3・9(日)アルミンク指揮新日本フィル ブリテン「戦争レクィエム」
すみだトリフォニーホール
ふだんめったに上演されない大曲が短期間のうちに鉢合わせするという事例が、ここにもまた一つ。今日のアルミンク&新日本フィルに続いて、今月23日にも高関健と群馬交響楽団がこの同じホールで「戦争レクィエム」を演奏することになっている。さしずめ、第1次大戦と第2次大戦、というところか。
今日の演奏会は、「すみだ平和祈念コンサート」と題されたものだ。
演奏はきわめて充実していた。オーケストラをはじめ、栗友会合唱団と東京少年少女合唱隊、ソリストのジェラルディン・マクグリーヴィ(S)、ロバート・マーレイ(T)、石野繁生(Bs)ら、総力を挙げての熱演といってよかった。アルミンクの音楽構築もきわめてスケールが大きく、その設計はやはり卓越したものである。色彩的な響きがドラマティックな拡がりを作品に与え、ブリテンの音楽を燃え立つように活気のあるものとしている。
なお石野は、昨年のアルミンクの指揮による「ローエングリン」で布告官役を歌い、目覚しい力量を見せていた歌手だが、今日も劇的かつ緊迫感ある歌唱を聴かせ、ソリストの中でも抜きん出た存在感を示した。現在シュトゥットガルト・オペラの専属というが、今後が楽しみである。
そういえば今日は、平成20年3月9日。昭和20年3月9日深夜のいわゆる「東京大空襲」で、10万の人々が炎の中で命を落としてから、63年が経つ。
当夜の模様は、多くの人たちの日記などで語り継がれている。書き手の名は忘れたが、何かの本に、
「東京方面の空が真っ赤である。ここからはそれしか見えないが、あの真っ赤な空の下で、大勢の人々が火の中を逃げまどっているのだと思うと、居ても立ってもいられない思いがする」と書いてあったのを読んだことがある。恐ろしい文章だ。また、世田谷方面に住んでいた作家の伊藤整は、「太平洋戦争日記」に、
「・・・・いつもとちがって敵機は多く東の方房総半島上空を経て東京に侵入しているらしく・・・・この巨大な炉のように燃えさかった東京の市内に、後から後からと油と焚き付けとを投げ込んでいるのだ・・・・あの広大な燃える旧市内の中で、多くの人々の家庭が焼かれ、死人が出、人々が右往左往し、あらゆるものが灰燼となって行くのだ。東京は燃えている・・・・」(第3巻269頁)と書き残している。
私の父は、当時帝大(現・東大)教授だったが、たまたまその夜は、本郷校舎で宿直当番をつとめていた。その時の日記には、こうある。
「南方上空より敵機B29、未だかつてあらざる低空にて、探照灯に巨大な銀色の翼を輝かせつつ、頭上を北に飛ぶ。高射砲の響き猛然たり・・・・早くも焼夷弾を落したりと見え、上野広小路らしき方向に空の明るくなるを望見す。敵機の頭上になき短時間をうががひて、校舎内を馳せ廻り警戒す。其の内に西北方に火の手上り、騒然たる火災の物音も聞こえ、又池の端方面の火事も拡大せりと見えて、東西の硝子窓、至る所赤色になり来る。風は強く、西北より盛んに火の粉を送り来る。それでも初めは概ね少数にて、地面にて少時にして消える程度なりしが、段々と雪の如く繁くなり、消えぬものも多くなり、危険増大す。空は黒煙に閉ざされ、高くは見えず。敵機はその煙の内より爆音高く近づきては幽霊の如く現はれ、又去る・・・・雨の如く焼夷弾を落し、その余燼の中空に残るが花火の如く見ゆ」。
ちなみに、誤解している人も少なくないようだが、東京空襲はこの日の夜に限ったものではない。それどころか、1月下旬から5月末まで、ほとんど連日のように行なわれていたのである。その都度多くの家屋が焼け、多くの無辜の人々が命を落したのだった。東京が焦土と化したあとは、今度は地方都市が軒並み爆撃された。
私自身はやっと物心ついた頃だったが、火の中を逃げまどったという体験はない。5月25日深夜の山の手地区空襲(最後の東京大空襲)の際に自宅と近隣一帯が全焼した時も、家族とともに庭の一角にあった防空壕の中で身を潜めていた。しかし、近所に住んでいた人たちは、みんな頭から水をかぶって、そのまま近くの雅叙園の庭園に逃げたそうだ。この23日と25日の夜の、山の手方面への空襲は大規模だった。青山に住んでいた人の手記に、
「一家全員で青山通りに逃げたが、すでにここも一面火の海であった」とあったのを、何かで読んだことがある。
逃げ場を失った何万という人々が火の中に巻き込まれていく光景は、想像しただけでも恐ろしい。しかし、あの時代には、現実にそのようなことが起こっていたのだ。戦争とはそういうものなのである。
それゆえ、この「戦争レクィエム」の大詰めで、テノールとバリトンが「Let us sleep now・・・・(さあ、もう眠ろう)」と繰り返す部分は、単に戦場で散った兵士の霊が交わす言葉というものを超えて、空襲の下で命を失った人たちすべての言葉とも聞こえ、聴き手を凝然とさせるだろう。その言葉が、ソプラノ・ソロと少年合唱のハーモニーに囲まれて溶暗していく終結には、涙が滲むような思いをおさえきれない。私も年齢のせいか、どうやら涙もろくなってきているらしい。この曲は「レクィエム」だが、キリスト教徒でなくても充分に共感できるものを持っている。
ふだんめったに上演されない大曲が短期間のうちに鉢合わせするという事例が、ここにもまた一つ。今日のアルミンク&新日本フィルに続いて、今月23日にも高関健と群馬交響楽団がこの同じホールで「戦争レクィエム」を演奏することになっている。さしずめ、第1次大戦と第2次大戦、というところか。
今日の演奏会は、「すみだ平和祈念コンサート」と題されたものだ。
演奏はきわめて充実していた。オーケストラをはじめ、栗友会合唱団と東京少年少女合唱隊、ソリストのジェラルディン・マクグリーヴィ(S)、ロバート・マーレイ(T)、石野繁生(Bs)ら、総力を挙げての熱演といってよかった。アルミンクの音楽構築もきわめてスケールが大きく、その設計はやはり卓越したものである。色彩的な響きがドラマティックな拡がりを作品に与え、ブリテンの音楽を燃え立つように活気のあるものとしている。
なお石野は、昨年のアルミンクの指揮による「ローエングリン」で布告官役を歌い、目覚しい力量を見せていた歌手だが、今日も劇的かつ緊迫感ある歌唱を聴かせ、ソリストの中でも抜きん出た存在感を示した。現在シュトゥットガルト・オペラの専属というが、今後が楽しみである。
そういえば今日は、平成20年3月9日。昭和20年3月9日深夜のいわゆる「東京大空襲」で、10万の人々が炎の中で命を落としてから、63年が経つ。
当夜の模様は、多くの人たちの日記などで語り継がれている。書き手の名は忘れたが、何かの本に、
「東京方面の空が真っ赤である。ここからはそれしか見えないが、あの真っ赤な空の下で、大勢の人々が火の中を逃げまどっているのだと思うと、居ても立ってもいられない思いがする」と書いてあったのを読んだことがある。恐ろしい文章だ。また、世田谷方面に住んでいた作家の伊藤整は、「太平洋戦争日記」に、
「・・・・いつもとちがって敵機は多く東の方房総半島上空を経て東京に侵入しているらしく・・・・この巨大な炉のように燃えさかった東京の市内に、後から後からと油と焚き付けとを投げ込んでいるのだ・・・・あの広大な燃える旧市内の中で、多くの人々の家庭が焼かれ、死人が出、人々が右往左往し、あらゆるものが灰燼となって行くのだ。東京は燃えている・・・・」(第3巻269頁)と書き残している。
私の父は、当時帝大(現・東大)教授だったが、たまたまその夜は、本郷校舎で宿直当番をつとめていた。その時の日記には、こうある。
「南方上空より敵機B29、未だかつてあらざる低空にて、探照灯に巨大な銀色の翼を輝かせつつ、頭上を北に飛ぶ。高射砲の響き猛然たり・・・・早くも焼夷弾を落したりと見え、上野広小路らしき方向に空の明るくなるを望見す。敵機の頭上になき短時間をうががひて、校舎内を馳せ廻り警戒す。其の内に西北方に火の手上り、騒然たる火災の物音も聞こえ、又池の端方面の火事も拡大せりと見えて、東西の硝子窓、至る所赤色になり来る。風は強く、西北より盛んに火の粉を送り来る。それでも初めは概ね少数にて、地面にて少時にして消える程度なりしが、段々と雪の如く繁くなり、消えぬものも多くなり、危険増大す。空は黒煙に閉ざされ、高くは見えず。敵機はその煙の内より爆音高く近づきては幽霊の如く現はれ、又去る・・・・雨の如く焼夷弾を落し、その余燼の中空に残るが花火の如く見ゆ」。
ちなみに、誤解している人も少なくないようだが、東京空襲はこの日の夜に限ったものではない。それどころか、1月下旬から5月末まで、ほとんど連日のように行なわれていたのである。その都度多くの家屋が焼け、多くの無辜の人々が命を落したのだった。東京が焦土と化したあとは、今度は地方都市が軒並み爆撃された。
私自身はやっと物心ついた頃だったが、火の中を逃げまどったという体験はない。5月25日深夜の山の手地区空襲(最後の東京大空襲)の際に自宅と近隣一帯が全焼した時も、家族とともに庭の一角にあった防空壕の中で身を潜めていた。しかし、近所に住んでいた人たちは、みんな頭から水をかぶって、そのまま近くの雅叙園の庭園に逃げたそうだ。この23日と25日の夜の、山の手方面への空襲は大規模だった。青山に住んでいた人の手記に、
「一家全員で青山通りに逃げたが、すでにここも一面火の海であった」とあったのを、何かで読んだことがある。
逃げ場を失った何万という人々が火の中に巻き込まれていく光景は、想像しただけでも恐ろしい。しかし、あの時代には、現実にそのようなことが起こっていたのだ。戦争とはそういうものなのである。
それゆえ、この「戦争レクィエム」の大詰めで、テノールとバリトンが「Let us sleep now・・・・(さあ、もう眠ろう)」と繰り返す部分は、単に戦場で散った兵士の霊が交わす言葉というものを超えて、空襲の下で命を失った人たちすべての言葉とも聞こえ、聴き手を凝然とさせるだろう。その言葉が、ソプラノ・ソロと少年合唱のハーモニーに囲まれて溶暗していく終結には、涙が滲むような思いをおさえきれない。私も年齢のせいか、どうやら涙もろくなってきているらしい。この曲は「レクィエム」だが、キリスト教徒でなくても充分に共感できるものを持っている。