11・25(日)こびと〜王女様の誕生日
滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール (マチネー 2時)
己の姿を一度も鏡で見たことのない「こびと」が、無邪気で惨酷な王女から鏡を見るように仕向けられ、自らの醜い姿に衝撃を受けるという、オスカー・ワイルド原作、ツェムリンスキー作曲の一幕ものオペラ。
そのラストシーン、こびとが白いバラを握りしめ、「(私の醜さは)嘘だと言ってくれ」と王女に嘆願しながら死んで行く場面は、ツェムリンスキー自身をソデにしたアルマ・マーラーへの怨念が渦巻いているようで、何度観ても暗鬱な気分にさせられる。
若杉弘の後任として今年4月、びわ湖ホールの芸術監督に就任した沼尻竜典が、新しく「沼尻竜典オペラセレクション」というシリーズを開始した。その第1作として選ばれたのが、この「こびと〜王女様の誕生日」である。近代・現代音楽のレパートリーに最大の強みを発揮する沼尻としては、当然の選択だろう。
ましてこのオペラは、彼が2001年3月に東京フィルの「オペラコンチェルタンテ」でも指揮し、見事な出来を示した作品でもあるからだ。
今回の演奏もきわめて聴き応えのあるもので、福井敬(こびと)、高橋薫子(侍女ギータ)という、6年前にも同じ役を歌っていた2人が実に良い味を出した。福井は、以前ほどには声の艶を感じさせないが、それでも熱演歌唱賞ものである。高橋の安定した軽快な歌唱は、いつ聴いてもすばらしい。
ただし吉原圭子(王女)は、はしゃぎ過ぎの性格表現が少し裏目に出たか。京都市交響楽団にも、もっと緻密な演奏を望みたい。
演出は加藤直。
王女にただ冷酷さと惨酷さを求めず、無邪気で冗談好きな性格がこびとを傷つける結果を生む、という設定にし、またギータには単に同情深さだけを求めず、どこかにこびとを突き放すような冷たさをも感じさせる、といったように、女の複雑な性格構造を描き出そうとした・・・・と推察できる個所もいくつかあったのだが、全体としてそれが明確に感じられなかったところからすると、どうやらそれは、こちらの勝手な思い込みかもしれない。
いずれにせよ、主人公のこびとを含め、演技には細密精緻な心理描写があまり見られず、中途半端に様式的なものへの妥協にとどまった感がある。2年前に二期会が上演した「フィレンツェの悲劇」におけるカロリーネ・グルーバーのリアルで生々しい「演劇的」演出を思えば、ツェムリンスキーのオペラなら、もっと大胆で先鋭的な試みがあってもいいのではないか。
日本では、演劇の演出家がオペラを演出する時、どうしてみんな旧来のオペラの手法に妥協してしまうのか、不思議だ。
己の姿を一度も鏡で見たことのない「こびと」が、無邪気で惨酷な王女から鏡を見るように仕向けられ、自らの醜い姿に衝撃を受けるという、オスカー・ワイルド原作、ツェムリンスキー作曲の一幕ものオペラ。
そのラストシーン、こびとが白いバラを握りしめ、「(私の醜さは)嘘だと言ってくれ」と王女に嘆願しながら死んで行く場面は、ツェムリンスキー自身をソデにしたアルマ・マーラーへの怨念が渦巻いているようで、何度観ても暗鬱な気分にさせられる。
若杉弘の後任として今年4月、びわ湖ホールの芸術監督に就任した沼尻竜典が、新しく「沼尻竜典オペラセレクション」というシリーズを開始した。その第1作として選ばれたのが、この「こびと〜王女様の誕生日」である。近代・現代音楽のレパートリーに最大の強みを発揮する沼尻としては、当然の選択だろう。
ましてこのオペラは、彼が2001年3月に東京フィルの「オペラコンチェルタンテ」でも指揮し、見事な出来を示した作品でもあるからだ。
今回の演奏もきわめて聴き応えのあるもので、福井敬(こびと)、高橋薫子(侍女ギータ)という、6年前にも同じ役を歌っていた2人が実に良い味を出した。福井は、以前ほどには声の艶を感じさせないが、それでも熱演歌唱賞ものである。高橋の安定した軽快な歌唱は、いつ聴いてもすばらしい。
ただし吉原圭子(王女)は、はしゃぎ過ぎの性格表現が少し裏目に出たか。京都市交響楽団にも、もっと緻密な演奏を望みたい。
演出は加藤直。
王女にただ冷酷さと惨酷さを求めず、無邪気で冗談好きな性格がこびとを傷つける結果を生む、という設定にし、またギータには単に同情深さだけを求めず、どこかにこびとを突き放すような冷たさをも感じさせる、といったように、女の複雑な性格構造を描き出そうとした・・・・と推察できる個所もいくつかあったのだが、全体としてそれが明確に感じられなかったところからすると、どうやらそれは、こちらの勝手な思い込みかもしれない。
いずれにせよ、主人公のこびとを含め、演技には細密精緻な心理描写があまり見られず、中途半端に様式的なものへの妥協にとどまった感がある。2年前に二期会が上演した「フィレンツェの悲劇」におけるカロリーネ・グルーバーのリアルで生々しい「演劇的」演出を思えば、ツェムリンスキーのオペラなら、もっと大胆で先鋭的な試みがあってもいいのではないか。
日本では、演劇の演出家がオペラを演出する時、どうしてみんな旧来のオペラの手法に妥協してしまうのか、不思議だ。