8・23(日)バイロイト音楽祭
ワーグナー 「ニーベルングの指環」第2夜「ジークフリート」
バイロイト祝祭劇場
快晴。しかし、少し涼しくなった。爽やかな大気なので、厚い上着を着たまま歩いて劇場へ行くのもそれほど苦痛ではない。本番中は上着を脱いだ方が楽という程度の暑さ。3日目にもなると、80分もの間身動きせずに座っているのにも少しは慣れて来る。
「ジークフリート」の舞台は、前作に続いて現代世界の日常的な場面。
第1幕は廃校となっている学校の理科教室、第2幕は森の中の工事中高速道路の下。第3幕は第1場のみ青い紗幕の中で、それ以降は「ヴァルキューレ」第3幕と同じ巨大な石切り場。
この中では、森の中の場面がよくできているだろう。いかにも妖怪が出没しそうな場所だ。現代人から見ればただの大きな穴も、実はそれはファーフナーが財宝を守って住んでいた洞窟の痕跡だった――という想像も面白い。
「神々は多分消え去ったに違いない。しかし必ず何かの痕跡を残している」というドルストの解説は、私にはすばらしいロマンを感じさせる。――ただし、「その超自然的な出来事を唯一見ることが出来る感受性の強い少年」が舞台にチラリと現れる演出が、相変わらず野暮ったくて、納得性を欠いているのが問題なのだが。
ジークフリート(クリスティアン・フランツ)が、単なる野性児でなく、優しい心を持った少年(風貌は別としてだが)として描かれているのが珍しく、非常に印象的だ。
ミーメへの乱暴は、嫌悪感からというよりむしろ甘えの表れで、自分を育ててくれた矮人に対し、一種の親近感を示す。毒薬で自分を殺そうとしたミーメを逆に殺したあと、「好いところもあったのに、可哀相な奴だったなあ」という態度をしんみりと示すところなど、なかなかに泣かせる演出と演技である。
プレミエの時にジークフリートを歌っていたシュテファン(スティーヴン)・グールドは、ここまでの演技をしていなかったように記憶しているが、どうだったろう。
歌手陣は概ね好調。ミーメのヴォルフガンク・シュミットと、アルベリヒのアンドルー・ショアは、本領を存分に発揮した。ヴォータンのアルベルト・ドーメンも威力がある。クリスティアン・フランツも、これだけ最後まで声を衰えさせずにジークフリートを歌える歌手はそうそう多くはあるまい、と思わせるような、巧みな力の配分だ。リンダ・ワトソンも声の伸びは充分である。
これらに対し、エルダのクリスタ・マイヤーは――「ラインの黄金」でもそうだったが――凄みに欠け、ドラマにおける重要な役割を果たすには不足。「鳥の声」のクリスティアーネ・コールは声の質はいいが、この役には少し太い声なのではないか。
ティーレマンは、今日もまたこのドラマの最大の主役だ。
「ワルキューレ」まではあまり出さなかった彼独特の長いゲネラル・パウゼを、ついに今夜は、第3幕を中心に3回ほど聴かせるにいたった(プレミエの時は、「神々の黄昏」まではこの癖を出さなかった)。昔の彼と異なり、単なる「長い休止」ではない、息を呑ませる緊迫感に満ちたパウゼを使えるようになっているところが見事である。
テンポの増減も、まさにスコアの指定どおりだ。各幕ごとに、それぞれ一貫した流れの大きな起伏が作られる。クライマックスへ盛り上げる手腕も相変わらずの冴えで、第1幕の「鍛冶の場面」の最後の熱狂、第2幕序奏や第3幕序奏での不気味な咆哮など、バイロイトのオーケストラの卓越した威力を存分に発揮させている。
弦のトレモロの凄絶さも特徴だろう。このロマンティックな魔性の力の根源ともいうべき弦のトレモロに、ティーレマンは、最近の指揮者には珍しいほどの激しい気魄をこめる。「指環」のドラマにおける超自然的な世界の不気味さを、これほど明確に描き出せる指揮者は、今日では稀ではなかろうか。
一方、「ジークフリート牧歌」の動機が初めて現われる瞬間の弦の響きには、あたかも泡立ちクリームがピットから流れ出てくるかのような、馥郁たる美しさがあふれる。かように濃い情感を臆することなく吐露させるところにも、この指揮者の本領があろう。
そして、こういうロマン的な音楽を再現する指揮者がバイロイトで圧倒的な人気をかち得ているという現象は、すこぶる興味深い。カーテンコールで最大の熱狂を受けるのは、毎夜のごとく、ティーレマンなのである。
☞「グランド・オペラ」2009年秋号
快晴。しかし、少し涼しくなった。爽やかな大気なので、厚い上着を着たまま歩いて劇場へ行くのもそれほど苦痛ではない。本番中は上着を脱いだ方が楽という程度の暑さ。3日目にもなると、80分もの間身動きせずに座っているのにも少しは慣れて来る。
「ジークフリート」の舞台は、前作に続いて現代世界の日常的な場面。
第1幕は廃校となっている学校の理科教室、第2幕は森の中の工事中高速道路の下。第3幕は第1場のみ青い紗幕の中で、それ以降は「ヴァルキューレ」第3幕と同じ巨大な石切り場。
この中では、森の中の場面がよくできているだろう。いかにも妖怪が出没しそうな場所だ。現代人から見ればただの大きな穴も、実はそれはファーフナーが財宝を守って住んでいた洞窟の痕跡だった――という想像も面白い。
「神々は多分消え去ったに違いない。しかし必ず何かの痕跡を残している」というドルストの解説は、私にはすばらしいロマンを感じさせる。――ただし、「その超自然的な出来事を唯一見ることが出来る感受性の強い少年」が舞台にチラリと現れる演出が、相変わらず野暮ったくて、納得性を欠いているのが問題なのだが。
ジークフリート(クリスティアン・フランツ)が、単なる野性児でなく、優しい心を持った少年(風貌は別としてだが)として描かれているのが珍しく、非常に印象的だ。
ミーメへの乱暴は、嫌悪感からというよりむしろ甘えの表れで、自分を育ててくれた矮人に対し、一種の親近感を示す。毒薬で自分を殺そうとしたミーメを逆に殺したあと、「好いところもあったのに、可哀相な奴だったなあ」という態度をしんみりと示すところなど、なかなかに泣かせる演出と演技である。
プレミエの時にジークフリートを歌っていたシュテファン(スティーヴン)・グールドは、ここまでの演技をしていなかったように記憶しているが、どうだったろう。
歌手陣は概ね好調。ミーメのヴォルフガンク・シュミットと、アルベリヒのアンドルー・ショアは、本領を存分に発揮した。ヴォータンのアルベルト・ドーメンも威力がある。クリスティアン・フランツも、これだけ最後まで声を衰えさせずにジークフリートを歌える歌手はそうそう多くはあるまい、と思わせるような、巧みな力の配分だ。リンダ・ワトソンも声の伸びは充分である。
これらに対し、エルダのクリスタ・マイヤーは――「ラインの黄金」でもそうだったが――凄みに欠け、ドラマにおける重要な役割を果たすには不足。「鳥の声」のクリスティアーネ・コールは声の質はいいが、この役には少し太い声なのではないか。
ティーレマンは、今日もまたこのドラマの最大の主役だ。
「ワルキューレ」まではあまり出さなかった彼独特の長いゲネラル・パウゼを、ついに今夜は、第3幕を中心に3回ほど聴かせるにいたった(プレミエの時は、「神々の黄昏」まではこの癖を出さなかった)。昔の彼と異なり、単なる「長い休止」ではない、息を呑ませる緊迫感に満ちたパウゼを使えるようになっているところが見事である。
テンポの増減も、まさにスコアの指定どおりだ。各幕ごとに、それぞれ一貫した流れの大きな起伏が作られる。クライマックスへ盛り上げる手腕も相変わらずの冴えで、第1幕の「鍛冶の場面」の最後の熱狂、第2幕序奏や第3幕序奏での不気味な咆哮など、バイロイトのオーケストラの卓越した威力を存分に発揮させている。
弦のトレモロの凄絶さも特徴だろう。このロマンティックな魔性の力の根源ともいうべき弦のトレモロに、ティーレマンは、最近の指揮者には珍しいほどの激しい気魄をこめる。「指環」のドラマにおける超自然的な世界の不気味さを、これほど明確に描き出せる指揮者は、今日では稀ではなかろうか。
一方、「ジークフリート牧歌」の動機が初めて現われる瞬間の弦の響きには、あたかも泡立ちクリームがピットから流れ出てくるかのような、馥郁たる美しさがあふれる。かように濃い情感を臆することなく吐露させるところにも、この指揮者の本領があろう。
そして、こういうロマン的な音楽を再現する指揮者がバイロイトで圧倒的な人気をかち得ているという現象は、すこぶる興味深い。カーテンコールで最大の熱狂を受けるのは、毎夜のごとく、ティーレマンなのである。
☞「グランド・オペラ」2009年秋号