2019-05

2019・5・17(金)ラザレフ指揮日本フィルのマスカーニ

      サントリーホール  7時

 ラザレフは、現在は日本フィルの桂冠指揮者兼芸術顧問。
 首席指揮者時代には、ファンから待望されながらついに一度もオペラの全曲を指揮しなかったラザレフだが、演奏会形式上演ながらやっと取り上げてくれた作品が、ロシア・オペラではなく、何とイタリアのヴェリズモもの━━マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」であるとは意外だった。

 メトネルの「ピアノ協奏曲第2番」を提案したのは、日本フィル側だそうだが、それを聞いたラザレフが、「では後半に《カヴァレリア》をやろう。この二つはぴったり合う」と言い出してオケ側を面食らわせたのだとか。
 こういう作品同士を組み合わせるのはどこから見ても珍しく、何が「ぴったり」なのかは解らないが、とにかく2曲ともいい曲であり、演奏も見事だったので、それぞれの作品なりに楽しむことができた次第である。

 第1部で演奏されたのが、メトネルの「ピアノ協奏曲第2番」。曲が不思議に翳りのある美しさを持っているし、ラフマニノフを柔らかくしたような雰囲気を感じさせるし、ソリストのエフゲニー・スドビン(Sudbin)の音も澄んでいて綺麗だし、ラザレフと日本フィルの演奏もいつもながらの━━というわけで、40分近い長い曲ながら、快さに浸らせてくれた。
 スドビンというピアニストの演奏をナマで聴いたのは、私は実はこれが初めてなのだが、瑞々しい感覚の演奏で、好ましい。

 一方の「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、ラザレフらしくダイナミックな力感に富みながらも、何か少々土臭い、南国シチリアを舞台にしたドラマにしては太陽の光の雰囲気の無い音楽という印象で━━いや、これは決して悪いと言っているのではない━━かつてボリショイ劇場で威勢を振るったラザレフの、猛烈なエネルギーに満ちたオペラ指揮を、久しぶりに堪能した思いである。

 声楽陣は、ニコライ・イェロヒン(トゥリッドゥ)、清水華澄(サントゥッツァ)、上江隼人(アルフィオ)、富岡明子(ローラ)、石井藍(ルチア)、日本フィルハーモニー協会合唱団という顔ぶれ。

 主役の青年トゥリッドゥを歌ったイェロヒンはロシアのテナーで、今回はラザレフに招かれて来たのだそうである。やや暗い音色の壮烈な声を持った、素晴らしく馬力のある人だ。
 サントゥッツァ役の清水華澄は、ちょっと物々しいヴィブラートが時に目立つけれども、2人の男とのそれぞれの二重唱で聴かせた可憐な表現は見事だった。ジークリンデ、マルチェリーナ、アムネリス、イェジババ、先頃の怪演「うつろ姫」、それにこの悩めるシチリアの女性役など━━清水華澄の幅広い表現力には舌を巻く。絶好調の歌手とは彼女のことだろう。
 その他の声楽陣も、みんないい。

 なお、全曲幕切れでの、「トゥリッドゥが殺された!」という舞台裏からの悲鳴は、オペラ歌手には怖くて出せぬような荒々しい不気味な声の絶叫で響いて来たが、これは配役表にも載っていない「謎の外人女性」によるもの。ラザレフが「この声は日本人ではだめ。シチリア訛りのある女性が必要だ」といきなり言い出したので、とにかく日本国内在住のイタリア人女性を見つけて、特別出演してもらったのだという話である。カーテンコールには出て来て、ラザレフから丁重な感謝を受けていた。

 コンサートマスターは田野倉雅秋(9月から日本フィルのコンマスに就任予定)。

2019・5・15(水)ロナルド・ブラウティハム・リサイタル

      トッパンホール 7時

 オランダの名フォルテピアノ奏者ロナルド・ブラウティハムが、トッパンホールに2年ぶり、3度目の登場。
 今回はハイドンとベートーヴェンを組み合わせ、前半にハイドンの「ソナタ第49番変ホ長調」とベートーヴェンの「第3番ハ長調」、後半にハイドンの「第52番変ホ長調」とベートーヴェンの「第21番ハ長調《ワルトシュタイン》」を演奏してくれた。

 このプログラム、実に巧みな構成だ。演奏者の発案か、それとも企画の巧さで定評のあるトッパンホールのプロデューサーのアイディアかは知らないけれども、先頃CDで話題になった「ブラウティハムのワルトシュタイン」を入れたこともその一つ。

 だがそれ以上に秀逸なのは、これらの作品の調性の上での関連性に加え、それぞれの作品の曲想に顕れているこの2人の大作曲家の性格を巧みに対照づけ、あるいは共通点を浮き彫りにしていた点であろう。
 ハイドンは、思いのほかベートーヴェンの近くにいた。そしてベートーヴェンも、そこからさらに師を超えて、広大無辺の世界に飛翔していった━━。

 それらが、ブラウティハムの明晰かつ強靭な集中力で有機的に組み上げられたフォルテピアノの演奏により、鮮やかに描き出される。まさに至福のコンサートであり、ハイドンとベートーヴェンの壮大さと美しさとを、心行くまで味わわせてくれたリサイタルだった。
 アンコールは、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」からの第2楽章。

2019・5・14(火)ヴァイグレの読響常任指揮者就任披露定期

     サントリーホール  7時

 1961年ベルリン生まれのセバスティアン・ヴァイグレがこの4月、読響の常任指揮者に就任。
 ハンス=ヴェルナー・ヘンツェの「7つのボレロ」(1998年)と、ブルックナーの「第9交響曲」というプログラムでスタートを切った。

 1曲目を現代作曲家の作品でぶちかましてみせるあたり、保守的な名曲路線には安住せぬぞ、と言わんばかりの意欲的な姿勢が窺われて好ましい。ただしそうはいっても━━この5月に彼が読響との演奏会で指揮する3種のプログラムの中には、現代曲はやはりこれ1曲しかなく、専ら18世紀末~19世紀の独墺の名曲ばかり、という状況ではあるのだが・・・・。

 そのヘンツェの「7つのボレロ」は、演奏時間20分強、大編成の管弦楽のための色彩的な組曲風の作品で、どの曲においてもリズミカルな躍動感が目立って面白い。中には、あのラヴェルの「ボレロ」のリズムが低く忍び寄って来るという個所もあり、微苦笑を呼ぶ。

 一方、ブルックナーの「9番」は、読響の持てる威力を十二分に発揮させた、豪壮雄大な演奏となった。最強奏で咆哮する時の音色には、あまり美しいとは言い難いところもあるが、第1楽章第2主題での弦のアンサンブルの瑞々しさや、第3楽章終結での4本のホルンの伸びやかな清々しさなど、ハッとさせられるような美しい個所も少なくなかった。全体にブルックナーの音楽に備わる筋肉質的な力感という面を浮き出させた演奏、とも言えようか。

 聴衆の反応もまずは上々。コンサートマスターは長原幸太。

2019・5・13(月)METライブビューイング 「ヴァルキューレ」

     東劇  5時

 3月30日のメトロポリタン・オペラ上演のライヴ映像。ロベール・ルパージュの演出、カール・フィリオンの舞台美術による、2011年にプレミエされたあのユニークな舞台装置によるプロダクションである。

 今回はフィリップ・ジョルダンの指揮で、歌手陣は、グリア・グリムスリー(ヴォータン)、クリスティーン・ガーキー(ブリュンヒルデ)、ステュアート・スケルトン(ジークムント)、エヴァ=マリア・ウェストブロック(ジークリンデ)、ギュンター・グロイスベック(フンディング)、ジェイミー・バートン(フリッカ)、他━━と粒が揃っている。

 特に注目されたのは、ブリュンヒルデを初めて歌ったというガーキーだ。
 ドラマティックな女戦士というよりは、茶目っ気もある陽気な女性騎士といった雰囲気で、歌唱にも屈託の無さが感じられるだろう。これが「神々の黄昏」で、「怒れるブリュンヒルデ」として世界を救済する女傑となった時にどのような歌唱と演技を繰り広げるのか、ちょっと興味が湧く。
 METでは特に近年、意図的か偶然か、ヴァルキューレたちを猛女でなく、愛らしい女性騎士として描く傾向があるようだから、この方が人気も出るのかもしれない。

 フィリップ・ジョルダンの指揮が、なかなか良い。物々しい重厚なワーグナーでなく、むしろサラリとした表情で押して行くタイプだが、極めて流れがいい。それでいながら「ヴォータンの告別」の頂点での壮大な昂揚感など、聴き手の感情を揺り動かす卓越した力感を示す指揮である。
 来年からウィーン国立歌劇場の音楽監督になる人だが、楽しみな存在だ。

 ロベール・ルパージュの演出は、父と娘の愛情を強く描くなどの特徴はあるものの、概してトラディショナルなスタイルで、それほど新しいものはない。むしろ例の━━並べればスノコみたいになる巨大な板が縦横無尽に動く、あの見事な舞台装置にすべてを託したような演出である。
 この大がかりな装置は、古エッダの発祥地アイスランドの噴火や地震などの地殻変動から発想されたものだということが、インタヴュ―の中で説明されていた。面白いアイディアだと思う。

 なお今回の音響は、録音が少しこもり気味で、特にヴォーカルのパートの響きの抜けの悪さが気になった。METのライヴでは、時々中継の音質にムラがある。
 案内役には、久しぶりにデボラ・ヴォイトが登場していた。プレミエの時にブリュンヒルデを歌っていた彼女である。以前のような元気の良さ、闊達さが何だか薄れたような雰囲気なのがちょっと気になるけれども、やはり巧い。ロイヤル・オペラ・ライヴの女性案内役と違い、無用に張り切って大声を出すこともないから、感じもいい。。

 上映時間は、休憩2回を含み、4時間51分。客席は結構な入りである。ワーグナーものの映像にこれだけ客が入るとは、まことに祝着である。

2019・5・12(日)飯森範親指揮東京交響楽団のロシアン・プロ

     カルッツかわさき  2時

 ミューザ川崎シンフォニーホールが改装工事中のため、東京響は川崎での演奏会をここ「カルッツ川崎」に、一時的に移している。

 これは川崎駅東口からバスで5分、徒歩なら20分くらいの場所にある「スポーツ・文化総合センター」のホールだ。座席数は2000ほど。
 クラシック音楽専用のホールではないが、2階席前方で聴く範囲では、音響は悪くないという印象を受けた。ただし2階と3階の多くの席は、椅子に腰を下ろすと、ステージが前の席の客の頭に隠れて中央が見えないという変な特徴がある。このホールの設計者は、席には客が座るものであり、その客は舞台を見るものである、という基本的なことも考えなかったのだろうか?

 それはともかく、今日は正指揮者・飯森範親の指揮で、第1部にボロディンの「イーゴリ公」から「ポロヴェッツの娘たちの踊り」と「ポロヴェッツ人の踊り」、ムソルグスキーの「禿山の一夜」(オペラ「ソローチンツィの市」の一場面)、チャイコフスキーの「1812年」。第2部にワシリー・カリンニコフの「交響曲第1番」というプログラムが演奏された。

 第1部の3曲では、東響コーラスおよび川崎市立坂戸小学校合唱団が協演。またボロディンとムソルグスキーの作品ではバリトンのヴィタリ・ユシュマノフのソロも加わるという大がかりな編成だった。コンサートマスターは水谷晃。
 東響コーラスはステージ奥のみでなく、両側袖にも配置された(ただこの袖の合唱は、ステージの指揮者の方を向いて歌われたせいもあって、2階席で聴いていた私にはあまり聞こえなかった)。

 東京響の演奏の方は、第1部では賑やかさと勢いが優先されていたようだが、何しろ曲が曲だけに、これは致し方ない。
 だが、「禿山の一夜」を、一般に演奏されるリムスキー=コルサコフの「まとまり過ぎた」編曲版ではなく、またムソルグスキーの雑然たる野性的な魅力に富んだオリジナルの管弦楽曲版でもなく、彼がのちにバリトン・ソロ(魔王チェルノボーグ)と合唱(悪魔たち)を入れて新たに書いたオペラ用の版で聴けたのは、まことに稀有な有難い体験であった。もしかしたら、これは日本初演か?

 一方、第2部でのカリンニコフの「第1交響曲」では、シリアスで瑞々しい、しっとりとした演奏で、指揮者・飯森が愛してやまないこの曲に相応しい快演が展開された。主題の展開の手法に関しては少々まだるっこしいものが感じられるこの曲だが、熱狂的なファンも多いようである。

2019・5・11(土)山形交響楽団 阪哲朗常任指揮者就任記念定期

      山形テルサホール  7時

 山形交響楽団を「明るい」オーケストラにし、かつ全国的に知名度を高めるという絶大な功績があった音楽監督・飯森範親は、このたび「芸術総監督」になった。

 替わって、以前、首席客演指揮者を務めていたこともある阪哲朗が、この4月から「常任指揮者」に迎えられた。アイゼナッハやレーゲンスブルクの歌劇場音楽総監督などを歴任し、ドイツでの活動が多かった阪哲朗にとっては、これが日本での最初の常任ポストになる。
 彼は京都生れのはずだが、御両親の故郷は山形なのだとか。なお彼には「阪・友の会」とかいうファンクラブが京都にあり、今日も少なからずの会員が聴きに来ていたとのことであった。

 さて、その就任記念の今月定期。プログラムは、第1部にメンデルスゾーンの序曲「美しいメルジーネの物語」と、シューマンの「交響曲第4番」。第2部にはブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは横山幸雄)が置かれた。
 コンサートマスターは犬伏亜里。

 弦はいずれも基本8型編成(以前、私がよく聴きに来ていた頃には、たしか基本10型だった)。このホールはさほど残響が長くはないし、しかも阪哲朗は「縦の線」を厳密に合わせるタイプの指揮者ではないから、それらの要素を含めた上でこの弦の編成でドイツ・ロマン派の作品を演奏するのは━━必ずしも容易ではないかもしれない。
 今日は、それもあってか、あるいは2日公演の初日ということもあってか、メンデルスゾーンの序曲や、シューマンの交響曲の最初の部分では、以前に比べアンサンブルの緻密さが薄らいでしまったか、という印象を抑えきれなかった。だが、演奏の強い推進力という点では確固たるものが感じられたので、まずは安心。

 特にシューマンは、メンデルスゾーンとは全く異なる暗く重々しい響きで開始されたので、阪と山響の意図は明確に伝わって来る。そしてこのシューマンの「第4交響曲」の演奏は、アンサンブルは別として、第1楽章の展開部あたりからあとの陰影に富んだ情感は目覚ましいものがあった。特に第4楽章へのクレッシェンドのくだりでは、ミステリアスな雰囲気も満ち溢れて、すこぶる見事だったのである。

 ブラームスの壮大なピアノ・コンチェルトをバランスよく響かせるには、オーケストラの規模とこのホールの音響との関係の上からも、更に難しいものがあったのではないか。横山幸雄も、かなり神経を使って弾いていたようにも感じられたが━━しかし、叙情的な第2楽章を経たあとの第3楽章では、見事なまとまりが聞き取れた。

 どの曲でも、尻上がりに均衡のとれた演奏になって行った。それゆえ、明日の2日目は、おそらく最初から良いだろう。そして指揮者とオーケストラの呼吸が更に合って行けば、いっそう素晴らしいものになるだろう。

 開演前のロビーコンサート、阪哲朗と西濱秀樹専務理事とのプレトーク、終演後のロビーでの指揮者とソリストと聴衆との交流会、楽員たちがロビーで客を見送る光景━━ありとあらゆる手を尽くして演奏者と聴衆との融合を図るというこの楽団の姿勢は健在だ。
 徹底した自助努力、発信力の強化、聴衆や支援者の拡大へのさまざまな活動などを通じ、東日本大震災の影響で悪化した経営状況も改善され、定期演奏会の平均入場者数と総入場者数も2014~2015年頃に比べ大幅に増加して来たというデータも出ている。
    別稿 モーストリー・クラシック8月号「オーケストラ新聞」

2019・5・10(金)上岡敏之指揮新日本フィルのワーグナー

      サントリーホール  7時

 ヴェルディの大作オペラに浸ったあとには、ワーグナーの「抜粋もの」。
 新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏と、音楽監督・上岡敏之の指揮。

 プログラムは、「タンホイザー」の「序曲とバッカナール」、「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」、「神々の黄昏」からの「夜明けとジークフリートのラインへの旅」と「ジークフリートの死と葬送行進曲」、「パルジファル」から「第1幕前奏曲」および第3幕の終結部分。コンサートマスターは(上岡の指揮の時としては珍しく)豊嶋泰嗣。
 R・シュトラウスと同様、ワーグナーも、上岡の十八番のレパートリーである。今夜の演奏でも、全ての曲で、上岡らしく凝りに凝った、微細で緻密な音の構築が続く。新日本フィルが今や彼と一体になり、それを具現するようになっているのは流石というべきであろう。

 「タンホイザー」序曲の最初の「巡礼の合唱の主題」の個所からして、管楽器群がテヌート(音符の長さをいっぱいに保って)で歌う。各フレーズがレガート(繋がる)で演奏されることになり、そこからも粘った演奏というイメージが生まれるのだろう。聴き手の好みも分かれるかもしれない。

 「トリスタン」前奏曲最後のコントラバスを、ほとんど聞こえぬような弱音で演奏させるのも上岡の以前からのやり方だが、これは特にコントラバス群の背後、上手側の、しかも遠い位置の席にいると、頭の中で音を補って行くしかない。
 しかし、演奏において、たとえ最弱音と雖も、聴衆に「明確に」聞こえないような音がどんな意味を持つというのか、私には疑問に思えてならない。その意味では私は、故・朝比奈隆氏の「指揮者がいくらピアニッシモだと言ったって、お客さんにピアニッシモとしてはっきり聞こえる音でなけりゃ、ピアニッシモの意味が生きませんからな」という言葉に賛成なのである。

 「ラインへの旅」の最後は、フンパーディンクによる演奏会用終結版が使用されていた。この曲の途中の部分の長いカットは、私は嫌いな手法だが、これをやる指揮者は結構多いのでまあ仕方がないとしても━━「バッカナール」の後半における大幅なカットはぎょっとするほど繋がり方が不自然で、さすがの上岡ファンの私でさえ、いつものような拍手を贈る気が失せてしまったのだが・・・・。
 「葬送行進曲」で、「死の動機」が初めて最強奏で轟く個所への8分音符3つのクレッシェンドを行わず、これも極度の最弱奏のまま続けてしまうというのも、上岡ならではの解釈だろう。
 こうした解釈は、私も以前だったら面白くて興味深い、と書いたところだろうが、正直なところ、最近では少々煩わしく感じられるようになってしまった。

 このように全ての音符に神経を行き届かせ、念入りに構築するという上岡のその感性と手腕には敬意を払う。が、そのわりに感動が少なく、むしろ作為的なつくりが感じられてしまい、しかも疲労感が残るというのは、どういうわけか。
 「トリスタン」では、官能的な情感があまり感じられず、「葬送行進曲」でも、この曲に備わる身の毛のよだつような魔性的なもの、あるいは悲愴美が伝わって来ないのである。それゆえ、比較的ストレートに演奏された最後の「パルジファル」からの音楽が、ワーグナーの音楽が持つ本来の深みと魔力を感じさせてくれたのだった。

 ━━だが、個人的な好みは別として、マエストロ上岡敏之には、今後も彼の流儀を徹底的に押し進め、わが国で唯一のユニークな個性を備えるオーケストラを完成させてもらいたいという願いには、変わりはない。

2019・5・10(金)ロイヤル・オペラ シネマ「運命の力」試写会

      日本シネアーツ社試写室  1時

 「ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)シネマシーズン2018/19」の一つ、今年4月2日上演のヴェルディの「運命の力」。上映時間は休憩2回を含め4時間18分と長いが、素晴らしく見応えがある。

 指揮はアントニオ・パッパーノ、演出はクリストフ・ロイ。
 歌手陣はヨナス・カウフマン(ドン・アルヴァーロ)、アンナ・ネトレプコ(レオノーラ)、ルドヴィク・テジエ(ドン・カルロ)、フェルッチョ・フルラネット(グアルディーノ神父)、アレッサンドロ・コルベッリ(メリトーネ修道士)、ヴェロニカ・シミオーニ(プレツィオジッラ)他。

 改めて言うまでもないが、この配役はすこぶる豪華である。
 カウフマンは、ソット・ヴォーチェの個所での不安定さなど、必ずしも本調子で無かったかもしれないが、いざとなると舞台と音楽を自己に惹きつけてしまうのは流石だ。悲劇的な宿命を満身に負った感のあるこのドン・アルヴァーロ役を、知性的なニュアンスを失わずに表現できるという点でも、やはり彼は卓越した存在であろうと思う。

 そして、狂的なほど異常な執念深さを持ったドン・カルロを、ルドヴィク・テジエが見事に歌い演じる。彼はもともと少し愛嬌のある顔立ちだから、それが怨念に燃えた表情をすると、余計に凄味が出る。
 このオペラでは愛の二重唱がひとつもない代わりに、アルヴァーロとカルロのテノールとバリトンの対決が多く、これらはいずれも圧巻のシーンである。

 ネトレプコはいつもに変わらぬ素晴らしさで、ドラマの最初から最後まで切羽詰まった状態に追い込まれている悲劇的なレオノーラを見事に歌い演じていた。彼女の人気は圧倒的だが、ただ、観客の中には彼女に対してだけ異常な熱狂を示すシンパ(女?)がいるようで、この雰囲気は少々恐ろしい。
 その他、フルラネットの滋味にあふれた神父ぶりが、ドラマをうまく支えている。また、プレツィオジッラ役のシミオーニというメゾ・ソプラノは、華やかに歌って踊れるミュージカル的な器用さがあるようで━━。

 なお、最初にピストルの暴発により命を落としてしまうカストラーヴァ侯爵を演じていたのが懐かしの名バス、ロバート・ロイドだったことを、あとからサイトの配役表を見て知って、もっとよく観ておけばよかったと後悔した。確か今79歳のはずである。まだ元気で歌っていたのか、と嬉しくなった。
 「ラタプラン」の場などで、表情豊かな演技や長いダンスをこなすロイヤル・オペラ合唱団の上手さも圧巻だ。

 そうしたものすべてを統率制御する指揮者パッパーノの手腕には舌を巻いた。ヴェルディの音楽のニュアンスの細かさ、ドラマ全体を貫く「運命」の恐るべき力や、登場人物の性格などの描写における巧みさ、旋律と和声の美しさなどを、これほど鮮やかに表出できる指揮者は、古今決して多くはないだろう。このオペラがこれほど精緻微細に演奏されたのを聴いたのは初めてと言っていい。
 一方、クリストフ・ロイの原演出は、ところどころ腑に落ちぬ手法も見られるけれども、教会の腐敗ぶりを浮き彫りにしたりするなどかなりニュアンスの細かい解釈に富んでいる。例えば修道院にやって来た時のレオノーラの身に起こる出来事などのような、過激な手法も僅かながら観られる。

 使用された版はもちろん改訂現行版で、最後はアルヴァーロが、既に白髪を頂いたレオノーラの遺体を抱いて慟哭する場面で終る。ちなみに、アルヴァーロも投身自殺してしまう超悲劇的な「原典版」は、それが初演されたマリインスキー劇場で以前ゲルギエフが指揮したのを観たことがあるが(日本公演でもやったような記憶がある)、あれは現行版以上に気が滅入るオペラだ。

 かようにロイヤル・オペラの本領をたっぷりと堪能させてもらい、満足したので、PR記事みたいになるけれども━━これは5月24日~30日に東宝東和系TOHOシネマズ(日比谷、日本橋、横浜、流山、名古屋、大阪、西宮)で上映される。
※━━と、チラシに載っている通りに引用したのですが、東宝東和のサイトをあとから確認したら、どうもかなり変更になっているらしく、しかも1週間前になってもほとんどが詳細未発表。ごめんなさい。あそこはさっぱりわからない。

2019・5・9(木)ローザス/コルトレーン「至上の愛」

      東京芸術劇場プレイハウス  7時30分

 今年のGWは、珍しく「ラ・フォル・ジュルネ」にも全く顔を出さなかったが━━。久しぶりに足を運んだのは、ベルギーのダンスのカンパニー「ローザス」の来日公演。上演時間はほぼ50分。

 アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルとサルヴァ・サンチスの振付により上演された今日のコンテンポラリー・ダンスは、ジョン・コルトレーンの「至上の愛 A Love Supreme」という音楽に基づくものだった。
 音源としては、1964年に録音されたジョン・コルトレーンのテナー・サックスとヴォーカル、マッコイ・タイナーのピアノ、ジミー・ギャリソンのベース、エルヴィン・ジョーンズのドラムス他━━どれも懐かしい名前だ━━の演奏による歴史的名盤が使われている由。

 私も、こう見えても、コルトレーンの1966年7月の彼の来日公演をナマで聴いており、これは一応自慢の種(?)なのだが、ただし彼の晩年のフリージャズのスタイルは、もともとジャズに関しては門外漢の私には、特に当時は理解と共感の域から甚だ遠かった、というのが正直なところだ。
 なにしろ、曲が「ムーン・リバー」と知らされながら、彼の絶叫型のサックスの長いソロの中に、あの曲のメロディが出て来たのはたった1回だけ、それも最初の2小節ほどがチラリと顔を見せただけ、という演奏なのだから、私のようなド素人にピンと来るはずがなかったのである。彼は、それからわずか1年後には他界してしまったのだが━━。

 それに比べると、この「至上の愛」は未だ穏健な、良い意味での甘美さもある時代の演奏だな、と、改めて懐かしく思う。どちらかというと落ち着いて静的で、━━このローザスによるダンスも、その静的な要素を浮き彫りにして反映させているのかなという気がする。
 その演奏もダンスも実に魅力的で、何とも形容し難い安堵感に誘いこまれた。
 が、私の隣に座っていたマニアックな感じの人は、いかにも不満そうな唸り声を発して、拍手もしなかった。

 このローザスの公演、この他にも18日と19日に、ジャン=ギアン・ケラスの生演奏によるバッハの「無伴奏チェロ組曲」(2時間公演だというから、全6曲やるのかしら?)との共演がある。残念ながらそれは観に行けない。

2019(令和元年)5月1日(水) 葵トリオ 

    トッパンホール  2時

 昨年のミュンヘン国際コンクールで優勝を飾った、小川響子、伊藤裕、秋元孝介の葵トリオの演奏会。これはトッパンホールが2002年10月に開始した「ランチタイム コンサート」の第100回記念として行なわれたものだ。
 気鋭のグループによる若々しい清新な息吹に富んだ演奏は、令和元年の初日を祝うに相応しいものであったろう。

 プログラムは、ベートーヴェンの「三重奏曲第5番《幽霊》」、マルティヌーの「三重奏曲第3番」。━━ここまでは先週土曜日にびわ湖ホールで演奏したプログラムと同じだが、今日はそのあとの第2部に、メンデルスゾーンの「三重奏曲第2番」が演奏された。
 アンコールはまたもハイドンの「三重奏曲第27番」の第3楽章だったが、これはピアノの秋元孝介が「何回も私たちの演奏を聴いて下さっている方は、またかと思われるでしょうが、これはいまロビーで売っている(私たちの)CDにも入っている曲なので」というスピーチをし、聴衆を笑わせていたので、商売上の戦略というわけだろう。

 マルティヌーでの演奏の切れの良さは、先週土曜日の演奏の際に感嘆させられたのと全く同様。
 だが、メンデルスゾーンでは、疾風迅雷というか、疾風怒濤というか、猛烈なエネルギーを噴出させた演奏となり、ベートーヴェンの精神をそのまま引き継いだかのようなメンデルスゾーン像が描き出された。この荒々しさは、所謂メンデルスゾーンのものではないように思われるが、この作曲家の精神の奥底に秘められていた━━もしそうであればの話だが━━強靭で荒々しい情熱を浮き彫りにするという点では、興味深い解釈かもしれぬ。
 とはいえ、ベートーヴェンとメンデルスゾーンの違いが、彼ら葵トリオのメンバーの中でどのように認識されていたかということになると・・・・。

 いずれにせよ、こういう演奏ができるのは、若さの特権であろう。

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