2019-05

2019・5・10(金)上岡敏之指揮新日本フィルのワーグナー

      サントリーホール  7時

 ヴェルディの大作オペラに浸ったあとには、ワーグナーの「抜粋もの」。
 新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏と、音楽監督・上岡敏之の指揮。

 プログラムは、「タンホイザー」の「序曲とバッカナール」、「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」、「神々の黄昏」からの「夜明けとジークフリートのラインへの旅」と「ジークフリートの死と葬送行進曲」、「パルジファル」から「第1幕前奏曲」および第3幕の終結部分。コンサートマスターは(上岡の指揮の時としては珍しく)豊嶋泰嗣。
 R・シュトラウスと同様、ワーグナーも、上岡の十八番のレパートリーである。今夜の演奏でも、全ての曲で、上岡らしく凝りに凝った、微細で緻密な音の構築が続く。新日本フィルが今や彼と一体になり、それを具現するようになっているのは流石というべきであろう。

 「タンホイザー」序曲の最初の「巡礼の合唱の主題」の個所からして、管楽器群がテヌート(音符の長さをいっぱいに保って)で歌う。各フレーズがレガート(繋がる)で演奏されることになり、そこからも粘った演奏というイメージが生まれるのだろう。聴き手の好みも分かれるかもしれない。

 「トリスタン」前奏曲最後のコントラバスを、ほとんど聞こえぬような弱音で演奏させるのも上岡の以前からのやり方だが、これは特にコントラバス群の背後、上手側の、しかも遠い位置の席にいると、頭の中で音を補って行くしかない。
 しかし、演奏において、たとえ最弱音と雖も、聴衆に「明確に」聞こえないような音がどんな意味を持つというのか、私には疑問に思えてならない。その意味では私は、故・朝比奈隆氏の「指揮者がいくらピアニッシモだと言ったって、お客さんにピアニッシモとしてはっきり聞こえる音でなけりゃ、ピアニッシモの意味が生きませんからな」という言葉に賛成なのである。

 「ラインへの旅」の最後は、フンパーディンクによる演奏会用終結版が使用されていた。この曲の途中の部分の長いカットは、私は嫌いな手法だが、これをやる指揮者は結構多いのでまあ仕方がないとしても━━「バッカナール」の後半における大幅なカットはぎょっとするほど繋がり方が不自然で、さすがの上岡ファンの私でさえ、いつものような拍手を贈る気が失せてしまったのだが・・・・。
 「葬送行進曲」で、「死の動機」が初めて最強奏で轟く個所への8分音符3つのクレッシェンドを行わず、これも極度の最弱奏のまま続けてしまうというのも、上岡ならではの解釈だろう。
 こうした解釈は、私も以前だったら面白くて興味深い、と書いたところだろうが、正直なところ、最近では少々煩わしく感じられるようになってしまった。

 このように全ての音符に神経を行き届かせ、念入りに構築するという上岡のその感性と手腕には敬意を払う。が、そのわりに感動が少なく、むしろ作為的なつくりが感じられてしまい、しかも疲労感が残るというのは、どういうわけか。
 「トリスタン」では、官能的な情感があまり感じられず、「葬送行進曲」でも、この曲に備わる身の毛のよだつような魔性的なもの、あるいは悲愴美が伝わって来ないのである。それゆえ、比較的ストレートに演奏された最後の「パルジファル」からの音楽が、ワーグナーの音楽が持つ本来の深みと魔力を感じさせてくれたのだった。

 ━━だが、個人的な好みは別として、マエストロ上岡敏之には、今後も彼の流儀を徹底的に押し進め、わが国で唯一のユニークな個性を備えるオーケストラを完成させてもらいたいという願いには、変わりはない。

2019・5・10(金)ロイヤル・オペラ シネマ「運命の力」試写会

      日本シネアーツ社試写室  1時

 「ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)シネマシーズン2018/19」の一つ、今年4月2日上演のヴェルディの「運命の力」。上映時間は休憩2回を含め4時間18分と長いが、素晴らしく見応えがある。

 指揮はアントニオ・パッパーノ、演出はクリストフ・ロイ。
 歌手陣はヨナス・カウフマン(ドン・アルヴァーロ)、アンナ・ネトレプコ(レオノーラ)、ルドヴィク・テジエ(ドン・カルロ)、フェルッチョ・フルラネット(グアルディーノ神父)、アレッサンドロ・コルベッリ(メリトーネ修道士)、ヴェロニカ・シミオーニ(プレツィオジッラ)他。

 改めて言うまでもないが、この配役はすこぶる豪華である。
 カウフマンは、ソット・ヴォーチェの個所での不安定さなど、必ずしも本調子で無かったかもしれないが、いざとなると舞台と音楽を自己に惹きつけてしまうのは流石だ。悲劇的な宿命を満身に負った感のあるこのドン・アルヴァーロ役を、知性的なニュアンスを失わずに表現できるという点でも、やはり彼は卓越した存在であろうと思う。

 そして、狂的なほど異常な執念深さを持ったドン・カルロを、ルドヴィク・テジエが見事に歌い演じる。彼はもともと少し愛嬌のある顔立ちだから、それが怨念に燃えた表情をすると、余計に凄味が出る。
 このオペラでは愛の二重唱がひとつもない代わりに、アルヴァーロとカルロのテノールとバリトンの対決が多く、これらはいずれも圧巻のシーンである。

 ネトレプコはいつもに変わらぬ素晴らしさで、ドラマの最初から最後まで切羽詰まった状態に追い込まれている悲劇的なレオノーラを見事に歌い演じていた。彼女の人気は圧倒的だが、ただ、観客の中には彼女に対してだけ異常な熱狂を示すシンパ(女?)がいるようで、この雰囲気は少々恐ろしい。
 その他、フルラネットの滋味にあふれた神父ぶりが、ドラマをうまく支えている。また、プレツィオジッラ役のシミオーニというメゾ・ソプラノは、華やかに歌って踊れるミュージカル的な器用さがあるようで━━。

 なお、最初にピストルの暴発により命を落としてしまうカストラーヴァ侯爵を演じていたのが懐かしの名バス、ロバート・ロイドだったことを、あとからサイトの配役表を見て知って、もっとよく観ておけばよかったと後悔した。確か今79歳のはずである。まだ元気で歌っていたのか、と嬉しくなった。
 「ラタプラン」の場などで、表情豊かな演技や長いダンスをこなすロイヤル・オペラ合唱団の上手さも圧巻だ。

 そうしたものすべてを統率制御する指揮者パッパーノの手腕には舌を巻いた。ヴェルディの音楽のニュアンスの細かさ、ドラマ全体を貫く「運命」の恐るべき力や、登場人物の性格などの描写における巧みさ、旋律と和声の美しさなどを、これほど鮮やかに表出できる指揮者は、古今決して多くはないだろう。このオペラがこれほど精緻微細に演奏されたのを聴いたのは初めてと言っていい。
 一方、クリストフ・ロイの原演出は、ところどころ腑に落ちぬ手法も見られるけれども、教会の腐敗ぶりを浮き彫りにしたりするなどかなりニュアンスの細かい解釈に富んでいる。例えば修道院にやって来た時のレオノーラの身に起こる出来事などのような、過激な手法も僅かながら観られる。

 使用された版はもちろん改訂現行版で、最後はアルヴァーロが、既に白髪を頂いたレオノーラの遺体を抱いて慟哭する場面で終る。ちなみに、アルヴァーロも投身自殺してしまう超悲劇的な「原典版」は、それが初演されたマリインスキー劇場で以前ゲルギエフが指揮したのを観たことがあるが(日本公演でもやったような記憶がある)、あれは現行版以上に気が滅入るオペラだ。

 かようにロイヤル・オペラの本領をたっぷりと堪能させてもらい、満足したので、PR記事みたいになるけれども━━これは5月24日~30日に東宝東和系TOHOシネマズ(日比谷、日本橋、横浜、流山、名古屋、大阪、西宮)で上映される。
※━━と、チラシに載っている通りに引用したのですが、東宝東和のサイトをあとから確認したら、どうもかなり変更になっているらしく、しかも1週間前になってもほとんどが詳細未発表。ごめんなさい。あそこはさっぱりわからない。

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