5・28(水)広上淳一指揮水戸室内管弦楽団
水戸芸術館コンサートホールATM
小澤征爾が、腰椎椎間板ヘルニアのため休演。
あの17日の「悲愴交響曲」の時には、そんな体調を微塵も感じさせない凄い演奏だったが、終演後に私が楽屋を覗いた時には「痛くて立っていられないんだよ」と語るほど疲れきった表情で、見るからに痛々しかった。せめて元気づけようと、6月末のウィーン(国立歌劇場)の「スペードの女王」には行きますから、と言うと、「ありがとう。(6月は)3回しか振らないんだけど」と小声で答えていたのであった。だが、結局それもキャンセルになる可能性が強いらしい(ウィーンでは未だ発表されていない)。そしてその前、6月の水戸室内管弦楽団を率いての欧州演奏旅行も、休演になってしまった。腰の痛みがどれほど辛いものかは、経験した者でないとわからない。察するにあまりある。とにかく、1日も早い回復を切に祈るのみである。
水戸室内管の定期では、急遽広上淳一が代わりに客演した。芸術館ではチケット代を割り引き、S席13,000円を8,000円に、B席8,000円を5,000円に、というように変更して、前売客には差額を返金する方法を採った。小澤より広上の方が出演料も廉いのはだれでも想像がつくことだから、お客に対しては正直で良心的であるのはたしかだが、広上に対してはかなり礼を失しているのも事実だろう。私自身も割引料金に変えてもらった手前、彼には申し訳なく思っている。
しかし、その広上が指揮した演奏は、なかなか優れたものであった。初日のためか、両者の呼吸が今一つと感じられる部分は少なからずあったが、2日目以降は改善されたことと思う。
プログラムは、モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」序曲に始まり、ラデク・バボラークのソロで同じく「ホルン協奏曲第3番」、児玉桃のピアノ・ソロで細川俊夫の「月夜の蓮」、最後にベートーヴェンの第4交響曲、アンコールにグリーグの「過ぎし春」というもの。
最初の2曲では、いずれも出だしの音にガリガリした硬質の響きが感じられたが、数秒を出でずして、しなやかな広上のサウンドに変貌して行った。オケ側ではどう感じていたか知らないけれども、少なくとも聴いた側から言えば、広上によってこのオーケストラにこれまでとは異なった色合いが注入されたことには間違いなかろう。バボラークも例の如く巧い。そして「第4交響曲」は、まさに躍動的である。
ただ、「月夜の蓮」だけは、一昨年12月に小澤征爾がこのオーケストラを指揮して日本初演した時の、あのすばらしい演奏に比較すると、残念ながら雲泥の差があるとしか言えぬ。オーケストラの音は濁り気味だし、しかも異様に拍節感が強く(広上の唸り?がいけない)、ピアノの音は打ち消され気味で、作品の性格とはおよそ様相を異にするものになってしまった。
☞音楽の友8月号(7月18日発売)カラー頁
ちなみに2006年12月9日、小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団の演奏による「月夜の蓮」を聴いた時のメモは、以下のようなものであった(この一部は「音楽の友」07年2月号に掲載した)。今回の演奏での印象は、これとは全く違う。
・・・・今日のハイライトは、細川俊夫の新作「月夜の蓮」日本初演である(世界初演は4月7日にハンブルクで、準・メルクルと北ドイツ放送響、児玉桃のソロで行なわれている)。
22分ほどの作品で、モーツァルトの第23番協奏曲第2楽章の fisをキーワードにしたもの。ピアノが蓮の花、オーケストラが水と自然を象徴するという。静かな明るい月の夜に蓮の花は開花に向かってまどろむ、というのが基本のイメージだ、と作曲者は書いている。
しかし、こちらにはいささか異なるイメージで聞こえた。この水面は決して静かで穏やかなものではない。それは常にざわめき、胎動し、時に荒々しく波立つ。池というより湖であろう。いや、湖よりも、海のようにも感じられる。細川が以前から多く書いて海をモティーフにした作品におけると同様、そのざわめきは不気味な深淵を感じさせ、慄然とさせるのだ。
この人のざわめきは、なぜ、いつも翳りがあって、暗いのか。蓮は開くにしても、水の中にそのまま寂しく生き続け、生涯を終ることを自ら慟哭しているかのようである。
最後にモーツァルトのこの楽章の主題がピアノに遠く遠く微かに2度ほど姿を見せるが、これは作品へのオマージュというよりも、過ぎし日の思い出がほろ苦く懐かしく夢の中を霞めていくかのようである。そして曲は、湖畔を渡る風のような響きで終る。
こういった感じ方は、あるいは作曲者の意図したところとは違うかもしれぬが、それはそれでいいだろう。純粋に音だけで考えれば、これは fisを基盤にして浮遊し、また元へ戻るという構成の作品といえよう。いずれにせよ、これは細川俊夫の優れた作品の一つである。
小澤征爾が、腰椎椎間板ヘルニアのため休演。
あの17日の「悲愴交響曲」の時には、そんな体調を微塵も感じさせない凄い演奏だったが、終演後に私が楽屋を覗いた時には「痛くて立っていられないんだよ」と語るほど疲れきった表情で、見るからに痛々しかった。せめて元気づけようと、6月末のウィーン(国立歌劇場)の「スペードの女王」には行きますから、と言うと、「ありがとう。(6月は)3回しか振らないんだけど」と小声で答えていたのであった。だが、結局それもキャンセルになる可能性が強いらしい(ウィーンでは未だ発表されていない)。そしてその前、6月の水戸室内管弦楽団を率いての欧州演奏旅行も、休演になってしまった。腰の痛みがどれほど辛いものかは、経験した者でないとわからない。察するにあまりある。とにかく、1日も早い回復を切に祈るのみである。
水戸室内管の定期では、急遽広上淳一が代わりに客演した。芸術館ではチケット代を割り引き、S席13,000円を8,000円に、B席8,000円を5,000円に、というように変更して、前売客には差額を返金する方法を採った。小澤より広上の方が出演料も廉いのはだれでも想像がつくことだから、お客に対しては正直で良心的であるのはたしかだが、広上に対してはかなり礼を失しているのも事実だろう。私自身も割引料金に変えてもらった手前、彼には申し訳なく思っている。
しかし、その広上が指揮した演奏は、なかなか優れたものであった。初日のためか、両者の呼吸が今一つと感じられる部分は少なからずあったが、2日目以降は改善されたことと思う。
プログラムは、モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」序曲に始まり、ラデク・バボラークのソロで同じく「ホルン協奏曲第3番」、児玉桃のピアノ・ソロで細川俊夫の「月夜の蓮」、最後にベートーヴェンの第4交響曲、アンコールにグリーグの「過ぎし春」というもの。
最初の2曲では、いずれも出だしの音にガリガリした硬質の響きが感じられたが、数秒を出でずして、しなやかな広上のサウンドに変貌して行った。オケ側ではどう感じていたか知らないけれども、少なくとも聴いた側から言えば、広上によってこのオーケストラにこれまでとは異なった色合いが注入されたことには間違いなかろう。バボラークも例の如く巧い。そして「第4交響曲」は、まさに躍動的である。
ただ、「月夜の蓮」だけは、一昨年12月に小澤征爾がこのオーケストラを指揮して日本初演した時の、あのすばらしい演奏に比較すると、残念ながら雲泥の差があるとしか言えぬ。オーケストラの音は濁り気味だし、しかも異様に拍節感が強く(広上の唸り?がいけない)、ピアノの音は打ち消され気味で、作品の性格とはおよそ様相を異にするものになってしまった。
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ちなみに2006年12月9日、小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団の演奏による「月夜の蓮」を聴いた時のメモは、以下のようなものであった(この一部は「音楽の友」07年2月号に掲載した)。今回の演奏での印象は、これとは全く違う。
・・・・今日のハイライトは、細川俊夫の新作「月夜の蓮」日本初演である(世界初演は4月7日にハンブルクで、準・メルクルと北ドイツ放送響、児玉桃のソロで行なわれている)。
22分ほどの作品で、モーツァルトの第23番協奏曲第2楽章の fisをキーワードにしたもの。ピアノが蓮の花、オーケストラが水と自然を象徴するという。静かな明るい月の夜に蓮の花は開花に向かってまどろむ、というのが基本のイメージだ、と作曲者は書いている。
しかし、こちらにはいささか異なるイメージで聞こえた。この水面は決して静かで穏やかなものではない。それは常にざわめき、胎動し、時に荒々しく波立つ。池というより湖であろう。いや、湖よりも、海のようにも感じられる。細川が以前から多く書いて海をモティーフにした作品におけると同様、そのざわめきは不気味な深淵を感じさせ、慄然とさせるのだ。
この人のざわめきは、なぜ、いつも翳りがあって、暗いのか。蓮は開くにしても、水の中にそのまま寂しく生き続け、生涯を終ることを自ら慟哭しているかのようである。
最後にモーツァルトのこの楽章の主題がピアノに遠く遠く微かに2度ほど姿を見せるが、これは作品へのオマージュというよりも、過ぎし日の思い出がほろ苦く懐かしく夢の中を霞めていくかのようである。そして曲は、湖畔を渡る風のような響きで終る。
こういった感じ方は、あるいは作曲者の意図したところとは違うかもしれぬが、それはそれでいいだろう。純粋に音だけで考えれば、これは fisを基盤にして浮遊し、また元へ戻るという構成の作品といえよう。いずれにせよ、これは細川俊夫の優れた作品の一つである。