11・17 マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団
ミューザ川崎シンフォニーホール 6時
マチネーが4時少し前に終ったあと、山手線で品川へ出て、東海道線に乗り換え、川崎へ。正味45分程度。早い。
先日、ゲルギエフ指揮する東京交響楽団の演奏を聴いた時には、このホールの巨大な音響空間を完璧に満たすのは、やはりよほどのオーケストラでなければ至難の業なのではないかと改めて思ったのだが、今日のバイエルン放送響は、マーラーの第5交響曲でそれをいとも易々と達成してしまっていた。しかもそれは大音響の個所だけではなく、第4楽章(アダージェット)での最弱奏の時にさえ、そのたっぷりとした弦の響きがホールをいっぱいに満たしていたのである。単なる物理的なものとは異なるこの音楽の大きさは、一体何処から生まれてくるのだろう。
私の好きなオーケストラの音、つまり厚みのある重量感と、内声の精妙で明晰な動きとを、ともに備えた音。それが画然と堪能できるホールは、日本にはそう多くはないが、このミューザ川崎では、卓越したオーケストラの場合には、それが可能になるようだ。もっとも、聴く席の位置による。私の好きなのは3階席正面。ここがいちばん手頃だろう。もっとも席の位置というのは、聴き手の好み次第だが。
マチネーが4時少し前に終ったあと、山手線で品川へ出て、東海道線に乗り換え、川崎へ。正味45分程度。早い。
先日、ゲルギエフ指揮する東京交響楽団の演奏を聴いた時には、このホールの巨大な音響空間を完璧に満たすのは、やはりよほどのオーケストラでなければ至難の業なのではないかと改めて思ったのだが、今日のバイエルン放送響は、マーラーの第5交響曲でそれをいとも易々と達成してしまっていた。しかもそれは大音響の個所だけではなく、第4楽章(アダージェット)での最弱奏の時にさえ、そのたっぷりとした弦の響きがホールをいっぱいに満たしていたのである。単なる物理的なものとは異なるこの音楽の大きさは、一体何処から生まれてくるのだろう。
私の好きなオーケストラの音、つまり厚みのある重量感と、内声の精妙で明晰な動きとを、ともに備えた音。それが画然と堪能できるホールは、日本にはそう多くはないが、このミューザ川崎では、卓越したオーケストラの場合には、それが可能になるようだ。もっとも、聴く席の位置による。私の好きなのは3階席正面。ここがいちばん手頃だろう。もっとも席の位置というのは、聴き手の好み次第だが。
11・17(土)ジュリア・ジョーンズ指揮読売日本交響楽団
東京芸術劇場 2時
英国出身の美女指揮者ジュリア・ジョーンズは、2年前にウィーン国立歌劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」を指揮していたのを聴いたことがある。きびきびした指揮ぶりだったが、オーケストラの演奏の方はそれほどきびきびしていなかったような記憶もある。
長身でスラリとして、カッコいい人だ。それにしても、いま広く活躍している女性指揮者は、何故みんなこう、同じような体型をしているのでしょうね。そういうスタイルでないと、人気が出ないのかしらん。
皮肉屋で有名だった往年の名指揮者ビーチャム卿が、こう言ったそうだ。「女の指揮者は困る。彼女が美人だったら、楽員は気が散って演奏できまい。その逆だったら、ますます演奏できまい」。
で、今日の読売日響は、少し気が散っていたんではなかろうか。どうもいつもより、演奏が少し散漫で、集中力に欠けているような感じもあった。マチネーだったせいか?
プログラムは、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、ブロンフマンをソリストに迎えてのベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」、ワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」、R・シュトラウスの「死と変容」。
このうち1曲目と、アンコールでのワーグナーの「ローエングリン」第3幕前奏曲が比較的引き締まった演奏だったのは、ふだん慣れている曲だったからか。
「葬送行進曲」でのジョーンズの速めのテンポには、あまり共感できない。このテンポだと、ディミヌエンドの個所のリズムが極端に軽くなり、葬送のイメージどころか、まるで踊るような足取りに化けてしまうからだ。だが世の中には、こういうテンポを採る指揮者の方が多いのだ。なお、今日のこの曲のエンディングは、もちろん演奏会用ヴァージョンだが、金管群を除外した、風変わりな編曲だった。
英国出身の美女指揮者ジュリア・ジョーンズは、2年前にウィーン国立歌劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」を指揮していたのを聴いたことがある。きびきびした指揮ぶりだったが、オーケストラの演奏の方はそれほどきびきびしていなかったような記憶もある。
長身でスラリとして、カッコいい人だ。それにしても、いま広く活躍している女性指揮者は、何故みんなこう、同じような体型をしているのでしょうね。そういうスタイルでないと、人気が出ないのかしらん。
皮肉屋で有名だった往年の名指揮者ビーチャム卿が、こう言ったそうだ。「女の指揮者は困る。彼女が美人だったら、楽員は気が散って演奏できまい。その逆だったら、ますます演奏できまい」。
で、今日の読売日響は、少し気が散っていたんではなかろうか。どうもいつもより、演奏が少し散漫で、集中力に欠けているような感じもあった。マチネーだったせいか?
プログラムは、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、ブロンフマンをソリストに迎えてのベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」、ワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」、R・シュトラウスの「死と変容」。
このうち1曲目と、アンコールでのワーグナーの「ローエングリン」第3幕前奏曲が比較的引き締まった演奏だったのは、ふだん慣れている曲だったからか。
「葬送行進曲」でのジョーンズの速めのテンポには、あまり共感できない。このテンポだと、ディミヌエンドの個所のリズムが極端に軽くなり、葬送のイメージどころか、まるで踊るような足取りに化けてしまうからだ。だが世の中には、こういうテンポを採る指揮者の方が多いのだ。なお、今日のこの曲のエンディングは、もちろん演奏会用ヴァージョンだが、金管群を除外した、風変わりな編曲だった。