2017-07

2017・7・10(月)マルク・ミンコフスキ指揮東京都交響楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 ハイドンの「交響曲第102番」と、ブルックナーの「交響曲第3番」(1873年初稿版)。
 インバルの向こうを張ったようなプログラムだ。そういえば今日はインバルもホールに来ていたという話だが、もし客席にいたのなら、どんな顔をして聴いていただろう。

 それにしても今日は━━いや今日も、というか、聴衆はよく入っていた。ほぼ満席といっていい状態だろう。それはめでたい話ではあるが、満席になると音が吸われて、この残響の少ない大ホールが、ますますドライな音響になる。ミンコフスキの指揮する音楽は、本当はもっと響きのたっぷりしたホールで聴きたい類のものであった。コンサートマスターは矢部達哉。

 「102番」の演奏は、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルとの水際立った演奏が頭に残っている聴き手にとっては、どうしても物足りなくなるのは否めまい。
 冒頭のあの弱音から始まって漸強━━漸弱になる全管弦楽の和音は、同オケとの演奏ではあれほど神秘的で不気味でさえあったのに、今日の演奏ではどうしても淡彩で一面的なものになってしまう。第4楽章での木管のリズミカルなエコーが、洒落たエコーとして響いて来ないのも、オーケストラとホールの響きとの双方に原因があるだろう。
 このあたり、都響もよくやっていたには違いないが、たった1回だけの客演指揮者を相手では、やはり呼吸が合うというわけにも行くまい。

 ブルックナーの方は、先入観なしに聴いたし、だいいち曲が曲(?)だから、もう少し別の視点から聴くことができる。
 ミンコフスキはかなり速めのテンポでたたみかけており、演奏時間も何と60分を切っていたようだが、残響の少ないホールでは、このくらいのテンポ(総休止の間の長さを含む)の方がむしろ望ましいかもしれない。

 先年の都響とのブルックナーの「0番」では、極めて精緻に彫琢された演奏を聴かせてくれたので、今回も同様の手法によるものかと思っていたら、思いのほか剛直で力感の豊かな音づくりだった。全管弦楽の最強奏の個所などでの咆哮ぶりは凄まじく、さながら仁王のようなブルックナー。

 これ見よがしの手練手管や誇張など一切感じられないにもかかわらず、聴き慣れたブルックナーの和声的な響きが、突然ギョッとさせられるような異様なバランスの音色で響きわたることがある。それゆえ、もともと粗削りなこの初稿版が、いっそう刺激的で劇的な色合いを以って聞こえて来て、ミンコフスキの一筋縄では行かぬ感性に舌を巻かされる、ということになるだろう。

 ともあれ、この初稿版は、のちの第2稿や第3稿に比べると、荒っぽくて、あちこちヘンなところがたくさんあるのだが、それがまた独特の面白さを感じさせる。第2楽章での「タンホイザー」の巡礼の合唱の引用など、ブルックナーがワーグナーに心酔していた時期の佳き里程標でもあるのに、何故のちにカットして書き換えてしまったのか。

 ━━同じ曲を何度も大幅に書き直すのは、必ずしもいい趣味とは思えないけれども、しかし私たちはそのおかげで、ブルックナーのシンフォニーを、付けられた番号以上の数で愉しめる、という恩恵に浴することができるわけである。

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」