2018-09

2018・9・7(金)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 新国立劇場から、サントリーホールに向かう。今回は移動時間は充分だ。

 日本フィルの秋のシーズンの開幕定期で、正指揮者の山田和樹の指揮。
 プログラムの組み方が、実に巧い。昨年の秋の定期第1弾もやはり山田和樹指揮によるフランス音楽と、それに関連する日本人作品の組み合わせだったが、今回も同様である。

 最初に、プーランクの「シンフォニエッタ」。次に三善晃の「ピアノ協奏曲」が萩原麻未のソロで演奏され、休憩後にはストコフスキー編曲によるデュカの「魔法使いの弟子」、最後にデュティユーの「交響曲第2番《ル・ドゥーブル》」が演奏された。
 因みに三善晃はパリ音楽院に学んだことがあり、デュティユーにも私淑した作曲家で、この「ピアノ協奏曲」はパリから帰国して間もない頃の、若々しい気魄にあふれた作品である。このような関連性を持たせたプログラミングは、すこぶる見事だ。

 山田和樹のオーケストラ制御も、ますます巧さを増したようだ。今日はダイナミックな作品ばかりなので、そういう音楽が得意な日本フィルもここぞとばかり猛烈な勢いで鳴りわたったが、その一方、「ピアノ協奏曲」の中間部(アンダンテ・カンタービレ)のような弱音の叙情個所においても、透明な美しさを余すところなく発揮させるという幅の広さを聴かせていたのである。

 デュティユーの「ル・ドゥーブル」も、一昨年秋にカンブルランと読響の演奏を聴いた時に感じたのと同様、この曲はCDよりもナマで聴いた方が圧倒的に素晴らしい━━指揮者のすぐ前に配置されているソロ・グループと、背後に拡がる大オーケストラとの対比が、空間的な拡がりをもって聴き取れるからだ。
 そして、今日のヤマカズ&日本フィルの演奏は、極めて若々しく活気があって、より「面白く」聴けたのであった。
 なお、協奏曲でソロを弾いた萩原麻未も、怒号するオーケストラを相手に一歩も退かぬ快演を聴かせて、素晴らしかった。

 財政的にも苦しいはずの自主運営オーケストラが、よくこれだけ意欲的なプログラムを定期に組むものだ。見上げたものである。

2018・9・7(金)東京二期会
プッチーニ:3部作「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 ダブルキャストによる4日連続上演、今日は2日目で、Bキャストとしての初日。

 東京二期会としては23年ぶりの「プッチーニ3部作」だが、今回はダミアーノ・ミキエレットによる演出だ。デンマーク王立歌劇場とアン・デア・ウィーン劇場で上演されたプロダクションではあるものの、この東京上演に際してかなり手直しされた由。
 いずれにせよ、日本人歌手陣がその中で生き生きと動き、ただ一つの類型的な身振りに陥ることなく演劇的な演技を繰り広げていたこと、そして特に「外套」と「ジャンニ・スキッキ」では舞台上の人物構図が明確に決まっていたことなどから、日本版としての上演意義は充分に確立されていたと言ってよい。

 ミキエレットの演出には、この3部作にそれぞれ関連性を持たせるための新機軸の手法がいくつかある。
 例えば、「外套」と「修道女アンジェリカ」は切れ目なしに上演され、前者の幕切れで不倫相手の死体を見て恐怖に絶叫したジョルジェッタ役の歌手(文屋小百合)が、そのまま同じ位置に立ったまま、後者の舞台におけるアンジェリカ役に変わり、自らの子を奪われ、全ての希望を失って自殺する悲劇的な母親の立場となる。

 また前者で、妻ジョルジェッタの不倫相手を殺害した「暗い」船長ミケーレ(今井俊輔)が、「ジャンニ・スキッキ」では陽気で狡猾な、しかしどこかに暗い影を持つ題名役となって登場、しかも皮肉めいたセリフを残して去るラストシーンでは、いつのまにかあの外套を着たミケーレの姿に変わっているというオチがつく━━という具合である。
 これらは、いわば人間性の裏と表、あるいは運命の巡り合わせとでもいったものを、3部作という場で描き分けていた、とも言えるだろう。
 (ただ、その他にも2種の役柄をダブって歌い演じた歌手も多いけれども、そのすべてがこのような意味づけを与えられているわけではない)

 舞台装置でも同様な手法が使われた。「外套」では運搬船の港の場面に相応しく舞台上には巨大なコンテナが並び、積み重ねられていたが、「修道女アンジェリカ」ではこれが姿を大きく変えて修道院の中の光景となる。そして最後の「ジャンニ・スキッキ」では豪華な居間の光景となるのだが、幕切れではそれが折りたたまれて、再び「外套」冒頭にも似たコンテナの形に戻るという凝った趣向である。
 かように、3部作としての統一感は、巧妙に構成されていたのだった。パオロ・ファンティンの舞台装置、アレッサンドロ・カルレッティの照明、それらの関係スタッフ、いずれも見事であった。

 演出の細部の点では、「修道女アンジェリカ」に面白い解釈が見られた。
 ここでは、アンジェリカの子供は実際には生きているという設定に変えられ━━それは公爵夫人が修道院に連れて来ているので、観客にもそれと解るのだが━━冷酷な修道院長らが子供を母親に会わせるのを妨げたかのように見える。公爵夫人は、アンジェリカとの口論の末に激して「お前の子供は死んだ」と告げたものの、幕切れでは良心の呵責とアンジェリカへの同情に耐えかね、彼女の子供を連れて来るが、その時にはアンジェリカはもう自殺したあとだった・・・・という設定である。

 ミキエレットの解釈は、冷酷なのは、公爵夫人よりもむしろ「修道院」なのである、ということなのだろう。ここでの公爵夫人(与田朝子)があまり冷酷に見えないのは彼女の風貌と意図的なものかもしれないが、己が所業のためアンジェリカを死に追いやったことを知ったラストシーンの演技がもう一つ明確であったら、と思う。
 なお、アンジェリカが絶望の末、さまざまな痛ましい幻想に陥る模様もつぶさに描かれる。ミキエレットのこの演出には、「3部作」の各作品で、それぞれの「明暗の幻想」が悉く打ち砕かれる━━というコンセプトも備わっているのではないか。

 今回登場した歌手陣は実に多くにわたるので、そのすべての皆さんについて触れることは不可能だが、前出の3人の他には、「外套」でのルイージ役には芹澤佳通、「ジャンニ・スキッキ」で「私のお父さん」を歌うラウレッタ役には船橋千尋、といった人々も出演していた。主演女優賞(?)を勝手に差し上げるとすれば、やはり文屋小百合さんだろうか。アンジェリカの後半の演技と歌は、見事なものがあった。

 そして、ベルトラン・ド・ビリーの指揮が、思いがけぬほど美しく、「雰囲気」があったのにはちょっと驚いた。オーケストラをあまり鳴らさず、むしろ押し殺したような緊張感で進めるので、時に爆発する悲劇的な最強奏がいっそう凄味を感じさせる。
 彼のオペラの指揮はこれまで各所でかなり聴いて来たつもりだが、今回ほど音楽の表情が豊かだった演奏は初めて聴いたような気がする。東京フィルがこのピットで、これだけ「雰囲気豊か」な演奏を聴かせたことは、稀ではないか?

 なお今回は、二期会合唱団と新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部が合同して歌ったということが大々的に謳われていた。びわ湖ホールが「さまよえるオランダ人」でやったことのお株を取ったか。ただし、あれほど人数は多くない。
 休憩は「修道女アンジェリカ」のあとに1回のみで、5時10分頃終演。
 これは、東京二期会の近年の傑作プロダクションと言って間違いはない。

«  | HOME |  »

























Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

お知らせ

●2007年7月以前のArchivesを順次、当時の日記を修正せずにアップロード中です。併せてご覧下さい。
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月

Category

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」