8・26(水)バイロイト音楽祭
ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
バイロイト祝祭劇場
「マイスタージンガー」前奏曲が始まった瞬間、これが昨日(指環)と同じオーケストラなのかとびっくりする。アンサンブルの密度といい、締まりといい、バランスといい、音色といい、全てがあまりに違うのだ。
いや、思うに昨日までのティーレマンの指揮が凄すぎたのであって、むしろ今夜のセバスチャン・ヴァイグレの指揮の方が普通なのかもしれない。
それにしてもこちらは、ルーティン的で、粗っぽい。演奏には瑞々しさも、豊麗さも、人間的な温かみも全く感じられない。このヴァイグレの指揮は、先年ウィーン国立歌劇場で「ボリス・ゴドゥノフ」を聴いて、その乾いた素っ気無い演奏にうんざりしたことがあるが、今回も似たようなものである。
もっとも、このカタリーナ・ワーグナーの演出によるような舞台には、こういう指揮者が合っているかもしれない――というのは悪いシャレだが、ティーレマンがこのプロダクションを指揮したら、おそらく舞台とは水と油のようになるだろう。
さて、バイロイト祝祭の総裁に就任したカタリーナの演出デビュー作、2007年プレミエの「マイスタージンガー」が、大変な物議を醸したのは周知の通り。
3年目のサイクルに当たる今年の上演――その最終公演の今夜も、第2幕と第3幕のあとには盛大なブーイングと口笛と、それに対するブラヴォーと拍手が交錯した。第2幕のあとでは、何かを舞台に向けて投げつけた客もいたらしい。大相撲だったら、座布団が飛ぶというところか。
カタリーナは第3幕のあとでカーテンコールに現われ、してやったりという調子で満面に笑みを浮かべ、手を振って退場する。ブーイングなど彼女にとっては勲章のようなものだ。ドイツとワーグナーの関係の過去の歴史を批判した場面を織り込むことによりバイロイトの総帥としての「免罪符」を貰った上に、スキャンダラスな舞台を創って話題を集めてしまえば、もはやすべてのお膳立ては整うからである。
場面の設定は、美術のハイスクールかカレッジといった場所である。
何事も規則づくめで、マイスター(先生)も生徒も画一的に振舞い、思考する世界。その中でザックスだけは常に裸足でラフな姿をし、会議の最中に平気でタバコを吸っている異端的人物だ。
この学校に、「伝統の破壊者」たる奔放な学生ワルターがやって来る。テンガロン・ハットを冠り、気障な服を着たこの青年は、辺り構わず白いペイントを塗りたくり、教師たちが延々と規則の会議をやっているのに退屈しきって暴れ出す。彼が携えて来たのは詩ではなく、大胆な絵なのだが、先生たちが顰蹙する中にあって、ザックスだけはそれに興味を示した。
ワルターへのテストは、堅物の書記ベックメッサーとの競争によるジグソー・パズルの作成。ベックメッサーはきちんと手本通りいち早く作り上げたが、ワルターは何とそれを逆さまにデザインして見せた。彼は当然、試験に落第する。
ここまでが第1幕で、このくらいの読み替えなら、どうということはない。
第2幕あたりから、この演出の本領が見えてくる。ベックメッサーの下手糞な――実は「型破りの革新的な」歌に、ザックスは靴底打ちの音でなく、タイプライターの騒々しい音で茶々を入れる。彼は靴屋ではあるけれど、この舞台では実際に靴を作る光景は出さない。
幕切れはベックメッサーの歌に煽られた人々が――乱闘ではなく――カーニバルさながら練り歩くお祭り騒ぎで、その騒々しさ、乱雑さは、並みのものではない。夜警の角笛に脅かされて人々が瞬時に退散した後、リストやワーグナーやベートーヴェンの仮面をつけた者たちが亡霊のように踊るあたりは面白い(設定を美術学校にしておきながら音楽家の残像を引っ張り出すというのも辻褄が合いにくいが)。
この騒動の一夜を契機として、ワルターは従順で礼儀正しい体制派に、一方ベックメッサーが前衛的な芸術家に変身してしまうというわけだが、これがいかにも唐突に過ぎるのが気になる。
とにかく「Beck in Town」と字の入ったTシャツを着て気取るようになったベックメッサーは、超前衛的な制作を披露し、着飾った客たちの度肝を抜く。このあたりからは、もはや彼が最大の主役だ。ワルターの「取り澄ました歌」や、ニュルンベルク銀行からの彼への賞金贈呈の模様、あるいはザックスの「偽善者ぶった大演説」を、まるでローゲさながら、冷笑気味に眺め、聞くベックメッサー。
しかし、やがて舞台に威圧的な彫像が出現し、ザックスが見る見る「過去の恐るべき偶像」の姿に変身して行く光景を目の当りにしたベックメッサーはたじろぎ、ほうほうの体で逃げ出して行く。
音楽および歌詞と、展開される物語の齟齬――それは本来大問題のはずなのだが、とりあえずそれを措くとして――を別にして考えれば、この演出のコンセプト自体は、ストーリイとしては極めて解りやすい。
だが、その過程で織り込まれるさまざまな光景には、極めて雑多で下品で、悪趣味なものが多い。美術学校の話だから一糸纏わぬ男や女が出て来ても不思議はなかろうが、それが大暴れしたり、ことさら卑猥な身振りをして見せたりするのは、――そういう手法を絶賛しない者は時代遅れだと馬鹿にされる風潮があることを心得た上で、わざとスキャンダラスな舞台を創って注目を集めようとする下心が見え見えとしか、私には感じられないのである。
そんな中で、ごく何でもない平凡な場面――ワルターとエーファと「その子供たち3人」および父ポーグナー、そしてダーヴィトとマクダレーネと「その2人の子供たち」を額縁に入れた第3幕の「五重唱」が、客席に柔らかい笑いを拡げるのであった。
卓抜なアイディアも少なくない舞台ではあるが、しかし私はラストシーンに割り切れぬものを持つ。ベックメッサーを反体制的人物に設定するのはいい。だが彼はなぜ、決然として立ち去るのではなく、また過去の重圧に対して立ち向かうのでもなく、腰を抜かさんばかりの格好で逃げ出して行くのだろう。
不気味な光景だけが残るというのでは、これまでワーグナーの作品をナチやネオナチと絡めて描いて終っただけの手法と何ら変りはあるまい。私のようなワーグナー愛好家としては、いつまで皆同じことをやっているのか、という不満を抑えきれないのだ。バイロイトともなれば、それらを乗り越えた未来への展望が求められると思うのだが、どうも逆の方向を走り始めているような気がしないでもない。
まあ、時流に阿った「免罪符」演出であれば、とりあえずはここまでだ、ということになるのかもしれないが。
歌手では、ワルターを歌い演じたクラウス・フローリアン・フォークトが、声でも演技でも目立っていた。これは、彼の当たり役の一つになるだろう。
ベックメッサーのアドリアン・エレートはまだ若い人で、嫌味な書記を演じてはあまり味がないが、イカレた前衛教師としてはサマになっている。
これらに対しザックスのアラン・タイトゥスが例のごとくいかにも大味な演技で、彼がもう少し巧ければ、ザックスが「明から暗」の性格に変貌する「歴史的皮肉」が、もっとはっきり描かれたのではなかろうか。
エーファ(ミヒャエラ・カウネ)とマクダレーネ(カローラ・グーバー)は、まるでマネキンみたいに表情のない役作り。
この舞台には、歌にも芝居にも――いかにも20代後半の強気の女性の演出にふさわしく、愛なき世代の物語といったような、突き放したような雰囲気がある。それがまたヴァイグレの指揮にぴったり合っているのは、最初に書いた通り。
☞グランド・オペラ 2009年秋号
「マイスタージンガー」前奏曲が始まった瞬間、これが昨日(指環)と同じオーケストラなのかとびっくりする。アンサンブルの密度といい、締まりといい、バランスといい、音色といい、全てがあまりに違うのだ。
いや、思うに昨日までのティーレマンの指揮が凄すぎたのであって、むしろ今夜のセバスチャン・ヴァイグレの指揮の方が普通なのかもしれない。
それにしてもこちらは、ルーティン的で、粗っぽい。演奏には瑞々しさも、豊麗さも、人間的な温かみも全く感じられない。このヴァイグレの指揮は、先年ウィーン国立歌劇場で「ボリス・ゴドゥノフ」を聴いて、その乾いた素っ気無い演奏にうんざりしたことがあるが、今回も似たようなものである。
もっとも、このカタリーナ・ワーグナーの演出によるような舞台には、こういう指揮者が合っているかもしれない――というのは悪いシャレだが、ティーレマンがこのプロダクションを指揮したら、おそらく舞台とは水と油のようになるだろう。
さて、バイロイト祝祭の総裁に就任したカタリーナの演出デビュー作、2007年プレミエの「マイスタージンガー」が、大変な物議を醸したのは周知の通り。
3年目のサイクルに当たる今年の上演――その最終公演の今夜も、第2幕と第3幕のあとには盛大なブーイングと口笛と、それに対するブラヴォーと拍手が交錯した。第2幕のあとでは、何かを舞台に向けて投げつけた客もいたらしい。大相撲だったら、座布団が飛ぶというところか。
カタリーナは第3幕のあとでカーテンコールに現われ、してやったりという調子で満面に笑みを浮かべ、手を振って退場する。ブーイングなど彼女にとっては勲章のようなものだ。ドイツとワーグナーの関係の過去の歴史を批判した場面を織り込むことによりバイロイトの総帥としての「免罪符」を貰った上に、スキャンダラスな舞台を創って話題を集めてしまえば、もはやすべてのお膳立ては整うからである。
場面の設定は、美術のハイスクールかカレッジといった場所である。
何事も規則づくめで、マイスター(先生)も生徒も画一的に振舞い、思考する世界。その中でザックスだけは常に裸足でラフな姿をし、会議の最中に平気でタバコを吸っている異端的人物だ。
この学校に、「伝統の破壊者」たる奔放な学生ワルターがやって来る。テンガロン・ハットを冠り、気障な服を着たこの青年は、辺り構わず白いペイントを塗りたくり、教師たちが延々と規則の会議をやっているのに退屈しきって暴れ出す。彼が携えて来たのは詩ではなく、大胆な絵なのだが、先生たちが顰蹙する中にあって、ザックスだけはそれに興味を示した。
ワルターへのテストは、堅物の書記ベックメッサーとの競争によるジグソー・パズルの作成。ベックメッサーはきちんと手本通りいち早く作り上げたが、ワルターは何とそれを逆さまにデザインして見せた。彼は当然、試験に落第する。
ここまでが第1幕で、このくらいの読み替えなら、どうということはない。
第2幕あたりから、この演出の本領が見えてくる。ベックメッサーの下手糞な――実は「型破りの革新的な」歌に、ザックスは靴底打ちの音でなく、タイプライターの騒々しい音で茶々を入れる。彼は靴屋ではあるけれど、この舞台では実際に靴を作る光景は出さない。
幕切れはベックメッサーの歌に煽られた人々が――乱闘ではなく――カーニバルさながら練り歩くお祭り騒ぎで、その騒々しさ、乱雑さは、並みのものではない。夜警の角笛に脅かされて人々が瞬時に退散した後、リストやワーグナーやベートーヴェンの仮面をつけた者たちが亡霊のように踊るあたりは面白い(設定を美術学校にしておきながら音楽家の残像を引っ張り出すというのも辻褄が合いにくいが)。
この騒動の一夜を契機として、ワルターは従順で礼儀正しい体制派に、一方ベックメッサーが前衛的な芸術家に変身してしまうというわけだが、これがいかにも唐突に過ぎるのが気になる。
とにかく「Beck in Town」と字の入ったTシャツを着て気取るようになったベックメッサーは、超前衛的な制作を披露し、着飾った客たちの度肝を抜く。このあたりからは、もはや彼が最大の主役だ。ワルターの「取り澄ました歌」や、ニュルンベルク銀行からの彼への賞金贈呈の模様、あるいはザックスの「偽善者ぶった大演説」を、まるでローゲさながら、冷笑気味に眺め、聞くベックメッサー。
しかし、やがて舞台に威圧的な彫像が出現し、ザックスが見る見る「過去の恐るべき偶像」の姿に変身して行く光景を目の当りにしたベックメッサーはたじろぎ、ほうほうの体で逃げ出して行く。
音楽および歌詞と、展開される物語の齟齬――それは本来大問題のはずなのだが、とりあえずそれを措くとして――を別にして考えれば、この演出のコンセプト自体は、ストーリイとしては極めて解りやすい。
だが、その過程で織り込まれるさまざまな光景には、極めて雑多で下品で、悪趣味なものが多い。美術学校の話だから一糸纏わぬ男や女が出て来ても不思議はなかろうが、それが大暴れしたり、ことさら卑猥な身振りをして見せたりするのは、――そういう手法を絶賛しない者は時代遅れだと馬鹿にされる風潮があることを心得た上で、わざとスキャンダラスな舞台を創って注目を集めようとする下心が見え見えとしか、私には感じられないのである。
そんな中で、ごく何でもない平凡な場面――ワルターとエーファと「その子供たち3人」および父ポーグナー、そしてダーヴィトとマクダレーネと「その2人の子供たち」を額縁に入れた第3幕の「五重唱」が、客席に柔らかい笑いを拡げるのであった。
卓抜なアイディアも少なくない舞台ではあるが、しかし私はラストシーンに割り切れぬものを持つ。ベックメッサーを反体制的人物に設定するのはいい。だが彼はなぜ、決然として立ち去るのではなく、また過去の重圧に対して立ち向かうのでもなく、腰を抜かさんばかりの格好で逃げ出して行くのだろう。
不気味な光景だけが残るというのでは、これまでワーグナーの作品をナチやネオナチと絡めて描いて終っただけの手法と何ら変りはあるまい。私のようなワーグナー愛好家としては、いつまで皆同じことをやっているのか、という不満を抑えきれないのだ。バイロイトともなれば、それらを乗り越えた未来への展望が求められると思うのだが、どうも逆の方向を走り始めているような気がしないでもない。
まあ、時流に阿った「免罪符」演出であれば、とりあえずはここまでだ、ということになるのかもしれないが。
歌手では、ワルターを歌い演じたクラウス・フローリアン・フォークトが、声でも演技でも目立っていた。これは、彼の当たり役の一つになるだろう。
ベックメッサーのアドリアン・エレートはまだ若い人で、嫌味な書記を演じてはあまり味がないが、イカレた前衛教師としてはサマになっている。
これらに対しザックスのアラン・タイトゥスが例のごとくいかにも大味な演技で、彼がもう少し巧ければ、ザックスが「明から暗」の性格に変貌する「歴史的皮肉」が、もっとはっきり描かれたのではなかろうか。
エーファ(ミヒャエラ・カウネ)とマクダレーネ(カローラ・グーバー)は、まるでマネキンみたいに表情のない役作り。
この舞台には、歌にも芝居にも――いかにも20代後半の強気の女性の演出にふさわしく、愛なき世代の物語といったような、突き放したような雰囲気がある。それがまたヴァイグレの指揮にぴったり合っているのは、最初に書いた通り。
☞グランド・オペラ 2009年秋号