2009-07

7・9(木)ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団

   サントリーホール

 東京最終公演はベートーヴェン・プログラム。前半に、意外に端正で抑制された「交響曲第7番」。後半に、プレトニョフ節全開の「交響曲第5番」。
 曲順をこのようにした理由も、演奏を実際に聴けば理解が行く。2曲の演奏の性格を極端に対照づけるのは、あのマゼールもしばしばやっていたことだ。

 「7番」は、経過句のような個所でぐっとテンポを落すような解釈もしばしば試みていたけれど、最近のプレトニョフとしては予想外にストレートな、かつ音量の上でも端正なバランスを保たせた演奏であった。

 が、「5番」に至るや、冒頭の主題からして一つ一つ叩きつけ、しかもテンポとリズムを微妙に動かしながら進める凝った構築を聴かせ始めて、こちらの時差ボケを吹き飛ばす。
 次の音を出すタイミングを僅かにずらせることもあるので、あたかも自動ドアが自分の予想より少し遅れて開き、そのため思わずぶつかりそうになって慌てる時の気持のような――あるいは行進で一歩を踏み出そうとした時に、周囲が未だ歩き出していないのを見て慌てて控えるような、そんな気持にさせられるようなテンポなのである。

 しかし、プレトニョフの音楽を聴いているうちに、この「運命」の第1楽章には、本来その「リズム感の意外性」という性格が備わっているのではないか――ということに気づかされた。
 そもそもあの有名な「運命の動機」にしてからが、最初の音の前に8分音符の休止が付いているという曲者ぶりなのだし、それ以降でも、小節の1拍目で4分音符を叩きつけながら次の小節の頭に8分音符の休止を入れ、ハッと「間」を取るという不安定な要素を、ベートーヴェンは多用しているからである。
 いわばプレトニョフは、そうしたベートーヴェンの、常識的な感覚通りには事を進めない前衛的な性格に着目し、それを強調しているのではなかろうか、ということだ。

 第1楽章コーダでの最後の第1主題の再現の時には、プレトニョフは文字通り全管弦楽を咆哮させた(かつて彼が何かのピアノ・ソナタを弾いた時に、やはり曲の最後で超人的な恐るべきフォルティシモを響かせたのを思い出す)。後半2楽章は、凄まじい急速テンポである。
 第3楽章後半(第245小節以降、あるいは第281小節以降)のチェロのピチカートは、ファゴットと一緒に演奏されるのだが、あんなに豊麗なふくらみを以て響かせられたのは初めて聴いた。まるでファゴットではなく、ホルンが一緒に吹いているような音色だった。プレトニョフの音色創りの感覚、畏るべしである。

 アンコールはバッハの「管弦楽組曲第3番」からの「アリア」だったが、これもストコフスキー編曲版という、何となくプレトニョフらしい選曲。ジャゾット編曲の「アルビノーニのアダージョ」に似た響きで、主旋律をチェロが受け持つ個所など、きわめて華麗多彩な音色だ。

 第3楽章開始後間もなく、上手寄りP席あたり(?)で、馬鹿でかいクシャミを2回も連発した男は、呪われるべきであろう。咳やクシャミは生理現象だから抑えろと言っても無理だが、ふだんから野放図にやっていると、基本的にfffの音量に設定(?)されてしまうものである。
 以前、某若手来日女性ヴァイオリニストが協奏曲を演奏中、客席前方で無遠慮な巨大な咳払いをした老人がいたため、驚いて音を外してしまい、一瞬演奏が止まりかけた事件があったが、今日の一件はそれに匹敵する。今日はオーケストラだからさすがに演奏は止まらなかったが、我々の方は第3楽章前半の印象がフイになった。テレビ収録の方は、どうなったろう?

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