8・21(金) バイロイト音楽祭
ワーグナー: 「ニーベルングの指環」第1夜「ヴァルキューレ」
バイロイト祝祭劇場
ティーレマンの音楽作りは、昨夜にも増して魅力的になる。弦の瑞々しく豊麗な音色を軸に、叙情性と劇的迫力を見事に交錯させた美しい流れの音楽が全篇を満たす。
それはもちろん、ワーグナーの作品に本来内蔵されているものなのだが、それを余す所なく再現してみせる卓越した腕の冴えが、ティーレマンにはある。
テンポの流れも、プレミエ時よりも更に良くなった。第2幕大詰めでのフンディングとジークムントの決闘場面や、第3幕(ヴァルキューレの岩山の場)でのヴォータンの激怒の場面などのような劇的高揚の瞬間には、テンポはみるみる加速されて息詰まる緊張感が創られるが、このあたりの呼吸が、この指揮者は何とも巧い。
特に第3幕における各場面の音楽の対比――これは実にワーグナーの天才ぶりを感じさせるところだが――、これらを見事に際立たせつつ、しかも一連の流れとして構築するティーレマンのバランス構築には舌を巻く。
ヴォータンが娘ブリュンヒルデとの訣別を万感こめて語る音楽は、彼が憤怒に燃えていた頃の第3幕前半の、あの激烈な嵐の場面の音楽を経てこそ生きて来る。神々の長として世界に君臨した時代が今や終焉し、こののちは「さすらい人」として世界の行末を見守るだけの存在になることをヴォータンみずから予感するのがこの場面なのだが、――彼のその慟哭と感慨の心理を、単に歌詞の分析によってではなく、このように音楽そのものによって理解させてくれる演奏にめぐり合うことは、きわめて稀である。
といってもそれは、「ヴォータンの告別」をただ情感豊かに演奏しただけで成り立つものではない。第3幕全体を大きく弧を描くように有機的に構築してこそ、最後の悲劇的な場面を十全に生かすことができるのである。
ティーレマンは、幕の前半を煽り立てるテンポで構築したあと、この大詰めのクライマックスを、極度に遅いテンポで演奏した。それは少し誇張が過ぎる印象がなくもなかったが、しかし紛れもなく、こうしてこの長大な物語における一つの時代が終りを告げたのだ、という感懐をしみじみと抱かせてくれる演奏だったのである。
ワーグナーの音楽そのものが如何に雄弁に、すべてを語り尽くしているか――それを再認識できた喜びに浸れただけでも、今回の演奏を聴きに来た甲斐があったと思う。
歌手陣でのピカ一は、何と言ってもジークリンデを歌ったエファ=マリア・ウェストブレークであろう。明晰で張りのある、しかも悲劇的な陰翳にも不足しない声と歌唱表現がすばらしい。プレミエの時のアドリエンヌ・ピエチョンカも良かったが、それとはまた異なるタイプの素晴しさがある。
ヴォータンのアルベルト・ドーメンも、プレミエ時のファルク・シュトルックマンと同様、最後の「魔の炎」では「nie!」を最大限に延ばしての大見得。「ラインの黄金」における若い時代の神との性格の違いは、ドーメンの方がやや上手く出していたようだ。
フリッカのミケーレ・ブリートは、まず安全圏内というところか。
プレミエ時と同じ顔ぶれは、まずフンディングのクヮンチュル・ユン。底力のある声で、暴力的な男を演じる。
ジークムントのエントリック・ヴォトリヒは――あの時には声が不調で、第1幕で降板してしまったが――今回は大丈夫。しかしこの人の声は、時たま不安定になるのが問題で、「ヴェルゼ!」の個所など、芝居気のあるティーレマンならもっとフェルマータを引き延ばしたかったのではないかと思うのだが、どうだろう。
ブリュンヒルデはリンダ・ワトソン。馬力は充分ながら、歌唱も演技はスタイルの少し旧いところが目と耳につくようになった
ドルスト演出は、今回の印象でも可もなく不可もなしといったところ。
オリジナルのト書きには非常に忠実ではあるけれど、細かい部分にはどうもトロいところがある。たとえば、ヴォータンがわが子ジークムントを心ならずも斃す場面など。
この演出では、ヴォータンが彼を背後から何となく槍で刺すという設定なのだが――かつてユルゲン・フリムがこのバイロイトで、ジークムントが振り向いて父親の顔を認め、「あなたは!」と駆け寄ろうとした瞬間に背後からフンディングの槍に刺される、という劇的な演出を行ったことがある(クプファー演出もそれに近かった)が、あれに比べると歯がゆいほどだ。
つまらないことながら今回、ブリュンヒルデがジークムントの折られた剣(ノートゥング)を拾うことなく逃げてしまったのは、辻褄が合わぬ。そのくせ第3幕では平然と剣の折れ端を出して皆に見せているのだから、バイロイトともあろうものが手抜きもいいところだ。ワトソンが忘れたのか。
第2幕でヴォータンが世界の破滅を語る個所では、背後に深層心理上の自らの別の姿が出現するが、全体の流れからすると、どうも取ってつけたような感がある。
「現代人関係」(?)では、第1幕冒頭はプレミエの時には、廃屋―フンディングの家――の中で自転車を携えて遊んでいた子供の一人がジークリンデの顔を不思議そうに眺めたのち立ち去るという演出だったが、今回は嵐を避けて廃屋に雨宿りしていた大勢の男女が出て行き、子供の一人が近くの椅子に座っていたジークリンデのショールをめくってその顔を見、慌てて逃げて行くという演出に変っていた。この方が辻褄は合うだろう。
第2幕で、ジークムントたちが逃げて来るまでの間、背景に自転車を脇に置いてずっと新聞を読んでいる現代人の男がいるのも前回同様――これも取ってつけたような光景。
☞「グランド・オペラ」2009年秋号
ティーレマンの音楽作りは、昨夜にも増して魅力的になる。弦の瑞々しく豊麗な音色を軸に、叙情性と劇的迫力を見事に交錯させた美しい流れの音楽が全篇を満たす。
それはもちろん、ワーグナーの作品に本来内蔵されているものなのだが、それを余す所なく再現してみせる卓越した腕の冴えが、ティーレマンにはある。
テンポの流れも、プレミエ時よりも更に良くなった。第2幕大詰めでのフンディングとジークムントの決闘場面や、第3幕(ヴァルキューレの岩山の場)でのヴォータンの激怒の場面などのような劇的高揚の瞬間には、テンポはみるみる加速されて息詰まる緊張感が創られるが、このあたりの呼吸が、この指揮者は何とも巧い。
特に第3幕における各場面の音楽の対比――これは実にワーグナーの天才ぶりを感じさせるところだが――、これらを見事に際立たせつつ、しかも一連の流れとして構築するティーレマンのバランス構築には舌を巻く。
ヴォータンが娘ブリュンヒルデとの訣別を万感こめて語る音楽は、彼が憤怒に燃えていた頃の第3幕前半の、あの激烈な嵐の場面の音楽を経てこそ生きて来る。神々の長として世界に君臨した時代が今や終焉し、こののちは「さすらい人」として世界の行末を見守るだけの存在になることをヴォータンみずから予感するのがこの場面なのだが、――彼のその慟哭と感慨の心理を、単に歌詞の分析によってではなく、このように音楽そのものによって理解させてくれる演奏にめぐり合うことは、きわめて稀である。
といってもそれは、「ヴォータンの告別」をただ情感豊かに演奏しただけで成り立つものではない。第3幕全体を大きく弧を描くように有機的に構築してこそ、最後の悲劇的な場面を十全に生かすことができるのである。
ティーレマンは、幕の前半を煽り立てるテンポで構築したあと、この大詰めのクライマックスを、極度に遅いテンポで演奏した。それは少し誇張が過ぎる印象がなくもなかったが、しかし紛れもなく、こうしてこの長大な物語における一つの時代が終りを告げたのだ、という感懐をしみじみと抱かせてくれる演奏だったのである。
ワーグナーの音楽そのものが如何に雄弁に、すべてを語り尽くしているか――それを再認識できた喜びに浸れただけでも、今回の演奏を聴きに来た甲斐があったと思う。
歌手陣でのピカ一は、何と言ってもジークリンデを歌ったエファ=マリア・ウェストブレークであろう。明晰で張りのある、しかも悲劇的な陰翳にも不足しない声と歌唱表現がすばらしい。プレミエの時のアドリエンヌ・ピエチョンカも良かったが、それとはまた異なるタイプの素晴しさがある。
ヴォータンのアルベルト・ドーメンも、プレミエ時のファルク・シュトルックマンと同様、最後の「魔の炎」では「nie!」を最大限に延ばしての大見得。「ラインの黄金」における若い時代の神との性格の違いは、ドーメンの方がやや上手く出していたようだ。
フリッカのミケーレ・ブリートは、まず安全圏内というところか。
プレミエ時と同じ顔ぶれは、まずフンディングのクヮンチュル・ユン。底力のある声で、暴力的な男を演じる。
ジークムントのエントリック・ヴォトリヒは――あの時には声が不調で、第1幕で降板してしまったが――今回は大丈夫。しかしこの人の声は、時たま不安定になるのが問題で、「ヴェルゼ!」の個所など、芝居気のあるティーレマンならもっとフェルマータを引き延ばしたかったのではないかと思うのだが、どうだろう。
ブリュンヒルデはリンダ・ワトソン。馬力は充分ながら、歌唱も演技はスタイルの少し旧いところが目と耳につくようになった
ドルスト演出は、今回の印象でも可もなく不可もなしといったところ。
オリジナルのト書きには非常に忠実ではあるけれど、細かい部分にはどうもトロいところがある。たとえば、ヴォータンがわが子ジークムントを心ならずも斃す場面など。
この演出では、ヴォータンが彼を背後から何となく槍で刺すという設定なのだが――かつてユルゲン・フリムがこのバイロイトで、ジークムントが振り向いて父親の顔を認め、「あなたは!」と駆け寄ろうとした瞬間に背後からフンディングの槍に刺される、という劇的な演出を行ったことがある(クプファー演出もそれに近かった)が、あれに比べると歯がゆいほどだ。
つまらないことながら今回、ブリュンヒルデがジークムントの折られた剣(ノートゥング)を拾うことなく逃げてしまったのは、辻褄が合わぬ。そのくせ第3幕では平然と剣の折れ端を出して皆に見せているのだから、バイロイトともあろうものが手抜きもいいところだ。ワトソンが忘れたのか。
第2幕でヴォータンが世界の破滅を語る個所では、背後に深層心理上の自らの別の姿が出現するが、全体の流れからすると、どうも取ってつけたような感がある。
「現代人関係」(?)では、第1幕冒頭はプレミエの時には、廃屋―フンディングの家――の中で自転車を携えて遊んでいた子供の一人がジークリンデの顔を不思議そうに眺めたのち立ち去るという演出だったが、今回は嵐を避けて廃屋に雨宿りしていた大勢の男女が出て行き、子供の一人が近くの椅子に座っていたジークリンデのショールをめくってその顔を見、慌てて逃げて行くという演出に変っていた。この方が辻褄は合うだろう。
第2幕で、ジークムントたちが逃げて来るまでの間、背景に自転車を脇に置いてずっと新聞を読んでいる現代人の男がいるのも前回同様――これも取ってつけたような光景。
☞「グランド・オペラ」2009年秋号