7・21(火)若杉弘氏逝去
夜、産経新聞社からの電話で知る。落胆、暗澹たる気持だ。
思えば昨年6月29日、新国立劇場中劇場で「ペレアスとメリザンド」を聴いたのが、氏の指揮に接した最後の機会になってしまった。あの時既に、カーテンコールでは歩くのもやっとという様子で、舞台中央にも出ず、袖近くに立って挨拶するという、見るからに痛々しい姿であったが――。
若杉氏ほど、オペラや大規模な声楽作品を数多く日本初演した指揮者は、かつていなかったろう。60年代半ば以降、読売日響とシェーンベルクの「グレの歌」やペンデレツキの「ルカ受難曲」、ベルリオーズの「カルタゴのトロイ人」(「トロイ人たち」第2部、演奏会形式)、ヘンデルの「ジュリアス・シーザー」、ワーグナーの「パルジファル」「ラインの黄金」などを次々に日本初演していた氏の颯爽たる姿が、私にとってはつい昨日のことのように感じられる。
東京都響時代にも、マーラーの交響曲ツィクルスに際して初稿版などを織り込み、かつマーラーと同時代の作曲家によるめずらしい作品を組み合わせたりして、常に一味違ったプログラミングの面白さで私たちを惹きつけていたものであった。
「根っからの劇場人」と自他共に許す若杉氏は、本番前に舞台近辺を一回りすれば、今日は本番で「この壁が倒れそうだな」とか「舞台の灯りが故障して点かなくなるんじゃないかな」というように、「事件」がカンで予想できたと言う。
ドイツと日本でのその長い劇場経験を生かして、新国立劇場オペラ部門芸術監督としても思い切り手腕を振るっていただきたいというのが私たちの願いであったのだが――任期半ばで他界されようとは。
氏が芸術監督に就任して以来、新国立劇場のレパートリーがどれほど拡大したかは、誰もが認めるところであろう。せめてあと数年、氏が芸術監督の地位に留まることができたなら、新国立劇場のオペラはどれほど多彩になることだろう。そう思えば、氏の逝去はあまりに早すぎた。日本のオペラ界が若杉氏に恃むことは、まだ限りなく多かった。
思えば昨年6月29日、新国立劇場中劇場で「ペレアスとメリザンド」を聴いたのが、氏の指揮に接した最後の機会になってしまった。あの時既に、カーテンコールでは歩くのもやっとという様子で、舞台中央にも出ず、袖近くに立って挨拶するという、見るからに痛々しい姿であったが――。
若杉氏ほど、オペラや大規模な声楽作品を数多く日本初演した指揮者は、かつていなかったろう。60年代半ば以降、読売日響とシェーンベルクの「グレの歌」やペンデレツキの「ルカ受難曲」、ベルリオーズの「カルタゴのトロイ人」(「トロイ人たち」第2部、演奏会形式)、ヘンデルの「ジュリアス・シーザー」、ワーグナーの「パルジファル」「ラインの黄金」などを次々に日本初演していた氏の颯爽たる姿が、私にとってはつい昨日のことのように感じられる。
東京都響時代にも、マーラーの交響曲ツィクルスに際して初稿版などを織り込み、かつマーラーと同時代の作曲家によるめずらしい作品を組み合わせたりして、常に一味違ったプログラミングの面白さで私たちを惹きつけていたものであった。
「根っからの劇場人」と自他共に許す若杉氏は、本番前に舞台近辺を一回りすれば、今日は本番で「この壁が倒れそうだな」とか「舞台の灯りが故障して点かなくなるんじゃないかな」というように、「事件」がカンで予想できたと言う。
ドイツと日本でのその長い劇場経験を生かして、新国立劇場オペラ部門芸術監督としても思い切り手腕を振るっていただきたいというのが私たちの願いであったのだが――任期半ばで他界されようとは。
氏が芸術監督に就任して以来、新国立劇場のレパートリーがどれほど拡大したかは、誰もが認めるところであろう。せめてあと数年、氏が芸術監督の地位に留まることができたなら、新国立劇場のオペラはどれほど多彩になることだろう。そう思えば、氏の逝去はあまりに早すぎた。日本のオペラ界が若杉氏に恃むことは、まだ限りなく多かった。