2017-08

2017・8・5(土)ザルツブルク音楽祭(3)「ムツェンスク郡のマクベス夫人」

      ザルツブルク祝祭大劇場  7時30分

 今年のザルツブルク祝祭では、ショスタコーヴィチに一つのテーマが与えられている。公式プログラムで見るところ、少なくとも10種の公演で、彼の交響曲、協奏曲、室内楽曲、オペラが取り上げられている。

 このオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」もその一環.。マリス・ヤンソンス指揮ウィーン・フィル、ウィーン国立歌劇場合唱団のメンバー、演出がアンドレアス・クリーゲンブルク、舞台装置がヘラルド・B・トール、カテリーナ・イズマイロワを歌うのがニーナ・ステンメだから、これは注目公演と呼ばれるに相応しいだろう。。
 去る2日にプレミエされ、21日までに計5回上演されることになっている。共同制作のクレジットは、特に見当たらない。

 舞台装置は、すこぶる大がかりなものである。日本式に言えば、5~6階(までは見える)以上の高さのある巨大な古いマンション(社員宿舎という設定か?)の中庭のような場所がドラマの主たる舞台。そして、下手側からは、第1~2幕ではカテリーナの新居(これはすこぶる贅沢な部屋)が、第4幕では監獄が突き出して来たり、引っ込んだりする。上手側からはイズマイロフ家の事務所、あるいは第3幕では警察署のセットが移動し突き出して来る。
 かように、祝祭大劇場の幅広の舞台をいっぱいに使った、すこぶる重量感と威圧感のある,静的な中にもスペクタクル性を含んだ舞台装置だ。

 時代設定は、少なくとも原作よりは現代に近い時代だ。人物の動きは激しい。登場人物にはそれぞれ際立った性格が与えられている。
 ヒロインのカテリーナ・イズマイロワは、最初のうちは少し従順な、欲求不満を裡に押し隠した、おとなし目に見える「新嫁」だが、それが次第に、感情の動きの激しい、所謂「マクベス夫人的」な女性に変貌して行く。この過程を、ニーナ・ステンメが実に見事に演じ切っているのには、舌を巻いた。長いドラマの中で、ほとんど出ずっぱりの奮闘だが、終盤に向けてますますパワーを増して行くそのエネルギーは、立派なものである。

 その夫セルゲイは、父親の会社に勤める、全くの役立たずの事務員で、それをマキシム・パスターが気の毒に見えるくらいのダメ男ぶりで見事に演じ歌っていた。
 一方、その父親のボリス・イズマイロフは、いつもスーツに身を包んだ堂々たる恰幅の、厳しく横柄な社長で、しかも好色な舅ぶり。これを歌い演じたディミトリ・ユリアノフが貫録充分、ドラマの前半を引き締めた。

 ただ惜しむらくは、カテリーナの愛人━━のちに夫━━たるセルゲイを歌い演じたブランドン・ジョヴァノヴィッチが、何となく影が薄いことだろう。
 もしそれが苦労知らずのボンボンとして描かれ、カテリーナの愛に応えられる男ではなかったという、否定的な設定だったのなら、それはそれでいいのだろうが、ドラマとしては弱い。
 他に、ジノーヴィの死体を発見して大騒ぎする「ぼろを着た男」をアンドレイ・ポポフ〈彼はこういう役は巧い〉、牧師をスタニスラフ・トロフィモフら、大勢の出演者たち。みんな快調だ。演技は微細で、大型の舞台にもかかわらず、ドラマとしても見ごたえがある。

 第4幕のオリジナルにおける「河」のモティーフは、やはり今回も放棄されていた。下手側から突き出している「監獄」と、その他は最初から使われている装置がそのまま活用される。
 ラストシーンでカテリーナは、恋敵ソニェートカを川に突き落として自分も飛び込むというオリジナルのト書きとは異なり、相手の首に綱を巻きつけて階段の上へ引っ張って行き、手摺越しに彼女を突き落としつつ自らも一緒に首をくくって飛び降りる━━という設定になった。2人の女が、背中合わせの形で宙吊りになる。ただ、その2つの吊られた「人形」に、どう見ても、凄味も不気味さも感じられないのが問題だろう。

 さらにオリジナルの台本と異なるのは、カテリーナから耳打ちされて頼まれた獄吏の1人が、ソニェートカを助けに行こうとするセルゲイを刺殺してしまう、という設定である。
 このあたり、ひしめき合う「流刑囚」たちの中にあって、彼ら中心となる数人のキャラクターの存在があまり明確にならず、所謂「群衆の中の悲劇の一つ」としてしか描かれないのが、少々物足りない。クリーゲンブルクの演出には、時たまこういうのがみられる。

 ピットに入ったマリス・ヤンソンスとウィーン・フィルは、この桁外れのどろどろした「凄い話」のオペラを演奏するには、ちょっと品が良すぎるかもしれない。
 あの「ぼろを着た男」が、こけつまろびつ、警察へご注進にすっ飛んで行く場面の有名な間奏曲などは野性味に不足する感があったし、セルゲイの裏切りを目の前にしてカテリーナの絶望感が爆発する凄愴なクレッシェンドの個所も、おとなしすぎたきらいがある。
 ただ、演奏そのものには非常に風格があり、ウィーン・フィルの底力の凄さといったものは、充分に伝わって来たのだった。マリス・ヤンソンスの人気も、相変わらず盛んなものがある。

 休憩1回を挟み、10時50分頃演奏終了。

2017・8・5(土)ザルツブルク音楽祭(2)モーツァルト・マチネー

      モーツァルテウム大ホール  11時
 
 お馴染みモーツァルト・マチネーの一環で、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団が出演、指揮はジョヴァンニ・アントニーニ、ゲスト・ソリストはクリスティアン・ベズイデンホウトという面白い顔ぶれである。
 プログラムは、モーツァルトの「交響曲第29番イ長調」と「ピアノ協奏曲第24番ハ短調」、後半がシューベルトの「交響曲第4番《悲劇的》」というもの。アントニーニがモーツァルトやシューベルトを指揮するのはナマではなかなか聴ける機会が無いので、これは楽しみにしていた。

 アントニーニは、この系統のレパートリーにおいても、非常に強烈なデュナミークを多用する。そのフォルティシモは、1階席の、のんびり聞いていたらしい1人の高齢の女性を一瞬飛び上がらせたほど、激しい。叩きつける最強音と、歯切れのいい明晰な響きが際立つ。もちろん、弦はノン・ヴィブラート奏法だが、金管には特にピリオド楽器は使われていなかったようである。

 冒頭の「イ長調」の出だしでは、アンサンブルもアタックも何故か粗くてガタピシしていたのには冷や冷やさせられたが、どうやらこれは呼吸が合わなかった所為らしい。提示部がリピートに入ったところから、俄然、音楽が引き締まって来た。
 とにかく、これだけ鋭角的なサウンドで再現された「第29番」も、珍しいだろう。反復個所は忠実に守られているので、演奏時間も長くなる。

 これらは、後半でのシューベルトの「悲劇的」でも同様だ。全曲にわたり強弱の対比が激烈に強調されるため、この曲が、これまで聴いたことのないほど荒々しい劇的な様相を帯びる。特に第4楽章など、こんなに牙をむいたようなシューベルトは、恐怖感さえ覚えさせるではないか。
 ユニークなアプローチもあるものだ、と感心する。聴き慣れた作品からこういう新しい側面を出してくれる演奏にぶつかると、聴きに来てよかった、と心から思うものだ。

 協奏曲では、ベズイデンホウトが、珍しくモダン・ピアノで弾いた。これがまた面白い。何しろこの曲でも、アントニーニが、緩やかではあるがしばしば戦闘的に仕掛けるのに対し、その音楽をベズイデンホウトが、我が道を往く、とばかりに落ち着きはらって悠然と受ける、という対照を生むからである。彼のピアノでうっとりさせられるような美しさを感じたのは、やはり第2楽章であった。

 このモーツァルテウム大ホールの2階席は、換気が悪い。休憩や終演になってドアが開け放たれると、外の空気が流れ込んで来て、ほっとさせられる。とはいえ、街はまだ暑い。

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