2017-08

2017・8・6(日)ザルツブルク音楽祭(5)「室内楽コンサート」

     モーツァルテウム大ホール  7時30分

 ウィーン・フィルのコンサートマスターの1人、ライナー・ホーネックをリーダーとするウィーン・フィルのメンバーによる室内楽演奏会。
 プログラムは、R・シュトラウスの「カプリッチョ」からの「六重奏」、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの「弦楽六重奏のための幻想曲《テルレスの青春》(若きテルレス)」、最後にメンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」。

 今夜は、この同じ時間帯に、川向こうの祝祭大劇場では、ムーティの指揮で、アンナ・ネトレプコを題名役とする「アイーダ」の初日公演(これもウィーン・フィルだが)が行われているはずであった。例のごとく手配の出足が遅かった私は、そのチケットを取り損なったというわけだが━━。

 しかし、このモーツァルテウムの美しいホールで、ウィーン・フィルの「別の」メンバーが演奏する、夢のように美しいR・シュトラウスの「六重奏曲」や、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」を聴いていると、ムーティもネトレプコも何にかはせむ、という心境になって来る。これは、負け惜しみではなく、本当である。

 1曲目のシュトラウスの「カプリッチョ」の六重奏が始まった瞬間など、こんな魔術のような音楽があろうか、と息を呑み、心も体もとろけるほどうっとりさせられてしまったほどだ。かように、ウィーン・フィルの弦は、この世のものならざる夢幻的な音色をつくり出していたのである。

 モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」を吹いたのは、首席奏者ダニエル・オッテンザマーだった。有名な父君エルンスト氏が先月急逝したばかり。プログラム冊子にも、その追悼文が掲載されており、聴衆もそれを知っていた。そうした思いも含め、子息の流麗で温かいソロに、ひときわ高い多くのブラヴォーが飛んだのも当然であろう。

 ヘンツェの「テルレスの青春」(若きテルレス)は、15分ほどの作品で、もともとは映画のための音楽のはず。ナマで聴いたのは今回が初めてなのだが、ホーネックらウィーン・フィルのメンバーの手にかかると、あのヘンツェの作品すらが、すこぶる温かい穏やかな音楽に聞こえてしまうから不思議なものだ。

 そして最後がメンデルスゾーンのオクテットだが、「1人のソリストと7人のメンバーのためのコンチェルト」(故ルイ・グレーラー)という見方さえあるこの曲で、ホーネックのリーダーとしての存在が明確にされつつも、あくまで完璧な均整を備えた8人のアンサンブル━━となっていたのが、この日の演奏なのであった。その音の柔らかい溶け合いは、他に例を見ないだろう。第1楽章での流れの良さと、限りなく昂揚して行く演奏は、ここでもう拍手を贈りたくなるくらい、圧巻であった。

 ただ、こんな勢いで第1楽章から飛ばしていては、フィナーレなど、さてどうかな、と思ったが・・・・案の定、第3楽章以降は━━もちろん第1楽章と比べればのことだが、少々精彩を欠いたような気がする。第4楽章の中ほど、8人が先を争って突進するかのような激しい曲想の個所など、今一つエネルギー感が薄れていたような。

 超満員だったこのホール、換気が悪くて、空気がこもって来る。まさか奏者たちも、それで疲れたわけでもあるまいが━━昨日のマチネーでもそうだったが、私はこういう空気には弱いので、先に疲れてしまう。
 9時40分頃終演。昼間降っていた強い雨もすでに上がり、かなり涼しくなっていたが、新鮮な大気に触れて安堵する。この会場は、ホテルに比較的近いので楽だ。

2017・8・6(日)ザルツブルク音楽祭(4)ネルソンス指揮ウィーン・フィル

       ザルツブルク祝祭大劇場  11時

 アンドリス・ネルソンスが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソロはダニール・トリフォノフ)と、ショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」を演奏した。

 この2年ばかり、昼のウィーン・フィル・シリーズを選ぶと、不思議にムーティの指揮ばかりに当たっていたが、今回はちょっと珍しい組み合わせとなった。ネルソンスが振るのは、別に珍しくはないけれども、ショスタコーヴィチの「7番」をこのザルツブルクで聴くというのが、そもそも稀有のことだろう。

 だが、1階中央の7列という席は、いかにもステージに近すぎて、この大編成で怒号する演奏の全貌を把握するには難がある。もっと離れた席から、バンダを含めた全管弦楽の溶け合った響きを聴き、ホール全体を鳴動させるスリリングな全音圧に浸りたいところではあったが、残念ながら各パートの生々しい動きが眼前に展開し、個々の楽器の音圧がこちらに飛んで来るだけのような状態にとどまった━━その代わり、叙情的な部分では、ウィーン・フィルの弦の瑞々しい歌が、直接の手触りのような雰囲気で、存分に楽しめたが。

 前夜の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の演奏でもそうだったけれど、ウィーン・フィルがショスタコーヴィチの交響曲を演奏すると、日本を含む何処の国のオーケストラとも異なる、一種の温かい豊麗さを感じさせる。
 ましてロシアのオーケストラが噴出させるような、あのピンと張り詰めた厳しさや攻撃的な鋭さ、威圧的な重量感などとは大違い。それが面白くもあり、時には物足りなさをも感じさせるところだろう。

 第1楽章での「戦争の主題」の頂点はさすがにウィーン・フィルの威力を感じさせたが、第4楽章最後の昂揚は意外にあっさりしたものだった。
 ネルソンスは入魂の指揮で、下手側奥に位置するバンダを含めた金管群の音量を、あくまで弦や木管とのバランスを重視しながら響かせ、刺激的な咆哮までには至らせることなく、調和のうちに、この壮大な交響曲の演奏を完成させたのである。

 プロコフィエフの協奏曲の方は、若いトリフォノフの元気のいい演奏にもかかわらず、何となく前座の雰囲気を免れなかったのは、客席の雰囲気の所為か。特に前方客席の。

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