2017-06

2017・6・29(木)小山実稚恵さんを祝う会

      ホテルオークラ東京 アスコットホール  6時

 平成28年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞したピアニスト・小山実稚恵さんを祝う会が盛大に催された。主役たる彼女が、全く気取った表情を見せず、いつものように笑い転げながら人々と歓談する光景が強い印象を残す。
 更なる素晴らしい体験は、彼女と、大野和士、広上淳一の3人による前代未聞の傑作な爆演(珍演?)が聴けたこと。

2017・6・28(水)モンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」

      東京カテドラル聖マリア大聖堂  7時

 私はクリスチャンではないので、教会に行くことは滅多にないが、あの豊かな長い残響をもった会場で音楽を聴くことだけは、好きだ。それゆえ仕事とは別に、ちょっと教会を訪れ、オルガンの響きに浸ることは、たまにある。

 この日はアントネッロが主催する「クラウディオ・モンテヴェルディ生誕400年記念公演」。大作「聖母マリアの夕べの祈り」の上演である。
 古楽アンサンブルのアントネッロの代表でもある濱田芳通が指揮、西山まりえ(アルバ・ドッピア他)らアントネッロの器楽演奏に、鈴木美登里(ソプラノ)らラ・フォンテヴェルデが歌い上げた。

 両者の演奏の深みのある清澄な素晴らしさはもちろん、あの大教会の空間いっぱいにこだまする壮大な響きの美しさは、筆舌に尽くし難い。
 通常の一般祈禱席と、特設されたパイプ椅子の席は全て埋め尽くされたため━━使用席数は600というが、聴衆の数は1千人近くにさえ見えた━━空席時は7秒といわれる残響時間はかなり短くなっていたが、尾を引いて消えて行く微細な音たちの美しさは、ふつうのコンサートホールではとても味わえぬものである。
 それはまさに、永遠の至福の瞬間だ。第1部だけで70分以上になったが、それも全く時間の長さを感じさせないものだった。

 だが、私の勝手な都合で残念だったのは、翌朝早くからの芸術文化振興基金の助成金交付公演の事後評価会議に備えての準備のために、終演予定時刻(9時15分とか聞いた)まで会場に居られなかったことである。涙を呑んで、陶酔の第1部のあとの休憩の間に失礼しなければならなかった。

2017・6・25(日)山田和樹・日本フィル マーラー・ツィクルス(完)

       Bunkamuraオーチャードホール  3時

 2015年1月に開始されたマーラーの番号付交響曲のツィクルスも、早いもので、あっという間に完結になってしまった。
 今日、最終回は、「交響曲第9番」。そして、組み合わされて来た武満徹の作品は、「弦楽のためのレクイエム」である。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 武満徹の作品は、このシリーズの中で、ある方面からは「添え物」「前座」とでもいう目で見られてきたようだが、これだけ彼の作品がシリーズとして取り上げられた例は稀である。その意味では、極めて有意義な企画だったと言うべきだ。9つの作品の演奏には多少のムラもあったが、演奏はすべて真摯であった。
 今日の「弦楽のためのレクイエム」は、満を持して代表作が登場したといった感である。だがこの曲が、マーラーの「9番」の終楽章と、いかに見事な「対」を為していたか、両者を真剣に聴いた聴き手には納得できたはずである。良い組み合わせの選曲であった。

 「9番」の方は、山田和樹のこれまでのマーラーにおける演奏構築と同様、明快で、どんなに沈潜した個所においても、陰鬱な翳りをあまり感じさせない。
 それは特に、全曲の頂点たる第4楽章で際立っていたのではないかと思う。ふつう聴かれる演奏よりも、レガートな性格がさらに薄くなり、主題のフレーズがメリハリに富み、リズム感も明快だったことや、重厚な和声感よりも各パートの旋律性が重要視され、浮き彫りにされていたことなどもその原因であろう。

 例えば第49~50小節の朗々たるホルンのソロの、活力にあふれた歌。ふつうならこのソロは、弱音の弦の上にフォルテでふっくらと浮かび上がるように、弦との和声感を保ったまま吹かれ、瞑想の中に光明を見出したような感じを生むものだが、今日はフォルティシモで朗々と、屈託なく吹かれて行った。このあたり、山田和樹も若々しいな、という気がする。

 一方、弦で言えば、冒頭3小節目以降の、あるいは第56小節以降の弦楽器群の動きなどで、分厚いハーモニーの凄絶な力感というより、各パート間の明るい対話といったような特徴が聴かれた。従ってそこでは、弦の轟々たる厚い響きが、深みへ、深みへと下降して行くような、「不安の交じった安息」は得られない。それゆえ、重々しく深刻な世界には陥らなかったようである。やはり山田和樹は、いい意味で、青年なのである。

 それにしても、このスコアの最後の1ページほど、物凄い音楽はないだろう。マーラーは大変な音楽を書いたものだ、とつくづく思う。
 今日の山田和樹が指揮した演奏のように、極限までテンポが落され、主題が原形をとどめないほどまでにばらばらになり、虚空の中に溶解して行く、というのは多くの指揮者も強調している手法だ。それもまた一つの美しい浄化の凄みを感じさせるだろう。

 だがその対極的なものとして、昨年のマリス・ヤンソンスが指揮した演奏のように、あまりテンポは落されず、しかも最後まで和声的な響きを保ったまま結ばれて行く、という演奏もあった。
 それはまるで、最後まで端然とした容を崩さずに、安らかに生を終って行く、というようなことを感じさせて、私は心の底から震撼させられたものである。

 マエストロ山田は、終演後の楽屋で私に、そして打ち上げパーティの席上でも来客たちに、「あの最後のところをやってみたら、死ぬのが怖くなくなったような気がして来た」と語っていた。
 私も同じことを考えていたのだが、ただそれは、若い時における感じ方と、年齢を重ねてからの感じ方とでは、おそらく全然違うはずである。━━聴き手が齢を取るに従い、あの最後のページは、ますます強烈な凄さを感じさせるようになるだろう。
      別稿 音楽の友8月号 Concert Reviews

2017・6・24(土)シモーネ・ヤング指揮読売日本交響楽団

       東京芸術劇場コンサートホール  6時

 シモーネ・ヤングの指揮は、CDで聴くよりも、ナマで聴く方が生き生きとして感じられる。ハンブルクで聴いた彼女の「指環」など、どれも引き締まった演奏だった。
 ただ、彼女が日本に来て指揮したいくつかのオペラやコンサートは、日本のオーケストラとの相性の問題も関係しているのか、ハンブルクでの演奏に比べ、何かちょっと中途半端なところがあって、もどかしい思いをして来たものである。

 だが、今回の読響との協演は、うまく行った部類だろう。彼女の歯切れのいい、エネルギッシュな音楽が、もともと馬力豊富な読響と程良くマッチして、すこぶる熱気に富んだ、胸のすくような勢いの演奏が生まれていた。

 今日のプログラムは、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはウズベキスタン出身のベフゾド・アブドゥライモフ)と、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」である。コンサートマスターは長原幸太。

 協奏曲でも、彼女の「持って行き方」は巧い。盛り上がったピアノ・ソロを包み込むようにしながら、更にオーケストラの音量をぐーんと上げて高揚させて行くあたり、見事なものだ。
 第3楽章では、あの「越後獅子」を基にした主題を、アブドゥライモフのソロともども愉し気に躍動させつつ、オーケストラを最後のクライマックスに向けて滔々と豪快に押して行く。ラザレフのような野性的で荒々しい演奏ではなく、咆哮の中にも均衡を失わず━━と言ったらいいか、凄まじいエネルギー感が満ちあふれる音楽づくりだ。
 ピアノも激しい盛り上がりを聴かせて、一気に曲を結んで行った。

 「アルプス交響曲」の方も、前半の登山の場面でのテンポは、かなり速い。さまざまなエピソードをじっくりと描き出すという手法でなく、大きな流れとして場面をスピーディに切り替えて行く、というスタイルの演奏だ。
 この「登山者」は、足腰の滅法強い男らしく、岩も崖も楽々と踏み越え、疾風のごとく頂上目指して登って行く。「平家物語」の悪僧・祐慶さながら、「さしもさがしき東坂、平地を行くが如き也」といったところか。

 だが、頂上での感動と歓喜の場面は実にたっぷりとして雄大だし、「嵐の中の下山」も読響のパワーが本領を発揮してなかなか凄まじい。終結近く、夕陽に燦然と輝く山の光景と、日没から夜にかけての描写はテンポを落してじっくりと壮大に描く。
 かように通して聴いて来ると、ヤングの演奏の組み立て方は、本当に巧いな、と感心する。ハンブルク・オペラのGMD(音楽総監督)として10年のキャリアを誇った彼女ならではの手腕であろう。読響も壮烈な演奏を聴かせて、これまた好調である。
     別稿 音楽の友8月号 Concert Reviews

2017・6・24(土)下野竜也指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 シティ・フィルは━━制作費の関係もあるのだろうが━━定期公演の客演指揮者には、邦人指揮者のみを招いてラインナップを組んでいる。だが、これはこれで一つの見識である。
 今日は、広響音楽総監督の下野竜也が客演した。プログラムは、フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」前奏曲、ワーグナー~ヘンツェ編の「ヴェーゼンドンク歌曲集」、ドヴォルジャークの「交響曲第6番」。コンサートマスターは戸澤哲夫。

 下野とシティ・フィルの演奏はもちろん良かったけれども、私が今日、最も心を打たれたのは、「ヴェーゼンドンク歌曲集」における池田香織の歌唱だった。
 ドイツの現代作曲家ハンス・ヴェルナー=ヘンツェがオーケストレーションを施したこの版は、モットルらが編曲した版に比べて短3度低くなっている。この低い音群を、池田香織は、素晴らしく深みのある声で歌って聴かせてくれた。第1曲の「天使」の冒頭、力のある陰翳を帯びた声が響き始めた時の衝撃は筆舌に尽くし難い。これが、昨年イゾルデを歌った同じ人の声なのかと━━。
 音域の広いことでは以前から定評のあった彼女だが、今回またもや彼女の素晴らしさを更に認識させられた。さながら、日本のワルトラウト・マイヤーといったところだろう。

 さて、下野とシティ・フィルの方も、すこぶる厚みのある音で、壮大な演奏を繰り広げていた。
 下野のドヴォルジャークの交響曲は、以前にも読響との演奏でいくつか聴いたことがある。その時と同様、今回も正面からシリアスに取り組んでいた。形式と構築に些かまとまりを欠くきらいのあるこの交響曲にさえ、がっちりとした形式性を与えてしまう感があるのが、下野の指揮である。
 これは、どういう秘策によるものか判らないけれども、要するに俗な言葉で言えば、彼の「まとめ方」がうまいということになるのだろう。

 「6番」は、「3番」「4番」とともに、ドヴォルジャークの交響曲の中では私の好きな曲だ。ゆったりと弾むように始まる、あの「七里ヶ浜の哀歌」(真白き富士の嶺)そっくりの主題からして快い。今日は、その主題をはじめとして、壮大で密度の濃い演奏が繰り広げられた。
 第1楽章の提示部をスコアの指定通り、几帳面に反復するのも彼らしい。以前、小さい子供相手のコンサートで、騒がしくなる場内をも気にせず、モーツァルトの交響曲をすべて反復指定通りに長々と演奏し、「こういう時はリピート無しでいいんじゃないの?」と疑問を呈した私に、「いや、(オリジナルの)ちゃんとした形で聴かせないと」と言い張った彼を思い出して、フッと可笑しくなった。

 シティ・フィルも堂々とした演奏だし、アンサンブルもソロもしっかりしている。本番のみならず、開演前のロビー・コンサートでの若手3人の演奏も、熱のこもったものだった。
 これだけいい演奏をしているにもかかわらず、このオケの定期は、お客の入りがいまだに不満足な状態にある、というのがなんとも残念である。フォローするファンはもちろん多いようだが、その数がもっと増えないと・・・・せめて毎回平均7割の入りまで持って行きたいところである。私がやきもきしてどうにかなるというわけではないけれども━━。

2017・6・23(金)ロジェ・ムラロ・ピアノ・リサイタル

    トッパンホール  7時

 フランスのピアニスト、ムラロのリサイタル。
 プログラムは、シューマンの「森の情景」、メシアン~ムラロの「エローに棲まうムシクイたち」、ワーグナー~リストの「紡ぎ歌」と「イゾルデの愛の死」、ドビュッシーの「練習曲集」第1集。アンコールにショパンの「夜想曲第20番嬰ハ短調」。

 ムラロらしいユニークな音づくりで、彼の感性にかかると、シューマンもワーグナーも現代音楽のような趣になる。
 ドビュッシーの「練習曲」は、もともと既に19世紀の枠から飛び出したような音楽だから、ムラロの表現主義的な演奏(誤解を恐れずに言えば、だが)で聴くと、いっそう面白い。
 しかも、「トリスタン」の音楽にある未来派的な特性が、リストの豪放な編曲を通じて表現主義に足を踏み入れたような姿で立ち現れ、それが荒々しい音響のドビュッシーの「練習曲」に繋がって行く、というコンサートの流れも興味深い。

 ムラロの激烈な演奏が、その流れをいっそう強く印象づける。そうしたプログラミングと演奏の組み合わせの巧みさが、ムラロの真髄というべきものだろう。

 なお、メシアンの「エローに棲まうムシクイたち」は、彼が1962年に初来日(小澤征爾とN響の「トゥーランガリラ交響曲」日本初演の時だろう)した時まで書きかけていて、その後未完に終ったピアノ協奏曲のピアノ・パートを、ムラロ自身が編纂した作品とのことである。この日の演奏が世界初演になるとか。
 カデンツァ風の激しい動きを伴う曲だが、今日のムラロの演奏の中では、これが最も無限の拡がりを感じさせ、印象に残るものとなった。

 それにしても、ムラロが演奏した「練習曲集」での荒々しい音響は、このホールには納まりきれぬほどだ。彼だけでなくこのホールで聴くピアニストの音は、みんなこうなる。トッパンホールは素晴らしい会場なのだが、このピアノの大音響だけは・・・・どうも苦手だ。

2017・6・22(木)飯森範親指揮山形交響楽団 東京公演

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 山響恒例の、おなじみ「さくらんぼコンサート」、ほぼ満席に近い盛況。
 今日は、音楽監督・飯森範親の指揮で、サリエリの歌劇「ファルスタッフ」序曲、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」(ソロは横山幸雄)、モーツァルトの「交響曲第40番」。アンコールはモーツァルトの「交響曲第31番《パリ》」終楽章。コンサートマスターは高橋和貴。

 先日オクタヴィア・レコードから出た飯森&山響のモーツァルト交響曲全集CDが予想を上回る見事な出来だったので(13枚組の大部とあって、未だ半分しか聴けていないのだが)、ナマ演奏では如何と期待していたのが、この「40番」。
 これも、予想をはるかに超える充実の演奏だった。アタックとアクセントが強く、鋭角的な構築で、この曲のもつ厳しい表情を浮き彫りにする。

 全集CDに入っている「40番」と違い、今回使用した楽譜は、クラリネットを加えた版である。だが、響きはまろやかになるどころか、むしろ良い意味での鋭さを増していたようだ━━山形テルサでの録音による「40番」はエコー成分が豊かであり、また弦楽器群が大編成並みに分厚く前面に出たバランスで響いているので、どちらかというと温厚な、落ち着いたクラシカルな演奏に感じられるのである。

 それに比べ、今夜聴いたナマの演奏では、管楽器群がより明晰に響き、特にナチュラル・ホルンの鋭いアタックが、アンサンブル全体を威嚇し支配するかのような強い存在感を示しているので、演奏全体が鋭角的になっていたのだ。私としてはこちらの方が先鋭的に感じられて、好みに合う。特に前半2楽章は隙のない、優れた演奏であった。

 反復個所をすべて忠実に履行しているので、演奏時間も長くなる。それかあらぬか、第3楽章以降ではその緊迫度がやや薄れたような気がしないでもなかった。特に第4楽章では全体に少しテンションが落ちたようにも感じられたが、こちらの気の所為かもしれない。

 その前に演奏された「皇帝」も、ホルンの独特の音色が目立ち、リズムも明晰なので、オーケストラ・パートもかなり角張って聞こえる。内声部の響きもはっきりしているため、普通の演奏では聞こえないような各パートの交錯が楽しめる。ただこうなると、横山幸雄の力感に富んだオーソドックスなソロとは、必ずしも調和していたとは言い難いような気もするのだが・・・・。

 ところで、サリエリの小品は・・・・。珍しいものを聴かせてもらった、と感謝はするが、作品そのものは、言っちゃ何だが、見事なほどつまらなかった。
 コンサートは、クラリネットを使った「パリ交響曲」の第3楽章が華やかに演奏されて閉じられた。

 プレトークでは、西濱秀樹専務理事・事務局長が飯森範親とともにステージに登場。締め括りに協賛社の名前を「提供クレジット」として口頭で発表するのは、彼の関西フィル事務局長だった時代からの慣行である。

 ホワイエには、CDの即売コーナーだけでなく、例のごとく山形県の物産がずらりと並んで、お米、さくらんぼ、佃煮、豆、菓子など、壮観を極める。その横には「手荷物預かり所」というデスクがあって、お客さんたちが買った土産物の袋を客席内に持ち込まぬためにという、細かい気配りも。
 今年も例年のように抽選で佐藤錦のさくらんぼを贈呈するというシステムになっており、プログラムの最後の方の頁に、モーツァルトの切手のようなシールが張ってあれば当選という形だ。私も入口の「もぎり」のところでプログラムを貰い、知人と話しながら開いて見たら、それが貼ってあったのに仰天。しかしこれは、公明正大に(?)受け取ったもので、あくまで偶然の結果だから、遠慮なく頂戴することにした。ついでに終演後、山形の特産品をいくつか買い込む。山形駅の売店でもなかなか見当たらぬような珍しいものがある。

2017・6・21(水)大野和士指揮東京都交響楽団

     東京芸術劇場コンサートホール  2時

 平日マチネーの定期は、東京でもどうやら定着したらしい。結構な客の入りだ。音楽監督・大野和士の指揮となれば尚更だろう。大雨・強風の悪天候の中でも、これだけ集まって来る。その熱心さには心を打たれる。
 今日のプログラムは、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」(ソリストはロジェ・ムラロ)、ベートーヴェンの「田園交響曲」。コンサートマスターは四方恭子。

 作品の持つ標題性のみならず、曲想の点から言っても、これは一貫性のあるプログラミングで、いかにも大野と都響らしい企画である。演奏も引き締まって、近年の都響の快調ぶりを示していた。
 もっとも、管のソロには2つ3つの危ないところもあったが━━人間のやることだから間違いはつきものだし、普段は私もこんなことには触れぬクチなのだが、何しろ今日のは、オヤこんなこともあるのかと呆気にとられるような事例だったので、つい、━━しかし都響の演奏は、全体としては極めて鮮やかで、胸のすくような出来であった。そして、その奏者も、そのあとは見事なソロを繰り広げてくれたのである。

 「牧神の午後━━」は、官能的とか夢幻的とかいった柔らかい雰囲気とは違い、もっと輪郭の明晰な表情に満ちたものだが、ドビュッシーの音楽はそんなことで揺らぐような世界ではない。
 「フランスの山人━━」は最初のイングリッシュ・ホルンの歌があまりに豊麗で朗々としていて見事なのにハッとさせられ、これで演奏の印象が決まる。ピアノはオーケストラの中央に配置され、コンチェルト・スタイルでなく、オケの楽器の一つとしての位置づけだった。ロジェ・ムラロの清澄な演奏をリサイタルに先立って聴けたのは嬉しかったが、オケは、最強奏になると、音色が粗っぽくなる。

 だが後半の「田園」になると、演奏は、実に緻密になる。この曲だけ念入りに練習したのかと思わせるような━━。本当に、驚くほど楽々と演奏されて行く、という感じである。
 このように割り切った活気のある演奏は、気持がいい。といって、勢いに任せて細部が疎かになることは決してない。それどころか、和声的にも旋律的にも、そしてデュナミークの対比の点でも、この上なく丁寧に組み立てられた「田園交響曲」というべきだろう。
 第1楽章展開部で、主題の音型が転調を重ねながらいつ果てるともなく反復されて行く個所など、大野と都響がスピーディに、かつ正確に表情を変えて行くその鮮やかさには魅了される。

 第2楽章でも、その転調の美しさにはうっとりさせられたが、━━最も美しい最弱音に陶酔しているさなかに、固い物が床に落ちる音や、2階席前方のすぐ傍から無遠慮な大きな咳が轟くとギクリとさせられてしまい、感興が削がれること夥しい。
 が、そんなことは措いて、この「田園」は、明晰で率直で、精妙さと剛直さがうまく合体した快演だったと申し上げてよいだろう。音量的にも感興的にも、全曲のクライマックスが第5楽章に置かれて効果を上げていた。
      音楽の友8月号 Concert Reviews

2017・6・19(月)読響アンサンブル・シリーズ

     よみうり大手町ホール  7時30分

 「日下紗矢子リーダーによる室内合奏団」と題し、ショスターヴィチ~バルシャイ編の「室内交響曲」(弦楽四重奏曲第3番」による)と、シューベルト~マーラー編の「死と乙女」という、重量感に富むプログラムが組まれた。

 日下紗矢子はもちろんベルリン・コンツェルトハウス管の第1コンマスであり、また兼任する読響の方は過去4年間ほどコンマスだったが、今年4月からは特別客演コンマスの肩書となっている。
 今回の弦楽アンサンブルには、瀧村依里(ヴァイオリン)や鈴木康浩(ヴィオラ)らも加わり、「室内交響曲」での管楽パートには蠣崎耕三(オーボエ)らも顔を揃えていた。

 演奏も重量級で、聴き応え充分である。どこかのアンサンブルのように、腕は確かで合奏力も完璧ながら音楽がメカニックで温かみが感じられない、などというのとは全く違い、演奏に聴き手の心を揺り動かす一種の魔性のようなものが漂っている。

 「死と乙女」など、これまで私はこの弦楽合奏版の演奏に一度も感動したことがなく、聴くたびにオリジナルの弦楽四重奏曲版の良さを懐かしく思うということの繰り返しだったのだが、今回の「日下紗矢子リーダーによる室内合奏団」の演奏に限っては、冒頭の一撃からして、そのデモーニッシュな力に愕然とさせられ、音楽に巻き込まれて行ったほどだった。
 プレトークで日下さんが話していたけれども、今回の演奏には、オリジナルの弦楽四重奏曲の楽譜にあるニュアンスをも多く取り入れていた由。

2017・6・16(金)アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィル

      東京文化会館大ホール  7時

 陽気な鬼将軍ラザレフは、首席指揮者を退いた現在では、桂冠指揮者兼芸術顧問の肩書を贈られている。
 相変わらず賑やかで慌しいステージでの挙止の親しみやすさもさることながら、彼が振ると日本フィルのアドレナリンもひときわ上昇するようで、その演奏は常に熱っぽくなるから、聴いていても楽しい。しかも、トレーナーとしても優れた手腕を持つラザレフである。彼の存在は、日本フィルにとって、今なお貴重だ。

 今日の定期は、「ラザレフが刻むロシアの魂」シリーズの一環。前半には、グラズノフのバレエ音楽「お嬢様女中」が演奏された。
 これはまた、珍しい曲をやってくれたものである。ナマで聴くのは、私も今回が初めてである。1898年に作曲された50分近い長さの作品で、まあ正直言ってさほど━━翌年作曲された「四季」ほどには出来のいい曲とも思えないけれども、ラザレフが日本フィル(コンサートマスター扇谷泰朋)から引き出した表情豊かな、躍動的な演奏は、実に多彩で、面白かった。
 こういうレパートリーを取り上げ、紹介した指揮者とオケの意欲的な姿勢は、見上げたものである。

 第2部はプロコフィエフで、「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは若林顕)と「スキタイ組曲《アラとローリー》」が演奏された。この二つも、日本の演奏会で取り上げられる機会は、意外に少ないものだろう。
 いずれも作曲者の20歳代前半、野心的で熱烈で、奔放な精神にあふれた曲想だから、ナマで聴くとすこぶる痛快である。だが、それにしても、この2曲における演奏は、良くも悪くも、かなり荒っぽいものだった。

 コンチェルトは、アシュケナージの入れたCDなどを聴くと、もう少し流れるような美しさもある曲なのだが、今日はピアノとオーケストラの猛然たる決闘の如き凄まじさを感じさせた。
 「スキタイ組曲」のほうは、もともと凶暴極まる作風であることは、ゲルギエフのCDで先刻承知だ。が、これも演奏はかなり粗っぽいところがある。なりふり構わず、遮二無二怒号咆哮しつつ突進する、という具合で━━。

 ともあれ、明日の演奏では、もう少しバランスも良くなるだろう。いつも初日の演奏が、熱意が先行してアンサンブルも粗っぽくなるのは、日本フィルのお家芸(?)だ。しかしその中でも、叙情的な個所での弱音の個所などでは、ハッとさせられるほど美しいものがあったことは確かである。

2017・6・14(水)井上道義指揮大阪フィルのマチネ・シンフォニー

      ザ・シンフォニーホール  2時

 これは文化庁関連・芸術文化振興基金の助成事後調査の仕事。コンサートを聴いて、演奏内容はどうだったか、企画の意図は達成されていたか、助成金申請の内容にふさわしいものだったか、予算に合致した内容だったか、客の入りはどのくらいだったか、などについて報告書を書く仕事だ。毎月聴く多くのコンサートの中で、平均4~6公演については、この仕事を兼ねている。

 今日は、「平日午後の名曲セレクション マチネ・シンフォニー」と題されるシリーズの第17回。ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはハオチェン・チャン)と、リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 マチネーの名曲だからと言って演奏に手を抜くことをしないのは、立派なものだ。「シェエラザード」では各楽器のソロも安定して、リムスキー=コルサコフの華麗なオーケストレーションを見事に再現していたし、とりわけチェロ・セクション(トップは近藤浩志)の音色の美しさは傑出していた。
 井上道義が多分狙っていたであろう「アラビアン・ナイトの艶麗な世界」が完璧に表出されるところまでは行かなかったかもしれないが、この「シェエラザード」がやはり良く出来た作品であり、リムスキー=コルサコフの「もって行き方」はやはり巧妙である、ということをはっきりと感じさせる井上の指揮と大フィルの演奏であったことは疑いない。

 協奏曲では、井上がすべてをリードしていたという感。どっしりとしたテンポ感で、シンフォニックに押し通す。そのため、ハオチェン・チャンのピアノが、最初は妙に端整で几帳面な雰囲気にとどまり、優等生的なコンチェルトもしくはピアノのオブリガート付きシンフォニーといった感の演奏だったが、第1楽章も展開部あたりからは、やっと闊達なヴィルトゥオーゾ的性格を発揮し始めた。

 井上と大フィルも、いくつかの個所では極度にアジタートにもなり、ソリストも猛然と燃え上がる。それでもやはり全体としては、ハオチェン・チャンは、忠実に、礼儀正しく指揮者に合わせていたような━━という印象は残るだろう。
 この曲で、このくらいオーケストラが大きく聳えまくって(?)いた演奏は初めて聴いたような気がするのだが・・・・。

 チャンは、アンコールでモーツァルトの「ソナタ第10番」の第2楽章を弾いたが、これはなかなか情感のこもった演奏であった。なお、最後に演奏されたオーケストラ側のアンコールの曲は、グリーグの「ペール・ギュント」からの「朝」。これもいい演奏だった。今日の大フィルは、弦をはじめ、音色がいい。

2017・6・13(火)METライブビューイング「ばらの騎士」

     東劇  6時

 5時半少し前に会場に着いたが、折しも昼の部の上映が終り、お客さんがゾロゾロ出て来るところ。このオペラで、こんなに大勢お客が入っていたのか、とびっくりする。初期の頃とは比較にならぬ盛況ぶりだ。すっかり人気も定着したのだろう。慶賀の至りである。

 このR・シュトラウスの「ばらの騎士」は、5月13日のメトロポリタン・オペラ上演ライヴだ。METライブビューイングとしては、これが今シーズン最後のプログラムになる。掉尾を飾るにふさわしい上演内容と言っていいだろう。

 ロバート・カーセンの新演出と、ポール・スタインバーグの装置が洒落ていて、美しい。20世紀初頭のハプスブルク時代末期のウィーンという設定で、舞台装置も壁の色から床の色まですべてが濃厚な色彩にあふれているが、しかしそこはカーセンらしく、どこかにすっきりした雰囲気が舞台全体を貫いている。
 演技が微細で隙が無いのはもちろんだが、第3幕のエンディングには工夫が凝らされ、オリジナルのト書きとはかなり異なった光景が出現する。ロングの映像であり、しかも今日はかなり後ろの方の席で観ていたので、細部はよく判らなかったけれど、とにかく意表を衝いた幕切れの光景だったのは確かだ。

 元帥夫人を歌い演じたルネ・フレミングと、オクタヴィアンを歌い演じたエリーナ・ガランチャは、ともに今回のプロダクションが、この役をやる最後であるとのこと。
 圧倒的な人気はルネ・フレミングで、METの女王とか称されるにふさわしく、カーテンコールでは歓声は飛ぶわ、ビラは降るわで、凄い熱狂だ。確かに彼女は、独特の雰囲気と魅力を備えてはいる。

 しかし、歌手としての圧倒的な存在感は、やはりエリーナ・ガランチャのものである。出番が多いということからだけではない。歌唱の安定感と演技の巧みさが傑出している。オクタヴィアンというのは、女性歌手がズボン役を演じ、それが更に「女に化ける」という演技をやる複雑な役柄だが、そのどれもが実に微細で巧いのである。彼女のオクタヴィアンが観られなくなるとは、残念なことである。

 オックス男爵はギュンター・グロイスベック。無神経で無遠慮ながら決して下品ではない、という設定は、R・シュトラウスが求めたこの役柄の表現にぴったり合っているだろう。他に、ゾフィーをエリン・モーリー、ファーニナルをマーカス・ブリュック。この日の案内役と「テノール歌手」をマシュー・ポレンザーニが兼任、本人もそれをネタに司会し、他の歌手からも盛んに持ち上げられていた。

 指揮はセバスティアン・ヴァイグレ。この人、これまでナマで聴いたオペラでは、創る音楽がどうも殺風景なのが気になっていたのだが、この「ばらの騎士」は、録音で聴く範囲では安定していて、劇的な追い込みの部分ではなかなか優れたものがあった。10時25分終映。

 今シーズンのMETライブビューイングは、これで打ち止め。来シーズンのプログラムはすでに発表されているが、全10作品の中に、モーツァルトの「魔笛」以外、所謂ドイツ・オペラが一つも入っていないとは何たること。

2017・6.12(月)深井順子プロデュース「愛死に」

      東京芸術劇場 シアターイースト  7時

 作・演出・音楽が糸井幸之介。出演は深井順子ら計14人。
 深夜の池袋、とある劇場に12人の亡霊が現われ、愛とセックスを題材に、踊り、語り、歌う。ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」第2楽章が、イメージ的モティーフとして循環主題的に流れる。

 賑やかさとブラックユーモア性とが併せ備わった、よく出来た発想の芝居だとは思うが、反面、出演者たちがいわゆる咽喉声でセリフや歌を絶叫しまくるのは、正直言って聞き苦しい。特に狂言回し的な「劇場に闖入した若者」役の2人の不必要な金切声のうるささには耳を覆いたくなり、途中で帰ろうかと何度思ったことか。

 しかしこの芝居は、最後の最後まで観ないと━━つまり、騒々しかった亡霊たちが静かに棺桶の中に戻って行き、「劇場内に誰もいなくなった」場面まで観ないと、タイトルの意味を真に受容体験することはできない。
 そしてそこまで観てしまえば、人生を早送りで体験したかのような、何とも形容し難い寂寥感に打ちひしがれるとともに、芝居を観終った満足感に浸ることもできるというわけなのである。
 8時50分終演。

2017・6・11(日)愛知祝祭管弦楽団「ヴァルキューレ」

      愛知県芸術劇場 コンサートホール  3時

 アマチュア・オーケストラの愛知祝祭管弦楽団(団長・佐藤悦雄)が挑む、昨年9月11日の「ラインの黄金」に続く「指環ツィクルス」第2回。
 昨年同様セミ・ステージ形式上演で、ハープ6台を加えたフル編成の本格的な演奏である。コンサートマスターは高橋広(副団長)。

 音楽監督・三澤洋史が、今年も彼らプレイヤーたちを見事に巧くまとめた。音楽的には、素っ気ないほどイン・テンポで畳み込む指揮だが、ワーグナーのオペラに必要な緊迫感や情感は充分に備わっている。特に第2幕後半における劇的感覚には優れたものがあった。

 東京ではかつて「あらかわバイロイト」の例があったにしても、アマ・オケが「指環」全曲上演を試みること自体、大変な偉業に違いない。だがアマ・オケ特有の熱気で、「火事場のナントカ」というのか、いざ本番となると体当たり的な快演を聴かせるのが立派だ。請負仕事でオペラをやるプロのオケなどよりも、遥かに勢いのある演奏を聴かせてくれる。
 第1幕冒頭の嵐の音楽から、重厚な弦の響きが凄い勢いで噴き出して来て、これはいける、という雰囲気に聴衆を巻き込んでしまうのである。

 もちろん、勢いに乗って力任せになり過ぎるところ(第3幕)もあるし、もう少し練習すれば何とかなるだろうになあ、と思わせるところも、ないでもない。
 「ラインの黄金」とは比較にならぬほど精緻複雑なオーケストレーションをもつ「ヴァルキューレ」の音楽であれば、オケ全体のバランスやアンサンブル、管のソロなどには、いろいろ問題も目立って来る。特に第3幕では、金管の重要なモティーフが全く浮き出て来ない個所も少なからずあった。

 一例をあげれば、ヴォータンに一喝されてヴァルキューレたちが逃走して行く場面でホルンやトランペットなどが吹く、ばらばらになって遠ざかって行くはずの「ヴァルキューレの動機」がほとんど明確に聞こえなかった、という類だ。
 また、気負いのせいか、モティーフやフレーズが前のめりになって、何分の1拍か先に出てしまう━━ように聞こえる━━個所が数多くあり、したがってリズム感が曖昧になるということも多かった。

 こういう点、アマ・オケといえど、おカネを取って聴かせるからには、演奏には責任があるだろう。
 ━━とはいえ、心情的には、前述のように演奏の熱気が並大抵のものではないため、微笑ましく聴いてしまうのは事実だが。

 全体の中では、第2幕が最も優れた演奏だった。特に後半の「死の告知」がこれだけ美しく、しかも心の籠った演奏に感じられた例は、私の聴いた範囲では、決して多くない。たとえ他の個所の演奏にあれこれ問題があったとしても、この「死の告知」の場面ひとつで、今回の公演を「成功」と断言したくなる。

 今回の歌手陣は次の通り━━ジークムントを片寄純也、ジークムントを清水華澄、フンディングを長谷川顯、ヴォータンを青山貴、ブリュンヒルデを基村昌代、フリッカを相可佐代子。そしてヴァルキューレたちを大須賀園枝、西畑佳澄、上井雅子、船越亜弥、森季子、山際きみ佳、三輪陽子、加藤愛。以上のうち7人が、昨年の「ラインの黄金」に続いての登場である。

 清水華澄の豊麗な声と豊かな情感は、第1幕後半をリードして圧巻であった。片寄純也は前述の「死の告知」の場面での歌唱が際立ち、特に「ヴァルハルへは行かぬ!」と宣言するあたりの迫真力にはずば抜けていた。
 青山貴のヴォータンは、もう今では当たり役である。

 ブリュンヒルデの基村昌代は名古屋二期会会員としてキャリアのある人だが、私はもしかしたら今回初めて聴いたかもしれない。
 第2幕冒頭の「ホー・ヨー・ト・ホー」を聴いた時には、綺麗な声だなと思ったものの、ブリュンヒルデとしてはちょっと声が軽すぎるかな、と思わないでもなかった。だがどうして、第2幕中盤以降は立派なもので、「ヴォータンの愛娘にして初々しい年頃の勇敢なヴァルキューレ」としてのブリュンヒルデを完璧に歌ってくれたのであった。東京の舞台でも聴きたい人である。

 フンディングの長谷川顯は重厚な声で、昨年のファーゾルト役と同様に凄味のある歌唱。第2幕最後にヴォータンの罵声を浴びた挙句、フリッカの前に大音響を立てて倒れ死ぬ演技は、この場面の劇的効果を一層高めたものとして、休憩時のホワイエでも話題となっていた。
 相可佐代子は、昨年も同じように感じたのだが、強いヴィブラートが違和感を覚えさせるし、声がまっすぐに飛んで来ないのが気になる。そしてヴァルキューレたちはオルガンの下の高所で歌っていたが、しかし、あのオーケストラの気負った猛烈な咆哮の中では、聞こえろというほうが無理だろう。

 演出は、昨年に続き佐藤美晴である。オーケストラの後方に小型の舞台を設置し、さらにオルガン前の席をも活用した舞台構成だ。
 ただ、先頃の日本フィルのセミ・ステージ形式上演「ラインの黄金」でも、簡にして要を得た演技空間を鮮やかにまとめた彼女の本領は、今回はなぜか、残念ながらほとんど発揮されていなかった。ジークムントがとねりこの樹から霊剣ノートゥングを引き抜くはずの劇的な場面も、後ろに置いてあった小道具を取り上げるといった演技で、これでは「山場」にならない。僅かに加えられていた照明演出も、操作は概ねスムースではなかった。練習(か打合せか)の時間が不足だったとみえる。

 だが、第2幕の幕切れに、フリッカ1人を最後まで舞台に残したのは、この悲劇的な幕全体がフリッカの影に覆われているというドラマトゥルグを明確に象徴したものとして、良いアイディアだと思う。第3幕でヴァルキューレたちがヴォータンに一喝されて逃散する場面で、単に演奏会形式的にオルガン横のドアから退場するというのではなく、暗いバルコニー席の中をあたふたと逃げて行く━━というユーモアは秀逸であった。

 20分の休憩2回を含み、8時終演。
 来年の「ジークフリート」は9月2日の由。この愛知県芸術劇場が工事のため休館期間に入るので、御園座という会場を使うとのこと。オーケストラの演奏会場ではないのがちょっと気になるけれども、引続き頑張っていただきたい。

2017・6・9(金)N響 MUSIC TOMORROW 2017

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ローレンス・レネスが指揮するNHK交響楽団が演奏した今回のプログラムは、岸野末利加の「オーケストラのための《シェイズ・オブ・オーカーShades of ochre》」(N響委嘱作品、日本初演)、マーク・アントニー・ターネジの「ピアノ協奏曲」(日本初演)、一柳慧の「交響曲第10番さまざまなー思い出の中に―岩城宏之の追憶に」(今年の尾高賞受賞作品)、池辺晋一郎の「シンフォニーⅩ(=第10番)《次の時代のために》」(同)という力作ぞろい。協奏曲でのソロは反田恭平。

 岸野末利加(きしの まりか)は、かつてIRCAM研究員を務めたこともある女性で、今年完成されたこの「シェイズ・オブ・オーカー」は、大きな流れの中に鋭く短い起伏が連続する強靭な力を持った曲だ。
 あたかも火星かどこかの地表に、尖った石があちこちに転がっている、といった光景を連想させるような荒々しさ。だが、これが実にカラフルな多彩さを感じさせ、すこぶる魅力的なのである。プログラムに載っている彼女自身のメモを読んで、オーカー(オークル)は南仏などにある赤土、黄土であることを教えられ、なるほどと思った次第。「オークルの陰翳」とは、言い得て妙である。そして「時間のカンバスに顔料を飛び散らせ、塗り付け、垂らす・・・・」という彼女の文章の中の表現も、まさにそれにぴったり合ったイメージの曲だなと感心した。

 実は今夜演奏された4曲の中で、私にはこれが一番面白かったのだが・・・・。
 ただ、これは演奏のせいだったかもしれないが、楽曲の構成において、そういう音景の連続が、次第に少し単調に感じられて来るきらいも、なくもなかった。もしくは、楽曲の構成上の問題かもしれない。

 英国の作曲家ターネジは、今夜の演奏会ではゲスト作曲家とでもいう存在か。
 荒々しく力動的な両端楽章には、時たまガーシュウィンの亡霊が出没するといった感もある。ほとんど出ずっぱりのピアノ・ソロはエネルギッシュだ。その中にあって、ヘンツェへの追悼曲でもある第2楽章は、叙情的で美しい。

 一柳慧の新作では、「打楽器奏者でもあった岩城宏之さんのイメージも組み込まれている」との表現(ブックレット掲載の自身の解説)どおり、ティンパニをはじめとする打楽器が活躍するのが、何となく微笑ましい。
 曲自体からは、故・岩城さんの顔や雰囲気は私にはあまり浮かんで来ないけれども、厳めしい序奏(フランクの「交響変奏曲」の冒頭を思い出させた)と、極めて闊達な主部との対比が際立っており、その主部におけるちょっとスケルツァンドな雰囲気の曲想が、敢えて言えば岩城氏の・・・・。
 なおこれは昨年作曲されたものとのこと。1933年生れの一柳氏が今なお失わない音楽のエネルギーは、まったくたいしたものである。

 池辺晋一郎の新作交響曲は、今日の各作品の中で、最大の音量で轟いた。明るさを失わぬ分厚い響層の音楽は、彼ならではのものである。
 終結近く、壮烈なクレッシェンドで最強奏に達したあとに鳴り渡る鐘の音が、彼の言う「次の時代のため」の響きなのだろう。それにしても、現代に在って、こういうヒューマニズムを、衒わず、躊躇わず、率直に語る彼のような作曲家の存在は、むしろ貴重ではあるまいか。
 これは仙台フィルからの委嘱作品で、武満徹作品の演奏会(昨年1月19日)で一緒に演奏されたものの由。武満徹へのオマージュを兼ねているとのことである。

 ローレンス・レネスという人は初めてナマで聴いたが、なかなかいい指揮者だ。オランダ出身で、今年47歳という。

2017・6・3(土)山田和樹&日本フィル マーラー・ツィクルス第8回

     Bunkamuraオーチャードホール  5時

 「第8番《千人の交響曲》」。
 協演は栗友会合唱団、武蔵野合唱団、東京少年少女合唱隊、声楽ソリストは林正子、田崎尚美、小林沙羅、清水華澄、高橋華子、西村悟、小森輝彦、妻屋秀和。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 「8番」は、以前にも書いたけれども、私にはマーラーの交響曲の中では最も苦手な作品なのである。それは、第1部の絶え間ない絶叫調の楽想のせいなのだが。
 この声楽パートとオーケストラの大音響を、耳を聾する音の連続でなく、豊麗な音色と起伏感で構築して行くことができた演奏には、なかなか出くわさない。もちろん、ホールと、その聴く席の位置にもよるだろうが━━。先日の京都コンサートホールでの広上淳一と京都市響の演奏は、その点では実に均整が取れていたという気がする。特に声楽とオーケストラのバランスの点で、それは極めて優れたものだった。

 今日の演奏では、初日ということもあってか、合唱もソリストたちもかなり勢い込んで歌っていたような感がある。特に合唱は最初のうち強声が硬質で、少々たじろがされた。
 だが、第2部になれば、曲想も大きく変わり、絶叫一辺倒ではなく、起伏も豊かになる。したがって、演奏の細部も見えて来る。そしてこの第2部の、特に中盤以降、浄化されたような世界をオーケストラが柔らかく描き出すあたりからの演奏は、はっとさせられるほど美しかった。山田和樹と日本フィルの最も良い面が、ここで鮮やかに発揮されたと言っていいだろう。

 大詰は、上手側と下手側の前方バルコニー席に配置された金管バンダを加えての大歓呼である。山田も指揮棒を客席にすっ飛ばしての熱演であり━━飛ばしたところは見ていなかったが、拾ったお客さんがカーテンコールの際にマエストロへ返していた光景を見て、それと気がついた━━かたや日本フィルのほうも、総力を挙げての演奏だった。ここはもう、全員がなりふり構わず熱狂の演奏をしていた、といっていいかもしれない。

 このラストシーンにおける今日の演奏が、しかし、前述の広上と京響、あるいは先年のミューザ川崎でノットと東京響がつくり出したような完璧な音のバランスによる陶酔的なハーモニーという域には達していなかったのは事実だ。が、これは、ホールの構造的制約から来るバンダの位置などのせいで、仕方がない。

 総じて山田和樹の指揮するこの「千人の交響曲」の演奏は、宏大無辺な世界への祈りとか呼びかけといったものよりは、健康な若者の青春の讃歌ともいうべきイメージを感じさせる。それは30年前の、小澤征爾と新日本フィルの演奏に、ある面で共通するところがあるだろう。

 ソリスト歌手陣がみんな快調で、特に若い世代が活躍していたことは嬉しい。第2部では、女声陣はみんな音楽に没入し、陶酔感を以って歌っていたように見えた。もっとも、沸き立ち轟く大音響の中に埋没しないようにと必死で歌っているような雰囲気もないとはいえなかったが・・・・。
 一方、これまでは福井敬で聴き慣れたテノールのパートを、西村悟が若々しい声で歌っていたのも、新世代の抬頭を見るようで頼もしいことであった。

 今シリーズで、マーラーの作品に先立って演奏されている武満徹の作品は、今日は「スター・アイル」(星・島)。
 この「星」と、「宇宙が鳴り響くような」(作曲者の表現)の「8番」とを関連させたアイディアも面白いが、それよりも前述の健康な青年の讃歌ともいうべき山田のマーラーと、武満がこの曲に籠めた「巣立ち行く若者の希望」に寄せたイメージとの共通性も興味深いだろう。
    別稿 モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews

2017・6・1(木)新国立劇場「ジークフリート」初日

      新国立劇場オペラパレス  4時

 新国立劇場の「指環」の第3作。指揮は芸術監督・飯守泰次郎。シュテファン・グールド(ジークフリート)、グリア・グリムズレイ(さすらい人)、リカルダ・メルベート(ブリュンヒルデ)他の歌手陣で上演。

 ゲッツ・フリードリヒのこの「指環」での演出は、ゴットフリート・ピルツの舞台美術を含め、どうも作品ごとにムラがあるのではないか。「ラインの黄金」での舞台の凡庸さは「ヴァルキューレ」で何とか払拭され、名誉挽回かと思われた(もっとも、かなり手直ししたらしい)が、この「ジークフリート」ではまた、あやふやな水準に戻ってしまった感がある。

 第1幕は未整理ながらも、宝剣ノートゥングの再生に関しては、ミーメの下手糞な機械操作による鋳造作業より、自然児ジークフリートの手造り作業の方が遥かに上━━ということを多分主張したいのだろうと推察されたが、舞台の緊密度がどうも低すぎる。ただこれは、2回目の上演以降には、ある程度解決される可能性はあるだろうと思う。
 だが、第2幕となると・・・・「大蛇」は何とも玩具じみているし、歌手1人とダンサー1人の計4羽集団になった「小鳥」たちの格好は、趣味の違いは別としても、どう見てもあまりサマにならぬスタイルである。これでは、拍手も少々おざなりにならざるを得ない。

 第3幕後半(岩山の上)は、「ヴァルキューレ」第3幕の舞台に近くなる。中央の「台」と、両側の壁の他には、猥雑物のない光景だ。むしろこの方が、まとまりを感じさせたのではないか。
 ともあれ、この第3作まで観たところでは━━フリードリヒの演出としては、ベルリン・ドイツオペラで制作された所謂「トンネル・リング」に比べると、水準にはどうやら大きな差がある。制作費の関係もあってこのような程度のプロダクションを持って来なければならなかった芸術監督の苦衷も察したいとは思うけれども━━。

 今回ピットに入ったオーケストラは、東京交響楽団である。別に悪い意味で言っているわけではないけれども、このオケは、本質的にワーグナーにはあまり向いていないのではないかという気がする。 以前ここで演奏した「さまよえるオランダ人」もそうだったが、これまで成功した例があるとは言い難い。
 今日も、第1幕では慎重に構え過ぎたか、重量感とスケール感に乏しく、最強音も硬く、弱音も瑞々しさに不足するきらいがあった。

 ただ、第2幕の「森のささやき」などでは美しい雰囲気を醸し出していたし、第3幕ではオーケストラ全体に、量感も力感も出て来ていたようにも思われた。第3幕のワーグナーのオーケストレーションは、第2幕までのそれとは大きく違うから、その所為もあるとは思うが、、いずれにせよ第3幕ではオケの鳴りがかなりよくなったことは、たしかだろう。ブリュンヒルデの心が和らいだ時からの「純潔の動機」の個所なども、弦には豊かなふくらみが戻って来ていた。
 それゆえ、もしかしたら2日目以降の上演では、全体に持ち直すかもしれない。
 とはいえ、第2幕の「ジークフリートの角笛」のホルンは・・・・やはり不可ない。溜息が出てしまう。

 飯守泰次郎の指揮は、今日の演奏だけ聴くと、第1幕では抑制し、第3幕に雄大な頂点を持って来る意図というところだろうが、その他の点に関しては、オーケストラの出来から言ってその意図が完全に達成されていたとも言い難いだろう。

 主役歌手陣は、程度の差こそあれ、いずれも佳い味を聴かせてくれた。
 シュテファン・グールド(ジークフリート)は、第1・2幕での放埓な少年と、第3幕で「怖れを知った」あとの若者とを極めて明確に演じ分けた。ほとんど出ずっぱりのこの超人的な役柄を疲れも見せず、最後の強靭な愛の二重唱までを強靭に歌い上げたのは流石というほかはない。
 リカルダ・メルベート(ブリュンヒルデ)は、出番こそ短いものの、目覚めた乙女に相応しい明るい声で、途中の髙いH音と、最後の髙いC音とを輝かしく響かせた━━特に後者では、朗々と長く延ばして聴かせどころをつくった。ブリュンヒルデ自身にも、ジークフリートにも、新しい世界が開けるだろう━━そうした期待をはっきりと示す歌唱だった。

 グリア・グリムズレイ(さすらい人)は、今日はちょっと声が粗く、特に第3幕第1場では━━いくらヴォータンが焦りの心境にあったにしても━━音程さえ判別できぬほどの荒々しい歌い方をする必要もないと思われたが、如何なものか。
 アンドレアス・コンラッド(ミーメ)は、狡猾な、というよりは必死で知恵を絞るいじらしい小者といった巧い歌唱と演技。
 トーマス・ガゼリ(アルベリヒ)は、ヴォータンに切り落とされた右手首に鈎をつけた凄愴な姿で駆けずり回っていたが、彼の歌唱にもうほんの少し凄味があれば、さすらい人やミーメと対峙して相手の行動の矛盾を論理的に突く迫力がいっそう明確に出たろうと思われる。

 クリスティアン・ヒューブナー(大蛇ファーフナー)は、巨人時代のヘルメットをかぶったまま現われたのがご愛敬だが、このような演出はどこかで見たことがある。クリスタ・マイヤー(エルダ)は短い出番ながら存在感充分で、第3幕前半を立派に引き締めた。
 なお、「小鳥」は、鵜木絵里、吉原圭子、安井陽子、九嶋香奈枝が順に歌っていたが、大木にぶら下がったような無理な姿勢のせいか、みんな妙にヴィブラートが強すぎ、「可愛い小鳥」のイメージとは程遠く、おしつけがましくなってしまったようである。

 ━━以上が初日の模様である。45分の休憩時間2回を含め、終演は9時40分頃。
 長丁場なので、休憩時間には、ホワイエに並んだ売店が賑わっていた。特に第2幕のあとではカレーライスだかハヤシライスだかが大人気で長蛇の列。漸く行列が消えたので、せめてそのカウンターで売っているソーセージ・セットだけでも・・・・と行ってみたら、残ったソーセージはたった3本、ザワークラウトがちょうど前の人の分で全部なくなってしまい、仕方なく諦める。

※追記 字幕は三宅幸夫さんのもの。安定した、主語も起承転結も明確な文体で、安心して視ていることができた。なお、次作「神々の黄昏」でのオーケストラは、同劇場サイトによれば読響で、飯守さんとは東京二期会の「パルジファル」の協演で成功しているから期待できよう(新国のプログラムでは東京フィルとなっていたので驚いたが、どうやら間違いだったらしい)。

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