2017・4・15(土)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団
東京芸術劇場 コンサートホール 6時
渋谷から池袋に移動。このハシゴをした人も、少なくなかったらしい。
プログラムは、メシアンの「忘れられた捧げもの」、ドビュッシーの交響的断章「聖セバスティアンの殉教」、バルトークの「青ひげ公の城」(演奏会形式)という大規模なもの。コンサートマスターは小森谷巧。
カンブルランのフランスものは、さすがに見事としか言いようがない。洗練された味とかいったものは、日本のオケだからそう簡単に出せるものではないが、輝かしさ、色彩の鮮やかさなどは、充分に出すことは出来る。何しろ、読響が素晴らしく上手いのである。
メシアンの「忘れられた捧げもの」では、その鮮やかな色彩の変化、強弱の対比、熱狂と敬虔さの交錯、という美点が、華麗に表出された。これぞカンブルランと読響の数年にわたる共同作業の結実である。1月の「彼方の閃光」も優れた演奏だったし、この調子で行くと、秋の「アッシジの聖フランチェスコ」全曲上演は、さぞや圧巻の演奏になるのではなかろうか。
「聖セバスティアンの殉教」でも、冒頭のファンファーレの均衡豊かな決まりようには感心した。2つあるファンファーレは1つのみに短縮されたが、これなら全部やって欲しかった、と思ったくらいである。
この日の眼目たるオペラ「青ひげ公の城」は、私の最も好きなオペラの一つである。
ところが、これが今回は、暗鬱で重苦しい心理の襞の濃いドラマというより、これ以上はないと思われるほど、豪華絢爛な大絵巻物といった感の演奏になった。「第6の扉」の個所における陰鬱で不気味な「涙のモティーフ」が、妙に明るく鋭く煌めいて聞こえたことは、その端的な例である。これは、作品の性格からして、疑問が無くもない。こんな華麗な「青ひげ公の城」があったか?
とはいえ、「血のモティーフ」や、ユディットのヒステリックな感情を象徴する強奏個所などにおける表情の鋭さは、常ならぬほど劇的だった。また「第5の扉」における、バンダ(オルガンの下に並ぶ)を加えての輝かしい、壮大無比な音の饗宴なども、これはこれで悪くはないだろう。
いずれにせよ、このふだんは渋いオペラが、これほどダイナミックかつスペクタクルで、「面白い」ものとして聴けたのは、私には初めてのことである。そして、読響の上手さが、あらゆる個所で印象に残った。
歌手2人は、指揮台の両側にそれぞれ位置する(吟遊詩人の台詞は省かれている)。
青ひげ公の役はバリント・ザボ。ハンガリー生まれで、この役を得意としている由。事実、暗譜で歌っていた。頻繁に水を飲んでいたのは、あるいは本調子でなかったのか?
しかしもともと青ひげ公というキャラクターは、朗々と歌う役柄ではなく、むしろ抑えた声で、孤独と苦悩をモノローグ風に歌うものである。この役を得意としているという彼なら、その枠をはみ出すはずもなく、従ってふつう以上に華麗豪壮に轟くオーケストラ相手にバランスを取るのは、難しかったのではなかろうか。
一方のユディットを歌ったイリス・フェルミリオンは、譜面を見ながらの歌唱だが、持ち前のよく通る美声で朗々と歌い、ユディットの情熱と、焦りと、ヒステリックなほどの自己主張を見事に表現し、すこぶるドラマティックな音楽をつくり出していた。
顔や腕の動きにも最小限の必要な演技を加え、新しい扉が開くごとにその表情を変化させる。幕切れで青ひげの「第4の女」になってしまう絶望感━━生ける屍となる模様までをも、巧みに表現していたのである。
歌手たちのこういう好演をも含めて、この「青ひげ公の城」は、たった1回の演奏ではもったいないほどの、優れた演奏であった。
ただし、問題が二つ。まず、前半でユディットがドアをたたいた時に流れるはずの「長い廊下を吹き抜ける風のような不気味な溜息」の効果音が使われなかったことは、音楽や歌詞との整合性の上で、やはり不都合なのではないか?
もう一つ、今回の字幕は━━製作者についてのクレジットが無いが━━ドラマの流れと、登場人物の心理的ニュアンスの表現の上で、大いに不満が残る。意味の通じないところも、いくつかあったのである。
たとえば(うろ覚えだが)、青ひげの歌詞の中に「この城の土台が揺れる・・・・どの扉を開けても閉めてもよい」という文章があったように記憶する。これは、完全に意味が違う。「土台が揺れる」などというのは詩情のない表現だし、「すべての扉を開けても閉めてもよい」では、ドラマのストーリーからみても矛盾している。
ここはやはり、一般に使われているように、「扉を開けても閉めても城は揺らぐのだ」の方がはるかに「城=青ひげの存在そのもの」と、「扉=覗かれたくない彼の心」とを深層心理的に表す文章となるはずである。
字幕は、いわば演出の一つだ。ドラマの本質まで描き出してくれるような字幕に出会った時には、音楽と併せて本当に感動するものである。だが時には、音楽をよく聴かないで、あるいは実際にそのオペラをちゃんと研究しないまま、登場人物の心に共感することのないまま、詩情のセンスも何もないままに作ったのではないか、と思われるような字幕にお目にかかることがある。嘆かわしいことである。
☞別稿 音楽の友6月号 Concert Reviews
渋谷から池袋に移動。このハシゴをした人も、少なくなかったらしい。
プログラムは、メシアンの「忘れられた捧げもの」、ドビュッシーの交響的断章「聖セバスティアンの殉教」、バルトークの「青ひげ公の城」(演奏会形式)という大規模なもの。コンサートマスターは小森谷巧。
カンブルランのフランスものは、さすがに見事としか言いようがない。洗練された味とかいったものは、日本のオケだからそう簡単に出せるものではないが、輝かしさ、色彩の鮮やかさなどは、充分に出すことは出来る。何しろ、読響が素晴らしく上手いのである。
メシアンの「忘れられた捧げもの」では、その鮮やかな色彩の変化、強弱の対比、熱狂と敬虔さの交錯、という美点が、華麗に表出された。これぞカンブルランと読響の数年にわたる共同作業の結実である。1月の「彼方の閃光」も優れた演奏だったし、この調子で行くと、秋の「アッシジの聖フランチェスコ」全曲上演は、さぞや圧巻の演奏になるのではなかろうか。
「聖セバスティアンの殉教」でも、冒頭のファンファーレの均衡豊かな決まりようには感心した。2つあるファンファーレは1つのみに短縮されたが、これなら全部やって欲しかった、と思ったくらいである。
この日の眼目たるオペラ「青ひげ公の城」は、私の最も好きなオペラの一つである。
ところが、これが今回は、暗鬱で重苦しい心理の襞の濃いドラマというより、これ以上はないと思われるほど、豪華絢爛な大絵巻物といった感の演奏になった。「第6の扉」の個所における陰鬱で不気味な「涙のモティーフ」が、妙に明るく鋭く煌めいて聞こえたことは、その端的な例である。これは、作品の性格からして、疑問が無くもない。こんな華麗な「青ひげ公の城」があったか?
とはいえ、「血のモティーフ」や、ユディットのヒステリックな感情を象徴する強奏個所などにおける表情の鋭さは、常ならぬほど劇的だった。また「第5の扉」における、バンダ(オルガンの下に並ぶ)を加えての輝かしい、壮大無比な音の饗宴なども、これはこれで悪くはないだろう。
いずれにせよ、このふだんは渋いオペラが、これほどダイナミックかつスペクタクルで、「面白い」ものとして聴けたのは、私には初めてのことである。そして、読響の上手さが、あらゆる個所で印象に残った。
歌手2人は、指揮台の両側にそれぞれ位置する(吟遊詩人の台詞は省かれている)。
青ひげ公の役はバリント・ザボ。ハンガリー生まれで、この役を得意としている由。事実、暗譜で歌っていた。頻繁に水を飲んでいたのは、あるいは本調子でなかったのか?
しかしもともと青ひげ公というキャラクターは、朗々と歌う役柄ではなく、むしろ抑えた声で、孤独と苦悩をモノローグ風に歌うものである。この役を得意としているという彼なら、その枠をはみ出すはずもなく、従ってふつう以上に華麗豪壮に轟くオーケストラ相手にバランスを取るのは、難しかったのではなかろうか。
一方のユディットを歌ったイリス・フェルミリオンは、譜面を見ながらの歌唱だが、持ち前のよく通る美声で朗々と歌い、ユディットの情熱と、焦りと、ヒステリックなほどの自己主張を見事に表現し、すこぶるドラマティックな音楽をつくり出していた。
顔や腕の動きにも最小限の必要な演技を加え、新しい扉が開くごとにその表情を変化させる。幕切れで青ひげの「第4の女」になってしまう絶望感━━生ける屍となる模様までをも、巧みに表現していたのである。
歌手たちのこういう好演をも含めて、この「青ひげ公の城」は、たった1回の演奏ではもったいないほどの、優れた演奏であった。
ただし、問題が二つ。まず、前半でユディットがドアをたたいた時に流れるはずの「長い廊下を吹き抜ける風のような不気味な溜息」の効果音が使われなかったことは、音楽や歌詞との整合性の上で、やはり不都合なのではないか?
もう一つ、今回の字幕は━━製作者についてのクレジットが無いが━━ドラマの流れと、登場人物の心理的ニュアンスの表現の上で、大いに不満が残る。意味の通じないところも、いくつかあったのである。
たとえば(うろ覚えだが)、青ひげの歌詞の中に「この城の土台が揺れる・・・・どの扉を開けても閉めてもよい」という文章があったように記憶する。これは、完全に意味が違う。「土台が揺れる」などというのは詩情のない表現だし、「すべての扉を開けても閉めてもよい」では、ドラマのストーリーからみても矛盾している。
ここはやはり、一般に使われているように、「扉を開けても閉めても城は揺らぐのだ」の方がはるかに「城=青ひげの存在そのもの」と、「扉=覗かれたくない彼の心」とを深層心理的に表す文章となるはずである。
字幕は、いわば演出の一つだ。ドラマの本質まで描き出してくれるような字幕に出会った時には、音楽と併せて本当に感動するものである。だが時には、音楽をよく聴かないで、あるいは実際にそのオペラをちゃんと研究しないまま、登場人物の心に共感することのないまま、詩情のセンスも何もないままに作ったのではないか、と思われるような字幕にお目にかかることがある。嘆かわしいことである。
☞別稿 音楽の友6月号 Concert Reviews
2017・4・15(土)インキネン指揮日本フィル ブラームス:3番、4番
BUNKAMURAオーチャードホール 2時
首席指揮者ピエタリ・インキネンのもと、ブラームスの交響曲ツィクルスの一環で、今日は「第3番」と「第4番」。コンサートマスターは木野雅之。
日本フィルをこのオーチャードホールで聴く機会は、あまりない。唯一、山田和樹指揮の「マーラー/武満シリーズ」はここで開催されているけれども、日本フィルのふつうの「落ち着いた雰囲気」(?)の定期演奏会を聴くのは、今回が初めてかかもしれない。
だが、インキネンのもと、日本フィルは、このオケがこれまであまり聴かせなかったような、しっとりとして余裕のある、重厚でスケールの大きい、精緻に設計された演奏を繰り広げ、「慣れない」このホールを見事に鳴らしてみせた。最近の日本フィルは、こういう幅広さを出せるようになった。めでたいことである。
インキネンは「3番」と「4番」を、ともにストレートに、外連の一切ない構築で指揮してみせた。
たとえば老獪な故マゼールとか、一癖も二癖もあるパーヴォ・ヤルヴィなどがこの2曲を一つのコンサートで指揮した時には、片方の曲を劇的に激しく、もう一方を整然と構築するというように、プログラムの中で大きな対比をつくったものだった。しかしそんな演出をやらずに、2曲とも真っ正直にやるところが、インキネンなのだろう。
2曲とも遅めのイン・テンポで押し通す。変化は、デュナミーク、音色、表情などに反映して行くという手法だ。事実、それは実にうまく行っていた。
「3番」は、ブラームスの交響曲の中では私が一番好きな曲なのだが、第1楽章が始まった時、何といい曲だろうと思わされた。いくら好きな曲でも、そう感じさせてくれる演奏に、毎回巡り合えるとは限らない。
インキネンは、何一つあざとい細工や演出を加えることなく、滔々と押した。フルトヴェングラーのような、巨大な世界が揺れ動くような演奏にも圧倒されるが、今日のように、たっぷりとした響きで悠然と歩みを進めて行く演奏も、いい。それは決して老成した演奏ではない。あくまで若々しく、すっきりした表情がこもっているのである。あの美しい憂愁のこもった第3楽章をも、彼らは真摯に演奏してくれた。
「4番」に入った時は、前記のような指揮の特徴から、もしかしたらこれも「3番」と全く同じアプローチでやるのか、と、ちょっと心配になったのは事実だったが、やはり曲想の影響もあって、こちらの方が劇的な表情もおのずから出て来る。第1楽章や第3楽章での終結に向けての追い込みは、聴き応えがあった。
さらにいっそう見事だったのは、第2楽章と第4楽章である━━内声部が明晰な形を採りつつ、あざやかに交錯して行き、ブラームスの音楽ならではの精緻な綾をつくり出すことに成功していたのだった。いい曲だ、と心から感じさせられた。
まあ、こういう演奏はしかし、良い指揮者と良いオケなら、必ずやるものである。だが、長年の間、荒っぽいパワーで鳴らしていた日本フィルが、とうとう━━というか、再びというか、つまり60年前の創立直後の渡邉暁雄時代を思い出させる━━このような演奏スタイルを取り戻した・・・・それだけでも嬉しいことではなかろうか?
首席指揮者ピエタリ・インキネンのもと、ブラームスの交響曲ツィクルスの一環で、今日は「第3番」と「第4番」。コンサートマスターは木野雅之。
日本フィルをこのオーチャードホールで聴く機会は、あまりない。唯一、山田和樹指揮の「マーラー/武満シリーズ」はここで開催されているけれども、日本フィルのふつうの「落ち着いた雰囲気」(?)の定期演奏会を聴くのは、今回が初めてかかもしれない。
だが、インキネンのもと、日本フィルは、このオケがこれまであまり聴かせなかったような、しっとりとして余裕のある、重厚でスケールの大きい、精緻に設計された演奏を繰り広げ、「慣れない」このホールを見事に鳴らしてみせた。最近の日本フィルは、こういう幅広さを出せるようになった。めでたいことである。
インキネンは「3番」と「4番」を、ともにストレートに、外連の一切ない構築で指揮してみせた。
たとえば老獪な故マゼールとか、一癖も二癖もあるパーヴォ・ヤルヴィなどがこの2曲を一つのコンサートで指揮した時には、片方の曲を劇的に激しく、もう一方を整然と構築するというように、プログラムの中で大きな対比をつくったものだった。しかしそんな演出をやらずに、2曲とも真っ正直にやるところが、インキネンなのだろう。
2曲とも遅めのイン・テンポで押し通す。変化は、デュナミーク、音色、表情などに反映して行くという手法だ。事実、それは実にうまく行っていた。
「3番」は、ブラームスの交響曲の中では私が一番好きな曲なのだが、第1楽章が始まった時、何といい曲だろうと思わされた。いくら好きな曲でも、そう感じさせてくれる演奏に、毎回巡り合えるとは限らない。
インキネンは、何一つあざとい細工や演出を加えることなく、滔々と押した。フルトヴェングラーのような、巨大な世界が揺れ動くような演奏にも圧倒されるが、今日のように、たっぷりとした響きで悠然と歩みを進めて行く演奏も、いい。それは決して老成した演奏ではない。あくまで若々しく、すっきりした表情がこもっているのである。あの美しい憂愁のこもった第3楽章をも、彼らは真摯に演奏してくれた。
「4番」に入った時は、前記のような指揮の特徴から、もしかしたらこれも「3番」と全く同じアプローチでやるのか、と、ちょっと心配になったのは事実だったが、やはり曲想の影響もあって、こちらの方が劇的な表情もおのずから出て来る。第1楽章や第3楽章での終結に向けての追い込みは、聴き応えがあった。
さらにいっそう見事だったのは、第2楽章と第4楽章である━━内声部が明晰な形を採りつつ、あざやかに交錯して行き、ブラームスの音楽ならではの精緻な綾をつくり出すことに成功していたのだった。いい曲だ、と心から感じさせられた。
まあ、こういう演奏はしかし、良い指揮者と良いオケなら、必ずやるものである。だが、長年の間、荒っぽいパワーで鳴らしていた日本フィルが、とうとう━━というか、再びというか、つまり60年前の創立直後の渡邉暁雄時代を思い出させる━━このような演奏スタイルを取り戻した・・・・それだけでも嬉しいことではなかろうか?