2019-02

2019・2・13(水)テオドール・クルレンツィス指揮ムジカ・エテルナ

      サントリーホール  7時

 東京公演としてはこれが最終日だが、今日も満席。コンサートでしばしば見かける音楽好きの人々も、ずらりと顔を揃えている。まさに、もろびとこぞりて、といった感だ。

 プログラムは今日もチャイコフスキー集で、前半が「組曲第3番」、後半が「ロメオとジュリエット」、「フランチェスカ・ダ・リミニ」という演奏順だった。
 が、「組曲第3番」が終ったあとに、今日のプログラムには無いチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」の第3楽章が、コンサートマスター(アイレン・プリッチンという人だそうだ)のソロで挿入され、更にそのアンコールのような形で、プリッチンがソロで弾くイザイの「ソナタ第2番」からの第1楽章が演奏されるという趣向が組まれていた。
 なんともまあ、物凄いエネルギーである。終演は9時半を過ぎた。

 クルレンツィスとムジカ・エテルナ、今日も極度に念入りな、全ての音符に細かく神経を行き届かせた演奏を聴かせてくれた。
 クルレンツイスは━━ある知人も言っていたけれども━━あたかもチェリビダッケのように、ふつうの指揮者ならやらないようなユニークで完璧な音づくりを徹底的に実践し、極度に個性的な演奏を創り上げる人だ。
 これだけの演奏をするためには、リハーサルにもおそらく通常の時間を遥かに超えた大変な量の時間を必要とするだろうし、オーケストラの楽員も一種の宗教的な行動に参加するような精神状態でそれに臨むのではないかとさえ思えるほどだ。

 さて、演奏。チャイコフスキーの「組曲第3番」をナマで聴く機会など、一生に一度、あるかないか。叙情的で綺麗な曲だが、やはり彼の作品の中では、私にはさほど魅力的なものとは思えない。
 しかし今日のクルレンツィスとムジカ・エテルナの演奏にあふれるロシア的な叙情━━曖昧な言い方だが、ロシアに行ってあのロシアの冬の景色に一度でも体験した人なら、あの独特の雰囲気をお解りいただけるはずだ━━の豊かさは、いかばかりだったろう。チャイコフスキーの音楽が、如何にロシアの空気と結びついているか、こういう美しい演奏に接すると、それをしみじみ感じてしまうのである。

 「ヴァイオリン協奏曲」第3楽章が、(コパチンスカヤの飛び入りなどではなく)コンサートマスターのソロでいきなり始まったのは意外だった。しかしこの演奏はもう「トレパック」舞曲のイメージどころか、まるでジプシー・ヴァイオリンである。猛烈なテンポで乱舞するソロとオーケストラの勢いたるや、唖然とさせられるほどだ。実に上手い。この曲のこんな面を浮き彫りにして見せるとは、面白い。それは事実だ。
 だが、これはやはり余興のたぐいというか、何となくキワモノの域に入ってしまったような━━そんな気がしないでもない。少なくとも、この曲を聴いた時にはいつも得られるような「いい曲」という感じが、この狂乱の演奏からは、全く失われてしまっていたことも確かなのである。

 「ロメオとジュリエット」は、予想通り微に入り細に亘り仕上げられた演奏。曲が曲だから、このくらいやってもらった方が面白いという人━━あるいは、もう少し自然にやってもこの曲の美しさは出るはずだと思う人、好みが分かれるだろう。そう言うお前は?と訊かれたら、私としては、後者の方に組みすると答えたいところだ。

 一方、「フランチェスカ・ダ・リミニ」の方は、これこそ曲が曲だから、どうやったとてこんなものだろう、と思う。熱烈なチャイコフスキー愛好家である私と雖も、この曲の物々しい騒々しさには、いつも辟易させられるのだ。
 ただ、今日のクルレンツィスとムジカ・エテルナの精妙かつ猛烈な嵐の場面の演奏は、あのギュスターヴ・ドレが描いたダンテの「神曲」の「地獄篇」第2圏の「パオロとフランチェスカ」にある、無数の亡霊が群れをなして暗黒空間の中を「黒い風」に吹き飛ばされて行く物凄い光景を思い起こさせるに充分なものであったと思う。

 たった2つの演奏会を聴いただけだが、このコンビのチャイコフスキーには、その味の濃厚さゆえに、正直なところ少々食傷気味になった・・・・。

«  | HOME |  »

























Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

お知らせ

●2007年7月以前のArchivesを順次、アップロード中です。併せてご覧下さい。
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月
2006年7月

Category

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」