1・20(日)チェコ国立ブルノ歌劇場「タンホイザー」
茅ヶ崎市民文化会館
おそろしくレトロな舞台。いまどき珍しい。
演出・演技など、あって無きが如しだし、ヴェーヌスブルクのことが語られる時には必ず背景にヴェーヌス配下(?)の踊り手が登場する、といったような陳腐な手法も見られる。これに比べれば、あれこれ言われた新国立劇場のプロダクションの方が、まだしも現代のオペラ・プロダクションとしての掘り下げを試みていたといっていいだろう。
いくらレトロであっても、音楽的にしっかりしていれば、一向構わない。
だが、中心的存在の3人の歌手がそろって頼りないのだから困る。エリーザベトは素人の水準だし、タンホイザーはブレスが短くて音楽に流れが無く、ヴォルフラムは音程が悪くて野放図な歌いぶりだ。とりわけこのヴォルフラム役のバリトンは、以前ドン・ジョヴァンニを聴いた時にはなかなかのものだったのに、今回はどうしたことだろう。
それに指揮者ときたら、序曲の時からフレーズをぶつ切りにする癖が目立っていただけでなく、音楽に緊迫感が皆無である。「エリーザベトの祈り」のあとの木管のハーモニーの進行の個所での音楽の弛緩、ヴェーヌスとタンホイザーとヴォルフラムの3人が争う場面での演奏の単調さなど、もはや呆れるほどだ。
チケットなどには、堂々と「パリ版」と印刷されているのに、実際に使用されたのはドレスデン版であった。しかも第2幕では、最後のアンサンブルの中で先日の新国立劇場での上演と全く同じ形の強引な大幅カットが行なわれていたのに加え、その少し前のエリーザベトの「待って下さい!」のあと、彼女と人々が激しく応酬する緊迫した部分もカットされていた(こんな変なカットには今まで出会ったことがない)。これらは、作品に対する冒涜の行為以外の何ものでもない。
えらいオペラに来てしまった、という体験はこれまでにもなかったわけではないが、17,000円をチケット代に費やした今夜のオペラも、まさにそれであった。当初の予定通り、神奈川県立音楽堂の「オルフェオ」に行くべきだったと臍を噛んだ次第である。
おそろしくレトロな舞台。いまどき珍しい。
演出・演技など、あって無きが如しだし、ヴェーヌスブルクのことが語られる時には必ず背景にヴェーヌス配下(?)の踊り手が登場する、といったような陳腐な手法も見られる。これに比べれば、あれこれ言われた新国立劇場のプロダクションの方が、まだしも現代のオペラ・プロダクションとしての掘り下げを試みていたといっていいだろう。
いくらレトロであっても、音楽的にしっかりしていれば、一向構わない。
だが、中心的存在の3人の歌手がそろって頼りないのだから困る。エリーザベトは素人の水準だし、タンホイザーはブレスが短くて音楽に流れが無く、ヴォルフラムは音程が悪くて野放図な歌いぶりだ。とりわけこのヴォルフラム役のバリトンは、以前ドン・ジョヴァンニを聴いた時にはなかなかのものだったのに、今回はどうしたことだろう。
それに指揮者ときたら、序曲の時からフレーズをぶつ切りにする癖が目立っていただけでなく、音楽に緊迫感が皆無である。「エリーザベトの祈り」のあとの木管のハーモニーの進行の個所での音楽の弛緩、ヴェーヌスとタンホイザーとヴォルフラムの3人が争う場面での演奏の単調さなど、もはや呆れるほどだ。
チケットなどには、堂々と「パリ版」と印刷されているのに、実際に使用されたのはドレスデン版であった。しかも第2幕では、最後のアンサンブルの中で先日の新国立劇場での上演と全く同じ形の強引な大幅カットが行なわれていたのに加え、その少し前のエリーザベトの「待って下さい!」のあと、彼女と人々が激しく応酬する緊迫した部分もカットされていた(こんな変なカットには今まで出会ったことがない)。これらは、作品に対する冒涜の行為以外の何ものでもない。
えらいオペラに来てしまった、という体験はこれまでにもなかったわけではないが、17,000円をチケット代に費やした今夜のオペラも、まさにそれであった。当初の予定通り、神奈川県立音楽堂の「オルフェオ」に行くべきだったと臍を噛んだ次第である。