8・25(火)バイロイト音楽祭
ワーグナー:「ニーベルングの指環」第3夜「神々の黄昏」
バイロイト祝祭劇場
言っては何だがこの「指環」の演出、1回はいいが、2回観るほどのものではない――というのが、歯に衣着せぬ感想だ。といってもあくまで私の主観ですから、悪しからず。このプロダクションは、来年まで上演される。
冒頭の「ノルンの場」は、花火が上がった形のような星空(占星術的)を背景とする幻想的な場所。また「ヴァルキューレの岩山」は、前作と同様に石切り場。
後者の場面で、ヴァルトラウテとブリュンヒルデが緊迫した話をしている最中にヘルメットをかぶり梯子を持った男が背後をウロウロするのには、気を散らされる。総じてこの演出では――コンセプトはともかく――現代人が「突然」現われて観客の気を散らす、ということが多いのが欠点だ。
「ライン河畔の場」は、「ラインの黄金」におけると同様、コンクリートの堤防の上になっており、後方には現代人の若いカプルが涼んでいる。堤防には今や下水管が設置され、ラインの乙女も排水口を出たり入ったりである。以前には川底にあった石が下水管の脇に積み重ねられているのも、時代の移り変わりを皮肉に示している。
「ギビフング家の場」は、ある高級ホテルのロビーだ。集う者たちはハーゲンの手勢と、着飾ったパーティの出席者の男女。
ラストシーンでは、ブリュンヒルデの放った火がホテルに燃え移り、大勢の人間が逃げ出して来る。ここは現代人と異次元世界の登場人物との区別が最もつきにくいところで、観客を戸惑わせる。それでも、プレミエ時よりは、かなり整理されたようだ。
下手側の階段に腰掛けて終始本を読んでいる男が現代人という設定だろうが、それにしては顔のメイクが「パーティ出席者」と同じというのは少々解せぬ。
大詰め、グンターとグートルーネの遺体以外には人の姿のなくなった最終場面では、例の「少年」が現われ、グンターの「王冠」をかぶったりして遊んでいる。そして、ここがあの壮大な悲劇が起った場所だなどとは全く知らぬ若い恋人たちが自転車を押して通りかかり、キスを交わし、何事もなく通り過ぎて行くところで、「神々の黄昏」の幕が閉まる。
神々の世界は炎上して消え去った。が、その痕跡はどこかに残っているだろう。そしてその悲劇や崩壊は、今日でも世界のどこかで繰り返されている。もしかしたら、世界支配の権力をめぐる新たな神々たちの闘争がまた行なわれているのかもしれない。神々は現代でもあらゆる所を彷徨っているのだ。人間たちは、これから何をすべきなのか――というのがこの演出のコンセプトだ。
が、これは実はこちらが好意的に理解したことなのであって、残念ながら実際の舞台は、それをすぐ納得させるほどには、巧くできてはいないのである。
幕が閉まると、劇場内にはしばらく沈黙が続いた。やがて戸惑ったような拍手が起り、数秒間は元気の無い拍手が続く。幕の間から歌手たちが姿を現すと、やっとブラヴォーの声とともに拍手が盛り上がった。
いっぽう演奏の方は、何度でも聴きたくなるスリリングなものだ。
ティーレマンは、前作に続いて巧みな音楽づくりである。第2幕では「ホイホー・ハーゲン」から「ブリュンヒルデとグンターの到着の場」の音楽をむしろ抑制気味にして、後半のブリュンヒルデの怒りを中心とするアンサンブルと三重唱の部分に轟々たるクライマックスを設定していたのも、3年前と同じ。また「葬送行進曲」の頂点の一つ、「死の動機」を含む個所の長い四分音符をクレッシェンドさせて凄絶な迫力を出すところも同様。
ただ、3年前に「自己犠牲」冒頭部分で戦慄させられたような、限りない闇の空間に木魂する魔性の響きは、この日の演奏からは不思議に感じ取れなかった。それがこちら聴き手に責任があることかどうかは微妙だが。
しかし、最後のヴァルハラ炎上の場面の音楽は、文字通り総力を挙げての盛り上がりである。この個所を阿鼻叫喚にせず、かくも透明感さえ漂わせる音色の美しさを以て壮麗に演奏できる指揮者とオーケストラは稀ではないか。いかにバイロイト祝祭劇場特有の音響効果があるとはいっても、どんな指揮者でもこういう大技ができるわけではないのだ。
歌手陣に関しては、必ずしも全員が絶好調とはいえなかったようだが、それでも充分に立派なものであったろう。
クリスティアン・フランツ(ジークフリート)は第3幕で声に少し疲れを見せたためか、しつこいブーイングを浴びたが、それは僅か数人の観客からに過ぎない。
リンダ・ワトソン(ブリュンヒルデ)も同様、「自己犠牲」の最後で絶叫気味になるのは惜しいけれど、ここまで馬力を失わない歌手は、今日では決して多くないだろう。
絶賛を浴びたのはハンス=ペーター・ケーニヒ(ハーゲン)で、プレミエの年に比べ悪役として格段の進境ぶりだ。エディット・ハラー(グートルーネ)も、バイロイトにこの役で(ガブリエーレ・フォンターナの代役として)デビューした時に比べ、別人のような歌唱と演技になった。
ラルフ・ルーカス(グンター)は手堅い出来を示し、出番は少ないがアンドルー・ショア(アルベリヒ)も個性豊かな歌いぶりである。
演技という面ではほとんど巧味も新味も面白味もなく、それが舞台を単調に見せてしまう一因となっていた。これはもう演出家の責任だ。4作を通じて基本的にはオリジナルのト書きに忠実な動きで、それはそれでもちろんいいのだけれど、もっと微細な表情を各キャラクターが表現していたなら、この舞台はもっと面白くなっていたろうに。
第2幕でジークフリートが、慣れぬ正装をしてオタオタし、ブリュンヒルデが怒って突きつける手に握手をしてしまい、観客を笑わせるシーンがあったが、これは何となく愛嬌のある容姿のフランツゆえに成功した演技であろう。プレミエの年のシュテファン・グールドは、確かこういう演技はやっていなかったように思うが――定かではない。
☞グランド・オペラ 2009年秋号
言っては何だがこの「指環」の演出、1回はいいが、2回観るほどのものではない――というのが、歯に衣着せぬ感想だ。といってもあくまで私の主観ですから、悪しからず。このプロダクションは、来年まで上演される。
冒頭の「ノルンの場」は、花火が上がった形のような星空(占星術的)を背景とする幻想的な場所。また「ヴァルキューレの岩山」は、前作と同様に石切り場。
後者の場面で、ヴァルトラウテとブリュンヒルデが緊迫した話をしている最中にヘルメットをかぶり梯子を持った男が背後をウロウロするのには、気を散らされる。総じてこの演出では――コンセプトはともかく――現代人が「突然」現われて観客の気を散らす、ということが多いのが欠点だ。
「ライン河畔の場」は、「ラインの黄金」におけると同様、コンクリートの堤防の上になっており、後方には現代人の若いカプルが涼んでいる。堤防には今や下水管が設置され、ラインの乙女も排水口を出たり入ったりである。以前には川底にあった石が下水管の脇に積み重ねられているのも、時代の移り変わりを皮肉に示している。
「ギビフング家の場」は、ある高級ホテルのロビーだ。集う者たちはハーゲンの手勢と、着飾ったパーティの出席者の男女。
ラストシーンでは、ブリュンヒルデの放った火がホテルに燃え移り、大勢の人間が逃げ出して来る。ここは現代人と異次元世界の登場人物との区別が最もつきにくいところで、観客を戸惑わせる。それでも、プレミエ時よりは、かなり整理されたようだ。
下手側の階段に腰掛けて終始本を読んでいる男が現代人という設定だろうが、それにしては顔のメイクが「パーティ出席者」と同じというのは少々解せぬ。
大詰め、グンターとグートルーネの遺体以外には人の姿のなくなった最終場面では、例の「少年」が現われ、グンターの「王冠」をかぶったりして遊んでいる。そして、ここがあの壮大な悲劇が起った場所だなどとは全く知らぬ若い恋人たちが自転車を押して通りかかり、キスを交わし、何事もなく通り過ぎて行くところで、「神々の黄昏」の幕が閉まる。
神々の世界は炎上して消え去った。が、その痕跡はどこかに残っているだろう。そしてその悲劇や崩壊は、今日でも世界のどこかで繰り返されている。もしかしたら、世界支配の権力をめぐる新たな神々たちの闘争がまた行なわれているのかもしれない。神々は現代でもあらゆる所を彷徨っているのだ。人間たちは、これから何をすべきなのか――というのがこの演出のコンセプトだ。
が、これは実はこちらが好意的に理解したことなのであって、残念ながら実際の舞台は、それをすぐ納得させるほどには、巧くできてはいないのである。
幕が閉まると、劇場内にはしばらく沈黙が続いた。やがて戸惑ったような拍手が起り、数秒間は元気の無い拍手が続く。幕の間から歌手たちが姿を現すと、やっとブラヴォーの声とともに拍手が盛り上がった。
いっぽう演奏の方は、何度でも聴きたくなるスリリングなものだ。
ティーレマンは、前作に続いて巧みな音楽づくりである。第2幕では「ホイホー・ハーゲン」から「ブリュンヒルデとグンターの到着の場」の音楽をむしろ抑制気味にして、後半のブリュンヒルデの怒りを中心とするアンサンブルと三重唱の部分に轟々たるクライマックスを設定していたのも、3年前と同じ。また「葬送行進曲」の頂点の一つ、「死の動機」を含む個所の長い四分音符をクレッシェンドさせて凄絶な迫力を出すところも同様。
ただ、3年前に「自己犠牲」冒頭部分で戦慄させられたような、限りない闇の空間に木魂する魔性の響きは、この日の演奏からは不思議に感じ取れなかった。それがこちら聴き手に責任があることかどうかは微妙だが。
しかし、最後のヴァルハラ炎上の場面の音楽は、文字通り総力を挙げての盛り上がりである。この個所を阿鼻叫喚にせず、かくも透明感さえ漂わせる音色の美しさを以て壮麗に演奏できる指揮者とオーケストラは稀ではないか。いかにバイロイト祝祭劇場特有の音響効果があるとはいっても、どんな指揮者でもこういう大技ができるわけではないのだ。
歌手陣に関しては、必ずしも全員が絶好調とはいえなかったようだが、それでも充分に立派なものであったろう。
クリスティアン・フランツ(ジークフリート)は第3幕で声に少し疲れを見せたためか、しつこいブーイングを浴びたが、それは僅か数人の観客からに過ぎない。
リンダ・ワトソン(ブリュンヒルデ)も同様、「自己犠牲」の最後で絶叫気味になるのは惜しいけれど、ここまで馬力を失わない歌手は、今日では決して多くないだろう。
絶賛を浴びたのはハンス=ペーター・ケーニヒ(ハーゲン)で、プレミエの年に比べ悪役として格段の進境ぶりだ。エディット・ハラー(グートルーネ)も、バイロイトにこの役で(ガブリエーレ・フォンターナの代役として)デビューした時に比べ、別人のような歌唱と演技になった。
ラルフ・ルーカス(グンター)は手堅い出来を示し、出番は少ないがアンドルー・ショア(アルベリヒ)も個性豊かな歌いぶりである。
演技という面ではほとんど巧味も新味も面白味もなく、それが舞台を単調に見せてしまう一因となっていた。これはもう演出家の責任だ。4作を通じて基本的にはオリジナルのト書きに忠実な動きで、それはそれでもちろんいいのだけれど、もっと微細な表情を各キャラクターが表現していたなら、この舞台はもっと面白くなっていたろうに。
第2幕でジークフリートが、慣れぬ正装をしてオタオタし、ブリュンヒルデが怒って突きつける手に握手をしてしまい、観客を笑わせるシーンがあったが、これは何となく愛嬌のある容姿のフランツゆえに成功した演技であろう。プレミエの年のシュテファン・グールドは、確かこういう演技はやっていなかったように思うが――定かではない。
☞グランド・オペラ 2009年秋号