3・31(月)METライブビューイング「ピーター・グライムズ」
品川プリンスシネマ
メトロポリタン・オペラでの上演を生中継あるいはビデオ収録により映画館で公開するシリーズの、今シーズンの5作目。
たとえ映画でもMETの雰囲気を堪能でき、自分も現場に行きたくなる。私がこの企画を大いに高く評価しているゆえんだ。
今回は、再生音量も抑制され、聴きやすくなった。昨シーズンのシリーズに比べてオーケストラのステレオ的な拡がりがに不足するのだけが解せないが、今日はなぜか後半で音に拡がりと量感が生まれてきた。
ドナルド・ラニクルズの指揮は少々アピールに乏しいけれど、この音楽が実に良くできていることを認識させてくれるだけのものは備えている。
事実これは、いわゆる悪しき群集心理、村八分、悪質ないじめ、被害者を弁護する少数の人々への嫌がらせ、といったものを恐ろしく巧く描いている音楽なのだ。
ヴィクトル・ユゴーが、自分の戯曲をオペラ化した「リゴレット」を聴き、「4人が同時に自分の考えを喋り、しかもそれが解る、などとは、聴くまでは信じられぬことだった」と驚いたとかいう話があるが、この「ピーター・グライムズ」もまたそうした一例であろう。一人の語ることが瞬時に悪意ある噂と化して村人の間に広まっていく模様を、ブリテンは見事に同時進行で描き出す。
ジョン・ドイルの演出は、登場人物の心理表現は行なわれているものの、巨大な壁(これが主人公迫害の象徴であり、矮小な群集心理しか生まぬ小さな漁村であることの象徴であることくらいは誰にでも解る)の前だけでの演技では、あたかもホール・オペラかセミ・ステージかといった趣きで、演劇的な面白さは甚だ少なく、単調さを免れない。
アンソニー・ディーン・グリフェイ(ピーター)、パトリシア・ラセット(エレン)、アンソニー・マイケルズ=ムーア(船長)ら歌手陣は安定した実力だが、ピーターが自暴自棄に追い詰められていく危機的情景を描くには、やはりこの演出では限界があった。
メトロポリタン・オペラでの上演を生中継あるいはビデオ収録により映画館で公開するシリーズの、今シーズンの5作目。
たとえ映画でもMETの雰囲気を堪能でき、自分も現場に行きたくなる。私がこの企画を大いに高く評価しているゆえんだ。
今回は、再生音量も抑制され、聴きやすくなった。昨シーズンのシリーズに比べてオーケストラのステレオ的な拡がりがに不足するのだけが解せないが、今日はなぜか後半で音に拡がりと量感が生まれてきた。
ドナルド・ラニクルズの指揮は少々アピールに乏しいけれど、この音楽が実に良くできていることを認識させてくれるだけのものは備えている。
事実これは、いわゆる悪しき群集心理、村八分、悪質ないじめ、被害者を弁護する少数の人々への嫌がらせ、といったものを恐ろしく巧く描いている音楽なのだ。
ヴィクトル・ユゴーが、自分の戯曲をオペラ化した「リゴレット」を聴き、「4人が同時に自分の考えを喋り、しかもそれが解る、などとは、聴くまでは信じられぬことだった」と驚いたとかいう話があるが、この「ピーター・グライムズ」もまたそうした一例であろう。一人の語ることが瞬時に悪意ある噂と化して村人の間に広まっていく模様を、ブリテンは見事に同時進行で描き出す。
ジョン・ドイルの演出は、登場人物の心理表現は行なわれているものの、巨大な壁(これが主人公迫害の象徴であり、矮小な群集心理しか生まぬ小さな漁村であることの象徴であることくらいは誰にでも解る)の前だけでの演技では、あたかもホール・オペラかセミ・ステージかといった趣きで、演劇的な面白さは甚だ少なく、単調さを免れない。
アンソニー・ディーン・グリフェイ(ピーター)、パトリシア・ラセット(エレン)、アンソニー・マイケルズ=ムーア(船長)ら歌手陣は安定した実力だが、ピーターが自暴自棄に追い詰められていく危機的情景を描くには、やはりこの演出では限界があった。