6・27(土)新国立劇場 清水脩「修禅寺物語」
新国立劇場中劇場
「修禅寺物語」(修善寺ではない)は、岡本綺堂の新歌舞伎を原作として清水脩により作曲され、1954年に初演された、日本オペラの古典的名作である。
初演は関西歌劇団で、指揮は朝比奈隆だったという! どんな演奏だったのだろう?
新国立劇場がこのオペラを取り上げたのは、もちろん今回が最初。
若杉弘が芸術監督として指揮するはずだったが、周知のように惜しくも病を得てしまったため、外山雄三が代わって指揮した。
歌手にとって歌いやすい指揮なのかどうかは別として、彼が指揮した東京交響楽団の演奏は、非常にがっしりとして、堂々たる造りに聞こえたのはたしかである。この作品のオーケストレーションがこれほど分厚く豪快なスケールを持つものだったかということを今回初めて実感、清水修の音楽についても再認識させられた次第である。
演出は坂田藤十郎で、歌舞伎のスタイル――というより、彼がプログラムにも書いているように、歌舞伎における「日本的なもの」の心を取り入れた舞台と言っていいのかもしれない。
音楽が西洋的手法(それもやや保守的な)で作られているため、それと歌舞伎スタイルの演出とが果たしてマッチするのか、あるいは不調和ゆえの面白さとなるのか、そのへんは複雑な問題を含むだろう。ただ、これはこれで楽しかったことは事実だ。
欲を言えば、面作師の夜叉王が自己の芸術に役立てようと瀕死の娘かつらの顔を写生にかかるラストシーンは、もっと鬼気迫る雰囲気(「地獄変」の物語のように)が舞台に欲しいし、娘が「あい」と答えて顔を上げるあたりにも、同様に惨酷な凄味が欲しい。
だがこれは、演じた歌手の演技力の問題かもしれない。
舞台美術(前田剛)はおそろしく古風な、初演の時にはかくこそありしか、といった感じのものだった。
今回は字幕がついていたが、この助けを借りないと何を歌っているんだかよく解らない歌手、見なくても完全に解る歌手、いろいろである。
その中では、源頼家を歌った福井敬が、さすがに歌詞も明瞭で声も楽々と伸び、立居振舞も雰囲気充分だった。
また、夜叉王を歌った木村俊光も(高音域はやはり苦しくなったが)歌詞は明快に聴き取れる歌いぶりである。前記のラストシーンを別とすれば、このような日本の――いっこくものの老人を演じて、見事にベテランの味を出していたといえよう。
頼家を庇って戦い命を落すかつら役の横山恵子と、その妹かえで役の天羽明惠は、声は充分だが、歌詞をもう少し明確に歌ってくれれば――。
その他、かえでの婿・春彦役に樋口達哉、頼家の警護を担当する武士の下田五郎景安に土崎譲、修禅寺の僧に竹澤嘉明、北條方の武士・金窪兵衛尉行親に若林勉。
ともあれ、貴重な意義深い上演であった。世界に通じるものであろうとなかろうと、われわれ日本のオペラ観客にとっては、昨年の「黒船」と同様、このような先人たちの優れた作品を水準の高い演奏で見直し、再認識する機会が絶対に必要である。その意味でも――指揮はできなかったが――芸術監督・若杉弘の企画力を讃えたい。
いつかこのオペラが現代的な舞台装置と演出で上演される時代が来るといいが。
「修禅寺物語」(修善寺ではない)は、岡本綺堂の新歌舞伎を原作として清水脩により作曲され、1954年に初演された、日本オペラの古典的名作である。
初演は関西歌劇団で、指揮は朝比奈隆だったという! どんな演奏だったのだろう?
新国立劇場がこのオペラを取り上げたのは、もちろん今回が最初。
若杉弘が芸術監督として指揮するはずだったが、周知のように惜しくも病を得てしまったため、外山雄三が代わって指揮した。
歌手にとって歌いやすい指揮なのかどうかは別として、彼が指揮した東京交響楽団の演奏は、非常にがっしりとして、堂々たる造りに聞こえたのはたしかである。この作品のオーケストレーションがこれほど分厚く豪快なスケールを持つものだったかということを今回初めて実感、清水修の音楽についても再認識させられた次第である。
演出は坂田藤十郎で、歌舞伎のスタイル――というより、彼がプログラムにも書いているように、歌舞伎における「日本的なもの」の心を取り入れた舞台と言っていいのかもしれない。
音楽が西洋的手法(それもやや保守的な)で作られているため、それと歌舞伎スタイルの演出とが果たしてマッチするのか、あるいは不調和ゆえの面白さとなるのか、そのへんは複雑な問題を含むだろう。ただ、これはこれで楽しかったことは事実だ。
欲を言えば、面作師の夜叉王が自己の芸術に役立てようと瀕死の娘かつらの顔を写生にかかるラストシーンは、もっと鬼気迫る雰囲気(「地獄変」の物語のように)が舞台に欲しいし、娘が「あい」と答えて顔を上げるあたりにも、同様に惨酷な凄味が欲しい。
だがこれは、演じた歌手の演技力の問題かもしれない。
舞台美術(前田剛)はおそろしく古風な、初演の時にはかくこそありしか、といった感じのものだった。
今回は字幕がついていたが、この助けを借りないと何を歌っているんだかよく解らない歌手、見なくても完全に解る歌手、いろいろである。
その中では、源頼家を歌った福井敬が、さすがに歌詞も明瞭で声も楽々と伸び、立居振舞も雰囲気充分だった。
また、夜叉王を歌った木村俊光も(高音域はやはり苦しくなったが)歌詞は明快に聴き取れる歌いぶりである。前記のラストシーンを別とすれば、このような日本の――いっこくものの老人を演じて、見事にベテランの味を出していたといえよう。
頼家を庇って戦い命を落すかつら役の横山恵子と、その妹かえで役の天羽明惠は、声は充分だが、歌詞をもう少し明確に歌ってくれれば――。
その他、かえでの婿・春彦役に樋口達哉、頼家の警護を担当する武士の下田五郎景安に土崎譲、修禅寺の僧に竹澤嘉明、北條方の武士・金窪兵衛尉行親に若林勉。
ともあれ、貴重な意義深い上演であった。世界に通じるものであろうとなかろうと、われわれ日本のオペラ観客にとっては、昨年の「黒船」と同様、このような先人たちの優れた作品を水準の高い演奏で見直し、再認識する機会が絶対に必要である。その意味でも――指揮はできなかったが――芸術監督・若杉弘の企画力を讃えたい。
いつかこのオペラが現代的な舞台装置と演出で上演される時代が来るといいが。