得ない)、もう少しレパートリーにも新味を出してもらいたいものである。

 それは別として、今日は前半にワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」からの「前奏曲と愛の死」、および「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、後半にマーラーの「交響曲第1番《巨人》」というプログラム。

 この「トリスタン」も、前回のこのトリフォニーホールでの公演でやった曲だったのだから、恐れ入る。2017年3月13日の日記を繰ってみると、オーケストラの音の印象、聴いた席から受けるアコースティック効果など、今日の印象と全く同じことが書いてあったので、われながら苦笑した。
 ただ、今日の2曲目の「マイスタージンガー」になると、オケの音色やバランスは変わり、弦の響きもそれほど耳を衝く刺激的なものではなくなり、ワーグナーの精緻な管弦楽法が比較的はっきりと味わえるようになっていたので、このあたりはやはりインバルの巧妙な設計による描き分けだったのだな、と、些かではあるが考えを改めるに至った次第である。

 そして休憩後の「巨人」は、2017年3月21日に東京芸術劇場で聴いた印象と、ほぼ同じであった━━ただ2年前のその演奏よりも多少緊迫度が薄れ、オーケストラの密度にもやや緩みがあったように感じられたのは、インバルの年齢ゆえか、それとも偶発的なケースだったのか?

 インバルの指揮するマーラーは、東京都響との演奏からは非常に峻厳で揺るぎない特徴を感じさせるけれども、欧州のオーケストラとの演奏からは、もう少し自由な雰囲気を感じさせる。これは、東京都響がインバルに対し、いわば直立不動の姿勢で応える━━ということかもしれない。
 これはしかし、東京響がジョナサン・ノットやユベール・スダーンに対し、あるいは日本フィルがアレクサンドル・ラザレフに対して示す演奏姿勢とも共通するものだ。良い指揮者に対しては従順であるという、日本のオーケストラの性格の顕れとも言えよう。

2019・7・7(日)広上淳一指揮京都市交響楽団 大阪特別公演

     ザ・シンフォニーホール  2時

 つい先ごろ東京公演をやったばかりのコンビだが、絶好調のオケだし、大阪での演奏会だし、曲目も面白いので、聴きに行く。

 ベートーヴェンの「英雄交響曲」を最初に演奏し、休憩を挟んでヴェルディの「運命の力」序曲と「仮面舞踏会」前奏曲、最後にレスピーギの「ローマの松」という豪壮なプログラムだ。アンコールは同じくレスピーギの「《リュートのための古い舞曲とアリア》第3組曲」から「イタリアーナ」。コンサートマスターは泉原隆志。

 この中で素晴らしかったのは、何といっても「英雄交響曲」の演奏である。それはもう、「不動如山━━動かざること山の如し」という言葉を連想させたほどの演奏だった。
 だがこれは、硬直しているとか、推進性がないとかいう意味では全くない。むしろ揺るぎない不動の風格を備えた構築の演奏、とでも言ったらいいか。自然体のイン・テンポで、あざとい小細工も誇張もなく、ひたすら滔々と押して行くその演奏は、このシンフォニーがもともと備えている強靭な力感と美しさを、歪めることなく十全に発揮させたのである。強い説得性を持った、見事な演奏だった。

 ベートーヴェンの管弦楽法が如何に隙なく構築されているか、そしてそれが如何に多彩で表現力に富み、完璧なものであるか━━それを率直に、しかも明晰な形で再現してくれる演奏に出逢うことは滅多にない。が、今日の広上淳一と京都市響の演奏は、その稀有な例であったと言っても言い過ぎではない。
 しかもこのホールは、アコースティックの上でも、その演奏にはぴったり合っていた。実に快い体験であった。

 「ローマの松」では、金管群のバンダは正面のオルガンの下に配置された。その周辺に座っていたお客さんたちにはどうか判らないが、大半の聴衆にとっては、音響的にもバランス良く響いたであろう。「ジャニコロの松」での叙情性は素敵だったし、「アッピア街道の松」でローマ軍が霧の中から次第に姿を現して来るあたりの設計も、ミステリアスで見事だった。ただいずれにしても、この曲には、このホールはやはり小さすぎるようである。
 
 広上に率いられた京響は、やはり好調である。ただし、好調度が安定したのと引き換えに、ステージ上の楽員たちの顔は、以前に比べて無表情になって来た。
 特に今日は、カーテンコールの際に、誰とは言わないが前の方のプルトに、猛烈に不機嫌な顔をして、指揮者のことが気に入らぬと言わんばかりに、早く引き上げたいような表情をしている男性奏者が見えた。こういう小さいホールだから、甚だ目立つのである。演奏だけちゃんとやっていれば文句はあるまい、というものでもないであろう。

2019・7・6(土)三ツ橋敬子指揮いずみシンフォニエッタ大阪

     いずみホール  4時

 いずみホール(大阪城公園駅近く)を本拠とする「いずみシンフォニエッタ大阪」(音楽監督・西村朗、常任指揮者・飯森範親)は、2000年から活動しているオーケストラだ。メンバー構成は、東京の「紀尾井ホール室内管弦楽団」(旧・紀尾井シンフォニエッタ)とほぼ共通した形態を採り、関西に本拠を置く奏者たちを中心に、東京からも若干の参加者を集めている。

 私は2009年にこのオーケストラのメンバーが演奏するシェーンベルクの「浄夜」や、ブリテンの「カーリュウ・リヴァー」などを聴いたことがある。また定期公演も、2006年3月のもの(ストラヴィンスキーの「兵士の物語」他)を聴いている。しかし、このオケのフル編成による1ステージを聴くのは、どうやら今回が初めてのようだ。

 で、今日は、第42回の定期演奏会。
 三ツ橋敬子の客演指揮で、トゥリーナの「闘牛士の祈り」、ストラヴィンスキーの「プルチネルラ」組曲、薮田翔一の「ハープ協奏曲《祈りの樹》」、ラヴェルの「クープランの墓」(マイケル・ラウンド管弦楽編曲版)という、非常に興味深いプログラムである。
 ハープのソロは篠崎和子。コンサートマスターは最初の2曲がそれぞれ釋伸司と小栗まち絵、後半2曲が高木和弘。

 優秀な演奏家たちの集団だけあって、演奏は上手いし、立派だ。ただし最初のトゥリーナでは、綺麗な音色だが何となく演奏に素っ気なさが感じられ、楽員もつまらなそうな顔つきで弾いているように見える上に、カーテンコールでの答礼の際にも指揮者との呼吸が合わず、かつ不愛想な表情を客席に向けているので、このオケはもしやこういう体質なのか、指揮者との相性も悪いのか、などと思いめぐらしてしまった・・・・。だが、「プルチネルラ」に入ると、演奏も開始後間もなく生き生きとした明晰なものになって行ったので、ほっとした次第。

 休憩後には、音楽監督・西村朗が作曲者・薮田翔一へのツッコミ・インタヴュ―で客席の笑いを誘い出し、彼の叙情的なハープ協奏曲を篠崎和子とオーケストラが極めて美しく演奏して、コンサートは盛り上がる。なお、この曲は「関西若手作曲家委嘱プロジェクト第7弾」である由。
 そして最後は、ラウンドによるかなり分厚い、濃厚でダイナミックな編曲による「クープランの墓」(全6曲)。三ツ橋敬子とオーケストラの演奏も、ここでは多彩さを聴かせていた。

 プログラム全体を通じ、どちらかというと、ダイナミックでリズミカルな部分での方が演奏のノリも良かったな、という印象を得たのだが━━。
 あとで事情通の人たちから聞いた話によると、「このオーケストラはふだんパワフルな、ドシャンガシャンいう物凄い音の現代音楽のレパートリーを売り物にしているので、今日のような旋律的な要素の多い曲の演奏では、いつもとはかなり雰囲気が違っていた・・・・」だそうな。なるほど。そういうことでしたか。

 次回の定期(来年2月8日)は、飯森範親の指揮で、川島素晴編曲のマーラーの「大地の歌」と、中村滋延の「善と悪の果てしない闘い 第1章」とのこと。いかにも物凄そうだ。聴きに行ってみようか。

2019・7・4(木)MMCJ(ミュージック・マスターズ・コース・ジャパン)

     横浜みなとみらいホール 小ホール  7時

 大友直人とアラン・ギルバートが創設した国際教育音楽祭「MMCJ」(ミュージック・マスターズ・コース・ジャパン)、今年は第19回になる。

 最初は千葉県の上総で開始された(私も車を飛ばして聴きに行ったことがある)が、現在は横浜のみなとみらいホールを中心に開催。今年は6月26日~7月14日の日程で行われている。
 講師陣には大友直人、アラン・ギルバートの他、おなじみジェニファー・ギルバート(リヨン国立管コンマス)、ハーヴィ・デ・スーザ(vn、アカデミー室内管首席)、マーク・デスモン(vaフランス放送フィル首席)、ニコラ・アルトマン(vcリヨン国立管ソロ・チェロ)、鈴木学(va 都響ソロ首席)、ヴィセンテ・アルベローラ(cl マーラー室内管首席)ら12人が顔を揃え、受講者はオーディションで選ばれた21名(約半数が日本以外の国籍)という具合だ。
 
 ほとんどman to manにも等しい講習システムの故もあって、内容水準は非常に高いという評判だし、修了者を各オーケストラなどにも数多く送り出しているという実績も充分なのだが、PRをあまり派手にやっていない所為か、今でも知る人ぞ知る━━という存在にとどまっているのが、甚だ残念な所以である。そういうPR活動には、潤沢な宣伝制作費と強力な事務局の存在が不可欠なのだが━━。

 旅費、滞在費、食費などを主催者が負担、受講料なしで運営するこの教育音楽祭のために、大友直人がそれこそ涙ぐましい努力で資金を集めながら━━自分の髪が真っ白になったのはその苦労の所為だ、と私にも、会場でのトークでも語っていたけれども━━とにもかくにも、これだけの教育音楽祭を継続しているというその意欲と努力には、敬意を表せずにはいられない。
 今年はこの今日の室内楽の「ガラ・コンサート」のあと、8日に「室内楽コンサート」(みなとみらい小ホール)、13日(紀尾井ホール)と14日(みなとみらい大ホール)で、大友とアランの指揮する「オーケストラ・コンサート」が行われることになっている。

 そこで今日は、講師陣を中心とした演奏会。
 モーツァルトの「弦楽五重奏曲ト短調K.516」、エルヴィン・シュルホフ(1894~1942)の「木管三重奏のためのディヴェルティメント」、メンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」、というプログラムにも魅力を感じたこともあって、聴きに行ってみた。
 演奏には、前記の講師たちの他に「Supporting Artists」として久保田巧、佐份利恭子、吉村結実(N響、アカデミー修了生)、吉田將が加わっていた。演奏は、いろいろな意味で━━腕利きの奏者たちが臨時のアンサンブルを組み、経験と巧味のみで盛り上げて行く、といった雰囲気のものだったが、シュルホフの木管三重奏などは新鮮に響いていた。
 弦楽合奏の2曲の方にはもっと緊迫性が欲しかったところだが、今日は一種のお祭りガラだったし、細かいことを言うのは野暮というものだろう。

2019・7・3(水)日本製鉄音楽賞 受賞記念コンサート

   紀尾井ホール  6時30分

※先週、冷房にやられて声の出なくなった咽喉を土曜日に吸入や薬を総動員してリカバリーし、30日(日)の日本ワーグナー協会での2時間半の講演(「神々の黄昏」関連講座)は何とか乗り切ったものの、1日(月)にはまた声が出なくなってしまった。それを2日(火)に懸命に治療して抑え、今日午後からの「渡邉暁雄音楽基金賞」発表記者会見(ANAインターコンチネンタルホテル)における本名徹次氏の特別賞授賞理由に関する選考委員としてのスピーチを、かすれ声のまま、辛うじて乗り切り━━となったわけだが、皆さん、多分お聞き苦しかったのでは? 申し訳ございません。
 年齢を重ねると、身体のほんのちょっとした兆候が、とんでもないおおごとに繋がってしまう傾向があるらしい。冷房による乾燥は怖い。皆さんもお気をつけください。

 さて、その「渡邉暁雄音楽基金賞」記者会見のあとに訪れた、こちら「日本製鉄音楽賞」(前・新日鉄住金音楽賞)は、私自身は関係していないものだし、単に演奏会を聴くだけだから、声が出ようが出まいが問題ない。

 今年の「フレッシュ・アーティスト賞」は、あの葵トリオ。私もすでに2回聴いた。
 今日はショスタコーヴィチの「ピアノ三重奏曲第1番」と、ベートーヴェンの「大公トリオ」、アンコールにハイドンの「三重奏曲第27番」の第3楽章(これは毎度の出しものだ)を披露したが、常に変わらず胸のすくような、天馬空を行くような躍動感を生み出す演奏が魅力的だ。「大公」のフィナーレでの、あるいはハイドンでの、ジェットコースターのようにスピーディに、流れるように回転し、聴き手を爽快な感覚に巻き込んでしまう見事な演奏。ただ、ヴァイオリンが、時に奔放になり過ぎるのは気になるけれども━━。

 「特別賞」には、舞台写真家の林喜代種が選ばれていた。こちらはインタヴュ―によるお話。

2019・7・1(月)クリスティアン・アルミンク指揮リエージュ王立フィル

      サントリーホール  7時

 ベルギーのリエージュに本拠を置くリエージュ王立フィルハーモニー管弦楽団は、1960年の創立。アルミンクは2011年9月からその音楽監督のポストに在る。

 今回の来日公演はたった3回(京都1、東京2)で、今日はその最終公演だ。
 ルクーの「弦楽のためのアダージョ Op.3」と、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第20番」(ソロは小林愛実)、ブラームスの「交響曲第1番」というプログラムで、アンコールにはブラームスの「ハンガリー舞曲第6番」が演奏された。

 弦楽器の音色の美しいオーケストラだ。さすがアルミンクの率いるオーケストラだけあって、音には清楚で瀟洒なカラーが満ちあふれる。
 最初のギョーム・ルクー(1870~1894)の「アダージョ」には、彼がベルギー出身の作曲家であるということだけでなく、その弦の美しさを余すところなく披露するという点からも、一種の名刺代わりという意味もあったのではなかろうか。

 一方、ブラームスの「1番」は、ゆったりしたテンポで控えめに、叙情性に重点を置いた清涼な演奏で、綺麗にまとまり過ぎているという印象もなくはないが、終楽章のクライマックスに至り、猛然と力感を増し、音量とその質感を最大レベルにして全曲を終結するという手法は面白い。

 モーツァルトのピアノ協奏曲では、かなりリズムの明確な、ごつごつした音のつくりだったが、それが全曲の締め括りの数小節で、やはり突然、仁王のような力強さと巨大さで聳え立って行く。これは最近のアルミンクの得意業なのか。
 このメリハリの強さの前では、小林愛実のソロはいかにも生真面目過ぎるほどに感じられた。ただし彼女の演奏の良さは、ソロ・アンコールで弾いたショパンの「マズルカ イ短調Op.17-4」での、ドビュッシーにも似た透明な叙情美で発揮されていた。

 ブラームスのあとでは、オーケストラにもアルミンクにも、盛んな拍手が贈られた。かつて音楽監督として新日本フィルを立て直し、オペラや現代音楽など広いレパートリーを導入してファンの人気を集めていたアルミンク、任期の最後は東日本大震災に絡むゴタゴタの中でオケを去るという事件があったにせよ、一時期には新日本フィルから優れた演奏水準と充実した活動を引き出していた彼の実績はやはり大きなものがあった。それを覚えている人も少なくなかったであろう。

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